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人目が気になる事は
続・日月神示 赤玉白玉 より
「外の意見に左右されている様では御用務まらんなり。肚九九(はらくく)れてない証拠ぞ、内のものを見よ、恐怖が潜んでおるぞ。内を見ずして外に答えを求むな。」
これは、やるべき道筋(理、意志)が分かっているにも関わらず人の顔色を伺い、また人の出方を伺い見てから行動するような弱気な精神で、自らの信ずる理(自らの意志)を曲げて流されてしまうようでは真の神様の御用はとても務まらないのです。
人を基準とせず、神様、理を基準とし恐れず実行する意志力の強さが無ければ達成は出来ないのです。
自らの正しい意志を曲げてしまう原因は、自らの内に潜む人の目を気にする「恐怖・恐れ」なのです。
また、自らが傷つきたくない、あるいは人から嫌われ悪く思われたくない為に、間違いと分かって居ても自らの思いを曲げて人に合わせる事も同じ事なのです。
自分目線や人の目線をものさしとせず、誠を基準とし神の御心を重視し、人の目は気にしない事なのです。
但し、人に対する気遣い、心遣いはしなければなりません。
また、我に囚われている人は、人の目や心を特に気にして、人の気持ちを汲み取り気が付かねばならない人もいるのです。
「人に認められたい、褒められたい」 この思いが自らの中心を外す原因となるので、自らは人に認めてもらおうとは思わない事、褒められたいとは微塵も思わない事なのです。
目的に向かい、ひたむきに努力し、苦労した事を、人に知らしめひけらかす必要も、人からの評価を求める事も全く必要ないのです。
誰の為に行うのか、行っているのか、それは理の為であり、神の為であり、それは自分の為であるのです。
褒められる為、認めてもらう事を少しでも思えば、これは自己愛の精神からの行動となり自らには全く身に付かなくなるのです。
また、「褒められたい、認められたい」思いは、その中に「自分が」の思い、つまり「我」の強い現れなのです。
目的、目標に対して、努力し経験し培われ、達成した結果は、それだけの事を自らが行ってきたので出来て当たり前の事なのです。
その出来て当たり前の事を、他者に認められ褒められる必要も、また、それを求める必要も全く無く、自分で満足できればそれだけで良いのです。
しかし満足できる結果が達成できないのであれば、道半ばであり自らの経験や努力不足なだけなので、さらに努力し追求すれば良いだけなのです。
また、更にその自分の満足できる結果をとことんまで追求して行く事なのです。
この精神において他者の目を気にする事は全く無いのです。
ですが、他者から褒められ認められる為にと思えば、誠の精神は絶対に身に付かないのです。
また、自らの心中にある、人の目を気にする「恐怖」を認識し、その恐怖を捨て去るのではなく、恐怖の思いを原動力として、自らを奮い立たせ自らを律する為に生かす事、転換する事なのです。
これらの事を目にする周りの者は、結果に対してではなく、誠の目標の為に努力し打ち込む姿勢に対して褒めたたえ、またその困難や試練に打ち勝つ姿勢や意志力を学び得る事が大切なのです。
厳瑞