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何でいつも怒られているのかわからないのに怒りを肯定する人
「叱る」そのものがそもそも教育に必要ないという話もあるけれど、今は置いておく。
「叱る」が実はただ「怒る」になっている人はいる。
また。怒りに晒された側が「ごめんなさい」を言うとき、それはその怒りに対して納得して謝ってないことも多い。諭されたならまだ納得することもあろうが、怒りという突発事項の場合鎮めるためにひとまず謝るという処世術が必要となるからだ。
それでも、ある程度の人数にとって「怒り」が有効でいられたのは、怒りに晒された側も何が問題で怒られたのか読み取る力があるからだ。だから学習は起きるし、なんとなくその場にふさわしいとされる振る舞いができるようになっていく。
言い換えると、怒りの理由をあまり読み取れない人にとっては、常に「怒られた→とりあえず謝る→収まった」以外の体験は積めないということになる。
こういう人は、例えば討論や記者会見などを見た時、
「悪い奴(真偽は問わない)はいくらでも殴り付けて良い」
「ただし、殊勝な態度をとったら止めるべき」
「それでもなお殴り付ける奴は悪い奴」
という、極めて雑な理解をしてもおかしくはない。
そこに内容の良し悪しは関係ないし、まして細かく検討する能力は必要とされない。
数少ない理解可能な概念に「熱血」があるため、「悪い奴()に対する熱血漢の怒り」は彼らからみて尊い扱いになる。
彼らに対してデマゴーグは大きな影響を持つ。
政治家は、彼らが好ましいと思えるものを派手にみせれば良い。より大きな声で怒鳴れば「情熱持ってて偉い」になる。相手が殊勝な態度をとれば相手に対して「反省して偉い」になるが、多くの場合は言いがかりなので相手は反論するし、それを見てデマゴーグの支持者は「こいつ生意気だ」と思う。
デマゴーグは政治家を指す呼び名なんだけれど、マスコミが力を持ち過ぎた日本では一部の記者もこれをやる。こういうところから、マスコミの質がゴリゴリ削られていく。
それでも、デマゴーグ支持層に質がどうとかは関係がないのだから、このパフォーマンスは有効だ。この支持層の思いは「とにかく土下座しろ、それで許す」になるだろうから。
多くの人にとって、こんな怒りのパフォーマンスはムダだ。もっと建設的な仕事をやれと考える。
しかし、いつも怒られ、それでいて怒りの理由を読み取れずにいた人に「建設的」な思考プロセスは起きにくいし、だからこそムダな暴力が賞賛されてしまう。
その暴力があるとが困るのが、自分たちの方であるにもかかわらず、だ。