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芦ノ湖の成り立ちと湖底木について~その1
【芦ノ湖誕生のメカニズム】
※明治三十年(一八九七)、箱根火山研究を発表した石井八万次郎、その翌年、箱根熱海両火山地質調査報文を発表した平林武などの論文による逆さ杉の考察より参照
両者とも、中央火口丘神山の大破裂で破壊された神山山体が土石流となり、仙石原に流下し、平原を二分した。平原の上流部に塞ぎ止め湖芦ノ湖が生まれた。平原に茂っていた老杉などが芦ノ湖中に没したと述べている。
【木原均と共同研究者による実際の芦ノ湖の逆さ杉の調査】
この調査は昭和四十六年に始められました。水中に潜って湖底木の分布や樹木の産状を観察した。湖底木の多くは根をしっかりと湖底にはり、その様子はこれらの樹木がかつてカルデラ平原を覆っていた森林の名残であると強く印象づけられた(木原生物学研究所 一九七四、山下 一九七五)
①木原グループが採集した湖底木八点のC-14年代の内、四点は約一六〇〇BPとなった。湖底木の産状からすると芦ノ湖を生んだ神山の蒸気爆発と湖底木の年代はほぼ一致するはずであるから、神山の蒸気爆発は一六〇〇BP(古墳時代初期)と推定した。
②これより先、火山灰層序学(テフラ クロノロジー)的手法によって、町田洋(一九六四、一九七一)は神山水蒸気爆発を縄文後期(約四〇〇〇年前)としていた。その理由は、この山崩れ堆積物を覆う新富士起源のテフラである仙石スコリア層と砂沢スコリア層とが縄文後期の考古学的遺跡と結びつけられていることである。
その後、大木・袴田(一九七五)は湖尻の工事現場で発掘された神山山崩れ堆積物中の神代杉木片を学習院大・木越研究室に送りC-14年代を求めたところ三一〇〇年となった。神山冠ヶ岳尖塔の出現に伴って放出された大涌谷火砕流中のナラ炭化木片の年代は二九〇〇BPであった。いずれも縄文後期を示し、町田の見解を支持している。
【つまり大雑把に言うと、縄文時代にも逆さ杉が出来て、古墳時代にも出来ている】
芦ノ湖誕生の縄文後期(三一〇〇年前)と逆さ杉の年代、古墳時代初期(一六〇〇年前)との一五〇〇年の年代差をどのように説明すべきであろうか。大木・袴田は湖底木は湖が生まれた後に立ったまま湖中に入ったと考えた。今から一六〇〇年前、古墳時代初期、南関東内陸部でマグニチュード8級の巨大地震が発生し、カルデラ西壁に生えていた樹木が立ったまま山津波に乗って湖中に移動したのである。その後、「逆さ杉を地震の化石にみたてて」神奈川県温泉地学研究所が芦ノ湖の逆さ杉による南関東の巨大地震編年の研究を進めている。
図7はこれまでの調査で採集された湖底木の分布である。温地研の採集した二六本の湖底木は県林業試験所で樹種の鑑定がなされ、杉が一三本、檜が四本、樅が三本、バラ科の木が三本、シキミ(樒)が二本、広葉樹で樹種不明一と判定された(鈴木・角田 一九八一)。逆さ杉と呼ばれているが、すべてが杉ではなく色々の樹種が含まれている。杉が圧倒的に多いので、湖底木を杉で代表させて「逆さ杉」と呼んでいる。
図8は湖底木のC-14年代測定結果を年代別ヒストグラムに整理したものである。図8のヒストグラムに三つのピークが認められ、各ピークにはいる試料の算術平均年代は一〇四六BP(約一〇五〇年前)、一五九八BP(約一六〇〇年前)、二〇七四BP(約二一〇〇年前)となった。
箱根付近で逆さ杉を形成した巨大変動をまとめると次のようになる。この表からM8級の南関東大地震は五〇〇~一〇〇〇年の周期で発生していると推定される。小田原地域の被害地震については石橋(一九八五)が七三年周期で活動していることを指摘し、その地震を発生させる断層モデルが提示されている。
①BC一一五〇年 縄文時代後期 芦ノ湖誕生
②BC一五〇年 弥生時代初期 >一〇〇〇年
③三五〇年 古墳時代初期 >五〇〇年
④九〇〇年 平安中期相模湾地震 >五五〇年
⑤西暦一九二三年 関東大地震 M7.9 >一〇二三年
基本的には、逆さ杉にしても神代木にしても、元は箱根に生えていた森林であったという点では共通しています。ただ、時代的に見ると神代木の方が当然古い訳です。つまり同じような状態で木が湖に埋没する機会が何度か有ったという事です
※ただ神大木と木の皮がついているような、現代に近い方の逆さ杉は全く木の状態が違います。その違いを以下に示します。
【縄文時代の物は化石として】
岩屑流三千百年前の神山大水蒸気爆発で崩壊した神山山体は「がんせつりゅう」となって流れ下り山腹に生えていた樹木を巻き込んで堆積した。この様にして樹木は神代木と呼ばれる化石になった。
※芦ノ湖産ではありませんが、木の化石は一体どんなものか?参考例です。写真はセブン化石店様で販売品の引用です
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つまり芦ノ湖底にある木の化石とは?縄文期に埋没した木が炭化して出来上がったものです(但し、新しいものでは850年ほど前に埋没したものもあり、神代木の中にはこの水蒸気爆発以外にもそれ以降の地震などによる地滑りによって埋没したものも含まれている様です)。現在の芦ノ湖の形成もこの時の岩屑流によるものと考えられています。これに対して、逆さ杉の方は意外に新しく、平均して1,600年前前後の木立が水没して保存されたものです。※山川編の産物一覧をまとめた際に、この「老杉」の分類をどうするかについてはかなり迷いました。最終的には「風土記稿」が箱根細工の素材の1つとして利用されていることを記述している点を尊重して「?」付きで「林産物」に入れたものの、こうした「化石」と呼んで差し支えない形成過程からは、寧ろ「鉱物」に分類出来るのかもしれません。人間の社会が意識できる時間内では容易に再生産されないという希少性を帯びている点を考えても、鉱物としての側面の方が勝っていると言った方が良いのかも知れません。
「ガイド・ブック」ではこの逆さ杉の炭素14測定による年代特定の経緯から、それよりも古い時代に出来た芦ノ湖にどうしてこんなに「新しい」木立が水没したのか、またどうして湖の中でこれらの木立が直立して残っているのか、その謎を解き明かしていく経緯が綴られています。地震によって発生した山津波によって木や建物が立ったまま移動する事例を積み重ねることで、芦の湖畔の西側斜面の林が立ったまま芦ノ湖に滑り落ちて「逆さ杉」となったというその経緯を綴った章には、当時NHK大河ドラマなどで繰り返し映像化され、当たりを取っていた山本周五郎の歴史小説「樅ノ木は残った」をもじって「モミの木は滑った」というタイトルが与えられています。
※なお、箱根はモミの自生地という点では南限に近く、現在は外輪山の一部に見られる程度です。逆さ杉の樹種としてはその多くをスギが占めており、モミの出現事例は多くありません。また、同じく出現例の少ない樹種の中にはヒノキの他にシキミやバラ科の一種と推定されているものも含まれており、当時の芦ノ湖畔の植生が窺えます。
とは言え、芦ノ湖に沈んだこれらの木々が、沿岸で修行のために住み着いた箱根権現の修験者にも目撃され、様々な由緒を生み出したものであることは確かな様です。「風土記稿」足柄下郡図説の「蘆ノ湖」の項には、箱根権現の由緒などを多々引用して「逆さ杉」について記述しています。
「錫杖木」は安永年間に芦ノ湖の「巨波」によって岸に打ち上げられたと記しています。「ガイド・ブック」では昭和5年(1930年)の豆相地震の際に芦ノ湖で生じた大規模な水位変化や湖岸で見られた溢水の記録から、芦ノ湖でも津波が発生したと説明しています(78〜84ページ)。この伝で考えると、「錫杖木」を湖岸に運んだこの「巨波」も地震によって引き起こされた津波だったのではないかと考えたくなります。安永年間に箱根付近で大地震があったことを記す史料は見当たりませんが、江戸では安永2年(1773年)と安永9年(1780年)に比較的規模の大きな地震が起きた記録があり、関連が気になるところです。
~以上~
ここまでで確実に分かるところは「芦ノ湖底には沢山の木々が眠っているという事です」
寄木細工の材料や、昔は材木としての利用が有ったものの、その存在がいつの間にか忘れ去られているようです。
そして、次回に私が注目したいのは
「この木々が一体どこからやって来たかというお話をしていきます」
この話は大きな展開を見せて行くので、非常に目からウロコです。最初はわかりやすいように断片的な豆知識を書いていきます。
この事がやがて驚くような広がりを見せていくので是非気になる方は続きをご覧になってみて下さいね。
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