●内外一致・自己愛について「改心の理 1」
心に思わぬものは言葉として出ないものであります。
心にも無き事、言葉に出すは偽りの言葉、これ「取繕い」と言い「自愛を内に秘める者」である、正すは大変に難しき事である。
心に悪ひそめ、善を語るは悪魔の言葉、これ「偽善」であり「自愛を内に秘める者」である、正すは大変に難しき事である。
自らの心を最も大事にし、他者を関知せぬは「自愛を内に秘める者」であり、正すは困難な事である。
他者の目や行為が常に気になり、自らと比較し優劣をはかるもの、これ心に自愛宿す者であり、正すは困難な事である。
安易に自負心を抱き、驕り、慢心するもの これ心に自愛宿す者であり、正すは困難な事である。
自らの心を最も大事にし、他者を関知せぬも人目気にして、他者を思いやる素振りするは、自愛を外に現わす者であり、正すは大変に困難である。
心に悪ひそめ、悪を語るは、これ正直者であり、心の悪を正せば御霊は磨かれる。
心正しく思い、真を言葉として素直に出す事、これ偽りの無き現れであり御霊磨かれる。
心に愛善を満たし、愛善を語り誠を表す事、これが真の惟神の精神である。
●自己愛の精神の人は
自己愛の精神の人は、他人の事はどうでもよくて、自らが大事で、自らが可愛いく、自らの思いや我欲などで心を満たし、自分の思いを大切にしとても大事にしている者であり、このような事を「自己愛、自己中心的、自分本位」または「動物身魂」と言うのです。
自らを思う小さい心が、我の思いで満たされ心は塞がれているので、他者の事を心から真剣に思いやり気遣いをする事が出来ないのです。
このように自らの事のみで、他者の事を思いやる心の隙間も余裕も無い状態の人の事を「心が狭い」、「心狭き者」と言うのです。
また、このような人を「中心に我が居座る」(心の中に我が座る)と言い、人間としての根本の性分である善なる御霊の働きがなされていない人を言うのです。
この自愛の精神の者は、自分が自愛であるとは気が付かないものであります。
それは、自愛の人は常に自分を擁護し守り防御している心なので、気が付かず自分の事とは思わない、思えないのです。
また、自らを何よりも大切にし防衛している為に、他者から直接指摘されると「腹を立て、絶対に許せず、反発し、いつまでも根に持つ」ものです。
他者を真剣に心から愛し思いやるという心の余裕が無い事が、いかに「小さく、心狭く、惨めで、愚かで、恥ずかしき行為」であると気が付く事が必要なのです。
一刻も早く、小さく狭く塞がれた自らの中心から「小さき我」(自愛)を追い出して【中心に神を据えて、心に愛善を満たす事 】が神示で言われている﹅(ホチ)を入れるという事なのです。
★ 自己愛の精神を正す方法
自愛の精神の者は、心と言動を 内外一致させる事。
さらに、自らが進んで 「真剣に 真心から他者の事を 【気にかけ、深く思いやり、労り、気遣う】 事 」。
これにより自らの自己愛の精神を愛善の精神に変革する事に努めるべし。
他に自己愛を正す理(方法)は無し
※ 自らの自愛を治す為であるなれど、隣人に対する真の愛を培う事が自愛と決別する事になるのです。
自愛を治す為に他者を思うのではなく、他者を心から思う事で自愛の精神が無くなるのです。
これは同じ事のように思えますが全く異なる事であり、前者では自愛は無くならないのです。
自らの、本心と言動を正直に内外一致させる事が御霊を正す為の準備であり、
内外一致した上で心を正し、愛善の心を宿す事が真の身魂磨きとなるのです。
●神示(147)(226)(830)(837)では、例え方便であっても
「これまでは方便と申して逃げられたが、も早逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みたのざぞ」
などとあるように真の心のみの世となるのです。
これは、まずは歌のみではなく、日常の他の人との会話においても裏表なき正直な言葉を出す事からなのです。
それにより他者から指摘されたり自らが気が付いたのなら、現れの言動ではなく「元の心」を正せば良いのです。
そうすれば言葉も良くなり真の善言・善行になり善人となるのです。
その最も良い練習方法が歌であり、
歌により、自らの心に向き合い、自らの心を知り、自らの心を正し改め、自らの心を高め磨くものとなるのです。
なによりも(何よりも)
いともいやしく(最も卑しく)
おそろしき(恐ろしき)
じあいとがよく(自愛と我欲)
おろかなこころ(愚かな御心)
★何よりも、最も卑しく恐ろしきは自らの自愛と我欲である。
心を我の思いで満たし、心に他者の事が入る余地の無き者にて、自らを曇らせ、自らを穢し、自らを滅す、心貧しき哀れで愚かな者なり。
他者を憎むでなく、「自らの自愛を強く憎み恥じて」追い出す事なのです。
厳瑞
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