「まんじゅう怖い」で笑える? 〜落語で笑えない人の笑えない理由〜
落語の「まんじゅう怖い」。
噺そのものは短くわかりやすい前座噺とされるけれど、実のところ、観客の「笑える能力」を試される作品だったりする。
「まんじゅうが怖い」とは、自分が飲み仲間にいたずらされても大好きなまんじゅうが転がり込んでくるようにするための仕掛けだ(いたずらされなければされないで損もしない)。サゲの「1杯のお茶が怖い」も「たくさんまんじゅうを食べたので、口直しの茶が飲みたい(よこせ)」という意味だ。
口では「怖い怖い」と言いながらまんじゅうを食べていくのは、飲み仲間をうまいこと騙してやったことに他ならないわけだけど、もし「言ってる事と行動がチグハグだ」ということを理解できなければ、この後にされる種明かしに納得したり、その先を笑うことができない。
そして、いたずらした連中が文句をつけた後のサゲで「お茶が怖い」の意味が理解できないということになる。
なお、「いたずらした連中は悪事をしてるので、それを棚上げてつっかかるのがおかしい」という方向に気になってしまう人にも、また別な困難があるはずだ。
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笑えない理由
この噺を聴く際、怖いふりをしながらちゃっかり美味しく食べるシーンも笑いどころだけれども、その裏で「こいつ、よく考えたな」「図々しいな」などと思えることがサゲを理解できるかどうかの分かれ目といえる。
サゲが理解できない人は、都度都度の笑いはしっかりウケてはいても、まんじゅうを背占めた策を理解できない場合もあるし、話の筋だけ注意して聴けばわかるけれど途中で「そういえばどんな話してたんだっけ?」となる場合もあるだろう。
そもそも言葉の速さについていけなくて、噺の理解に追いつかない場合もあるだろう。落語の早口は面白さに繋がるけれども、早口についていけない人は面白さをわかる暇もないという結果となる。
噺家さんのひとりで何人もの人を演じる姿から、登場人物自体を思い描けないケースもあるだろうが、これについては(演者が下手な場合を除き)過去に小説やラジオなどで視覚情報なしで登場人物を思い浮かべる訓練をしていない人にも起こり得るだけに、鑑別は必要になるところかもしれない。
もっとも、多くの人は小学生のうちに児童文学の一つくらいは楽しめた経験はあるものだし、落語そのものの楽しみ方さえわかれば情景を思い浮かべるのは容易いだろう。小学生低学年から落語を始める子どもだって数多くいるのだ。
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理由を推測してみる
目の前の話芸から情景を思い浮かべられない。短い噺でも途中で筋がわからなくなる。まんじゅうが好き故に「怖い」と嘘をついたのを理解しておらず「お茶が怖い」の意味がわからない。
その理由には、知的障害とまでいかないボーダーラインだったり、発達障害で集中力が途切れやすかったり、映像を思い浮かべるところにハードルがあったり、といった生得的なものもあるだろう。
「LD」(限局性学習障害)の一部でも同じことは起きそうだ。
LDは他の発達障害の症状のように迷惑をかけない分、テストの成績以外で発達障害の議論の俎上に載ることがあまりないように思う。
実際は、読文に障害があると、「単に」文章を読めないという要因により、本来の知能に応じた語彙力の増加、あるいは文脈を読んだりする訓練が不足するところに隠れた問題があると思う。
(それでも2020年代は、スマホ・タブレット端末の普及や音声で聴ける本の増大で、マシな環境になっていると思うけれど。)
一方で、後天的な脳の病により、笑えていたはずのものが笑えなくなるというケースもある。
うつ病などがよくある例だ。
特に、統合失調症あたりでは「面白い」の基準値が壊れることもあるようだ。なんというか、その人が一般の意味の「面白い」の基準から極めて外れた世界に行ってしまうようにみえる。
(病気にかかわる話は、今回はこれ以上触れないでおく。)
それから、単純に老化により、これまで抑制が効いたものが効かなくなるというのもある。これに関しては他人のことは言えなくなっているのだけど、そうやって老害になるのは厳しいな…などと周りをみていても思うのだ。
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「まんじゅう怖いで笑えない」人と陰謀論
陰謀論や反ワクチン論者の様子を見ていると、やはり、単語が理解できない・文章を読めない・文脈を読めていないというケースが散見される。
正確に言えば、彼らの中には、不確かな論を煽る側、煽られる側とがある。煽る者達はそういう低い理解力の持ち主が引っかかるよう、罠を張っているという印象だ。
mRNAワクチンが登場した際、「mRNA」という見慣れない文字列に、アレルギーを持った人はそれなりにいただろう。それは無理からぬことだ。
問題は、この得体のしれないものをどう理解するかにある。
高校生物ではmRNA(「伝令RNA」ともいう)は必ず通るし、エンベロープ付きのウイルスの模式図まで思い出せれば多少調べる程度で理解できる。
早い話、ウイルスの殻に生えている、人間の細胞に侵入するために使うトゲトゲ(スパイクタンパク質)「だけ」を作らせるmRNAをリボソームに喰わせるワクチンなのだ。理解して爆笑した。
※ここの「新型コロナワクチンのしくみ」大賞のマンガがわかりやすい。
このmRNAワクチンの仕組みを知るなら、頑張れば中学の生物の知識でも良いらしい。
なんなら「はたらく細胞」を通して理解した小学生だっているのだろう。
「ノーベル賞を取った技術で作った新しいワクチン」くらいの理解をして、わざわざ「RNA」の知識を掘り起こすこともない人も多いのかもしれない。彼らがそれでもmRNAワクチンを信用しているのは、例えば「ワクチンというものが過去に何を成してきたか」という歴史の知識が裏打ちしていたりするからだろう。
けれど、義務教育の知識が足りない状態で「疑問」を持ってしまうと、話がこじれる。
本気でやるのならセントラルドグマの話から学ぶ必要があると思うのだけれど、なまじ「DNAは遺伝子で、RNAはDNAとくっつくもの」のようなふわっとしたイメージだけ頭に入っていて、それ以上はキャパオーバーする人には難しい話だ。
また、あまりに数字が荒唐無稽であろうが、それをおかしいと疑問に持つための力が足りない、という傾向もあるようだ。
※南雲香織はこういうデマを延々垂れ流すアカウント。ツイートの特徴から、陰謀論を煽る側が運用しているアカウントのようだ。
「まんじゅう怖い」に喩えるなら、「怖い怖い」と言いながら食べるシーンの観客の反応でたとえられるだろうか。
話の筋がわかっている人は、それを踏まえてこのシーンがどう演じられるのか楽しみにして、面白く演じられたらそれで笑う。
知らない人は「どういうこと???」と思いつつ、あるいは「ああ、こいつは皆を騙したのか!」と気が付きながら、それと同時進行で奇妙な食事芸に笑う。
こういった思考の同時進行ができなければ、このシーンの食事芸では笑えるものの、彼が何をしてまんじゅうを背占めたのかに繋がってこず、サゲの意味はわからないままとなるだろう。
1000人中7300万人、のようなあからさまな数字におどらされる人ともなれば、口で「怖いから口に入れて見えないようにしよう」と言っているのを本当の気持ちだと理解して、「本当はまんじゅうを食べたくて飲み仲間を嵌めた」という真意には到達できない、というケースもあるのではないか。
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専門家にやたら噛み付く人
機能性非識字(ざっくりいうと、字は読めるが意味はわからないこと。学びの機会を与えられなかったから字が読めない人とは区別される)のテスト対象が16歳以上から選出されるということなので、だいたい平均的な義務教育の成績を得ている人々の知識量が「一般常識」となると言ってよいのかもしれない。
上記のテストには「取扱説明書の読み方」のようなテスト項目があるようなので、これがわかるレベルを最低限とするなら、「一般常識」は小学校6年生程度とみて差し支えなさそうだ。
授業についていけていれば、地図も読めるし戦国時代の三英傑も知っているし太陽は東から昇って西に沈むくらいは余裕で知っている年代だ。
そして、残念ながらそこに届いていない人は馬鹿にされてしまいがちだろうし、それを問題視できコントロールできる担任がつかない限り止めにくいと思う。
たとえ素の知能に問題がなくとも、何らかの要因でそこまで行き着かないというのは苦しいだろう。
また、2020年代なら余裕で発達障害の診断に行き着ける発達障害者も、中年以上では救いの手が得られなかった人が多くなることも考慮に入れておくべきだ。
知的ボーダーだと苦労はその上に行くだろうと思う。総合のIQであと5低ければ、手厚い保護がもらえるかもしれなかった(自分の身の回りのことをできる知的障害の方は、専門の学校で助けの受け方が学べるらしいのだ)という人もいるのだろう。
そんな彼らにとって、知識階級である医者や科学者は不愉快な存在だと捉える傾向もあるのかもしれない。
反ワク論者がしばしば口論を好むのも、読文能力の問題もあるだろうけれど、口論なら精緻な検証をされる前に捲し立てることで勝てる、という勝算があるのだと思う。
こういう口論では、相手は頭が良いほど呆れて物が言えなくなる結果になることが多い。話が通じないと思って打ち切っているだけなのだ。(そもそも、ちゃんと精緻に思考しながら早口捲し立てに対応できている人々だ。口でも勝てるわけがない。)
それを反ワク論者が成功体験としてしまうのは、傍からみていて辛いものがある。
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本当に知っておくべきこと
日本の教育上の問題だと思うけれど、「習うより慣れろ」の傾向が「科学的思考」から引き離す問題を抱えていると思っている。
「科学」とは、超絶ざっくりいえば、世の中のあらゆる現象を体系的に明らかにすること。ある正解と思われる研究成果から、新たな研究の枝を伸ばしていき、そうやって集まってきた成果たちが世の中に還元されている。
学校の勉強とは「研究成果の枝葉のうち手堅い部分を頭に入れること」で、この手堅いと思われていた部分も誤りだとわかれば、教科書が書き変わることもある。
その変化に追いつくためには、新聞やニュース等で変化した部分を仕入れる必要がある。多くの人はこれを無意識にやっており、わざわざよく知らない誰かのまとめた動画など見聞きしてはいない。
家庭や学校のスタンスにもよるけれども、科学の性質に大多数の生徒がたどり着くのは大学(早い生徒で高専だろう。また、高校倫理のアリストテレスの項を通れば科学の源流を知ることはできる)になる。
私としては、大学という研究機関にそれを求めるのは遅過ぎると考えている。科学は義務教育のうちに、遅くても高等学校までに教えるべきだ。
大学に進学する生徒なんて、ほとんどがどこかに進学する高校の出身者が思うほど、多くはないのである。
これを踏まえていれば、医療だって科学の積み重ねでできた技術なのも理解可能になるし、論文を書く研究者がたくさん存在する理由もわかる(イベルメクチンが新型コロナには無力な論文だけでもゴロゴロと出てくる)。
セントラルドグマの原則を無視するRNAウイルス(レトロウイルス)は存在するが、それをするには特殊な酵素を必要とする。COVID-19については逆転写酵素の話ではなく、長引くのは免疫機能を避けて臓器に長く居座るからではないか、という論文が出てきている。(2022年の話)
あと、陰謀論を吹き込まれた人にとっては不都合な話になるかも知れないけれど…。
世の中本当にたった数個のツイートや動画で真実が説明できる世界だったとして、それならとっくに世の中の大多数は皆「真実」に沿って生きているし、「まんじゅう怖いが理解できない奴」はそこから成り上がるのはいよいよ無理になるのだ。
「真実を知らせたい」という運動の通りに世の中が動けば、いつか自分が生きにくい世界ができる。
悲しいけれどこれが世の中の「真実」だ。
陰謀論なんかより知っておくべきは、「自分が大多数の人より世の中のことを読み取れないこと」だと思う。そこは諦めてしまった方が、「では何から学べば良いのか?」を考えたり、適切なアドバイスをもらったりすることが可能になるだろう。