32歳で潰れそうな家業を経営再建した話 1/3
父は紙問屋を営んでいました。3代目である私の代で紙問屋は廃業しました。今は東京の金型屋と札幌の鉄工所・プレス加工会社を営んでいます。買い叩かれないよう他では出来ない納期や加工方法のバリエーション、顧客開拓を試しています。どうして紙屋が製造業になったのか?これまでの経緯を記載します。友人から何故潰れそうな会社の事業承継を選んだのか?と当時質問された事が多くありました。
その理由の一つは小学生の時から知っている社員の生活が心配だったから。
一つは経験の為、当時の僕は資産など持っていない。例えば再建に失敗しても0、だけど32歳で「10億超の売上を持つ会社を潰す」という同世代では100人に一人もいないような経験が出来ると思ったから。
最後は意地です。創業者である祖父に中学受験が終わった際に「どうだった?」と聞かれ、国語が…と言うと、一言で「ダメだな」と言われた事(合格しました)。また中学生の時に親族で集まった際に従兄弟を「こいつは根性があるから、後継者だ」と言われた事。その言葉がとても悔しくて、経営者であった父や叔父達を含む実家に対して「認めさせたい」という思いを持っていたから。
1997年から2000年まで3年ちょっとアメリカにいました。途中からKPMGで働くようになり2000年の秋に結婚しました。しばらくアメリカ生活を楽しむ予定でしたが、一本の電話で生活は一変しました。それは父が経営する会社の経営状態が良くないというものでした。
試算表をFAXしてもらいました。同業他社との比較が出来ないので断言は出来ませんが、感覚的に悪い数値でした。売上は13億程度ですが3年連続赤字。借入金も10億近くありました。洋紙卸売業の在庫回転率が分からないのでなんとも言えませんが在庫も多すぎる気がしました。結果として直感は当たりました。
2001年1月に帰国を決め、3月から父の会社で働き始めました。特に社長である父から特定の仕事の指示も無かった為、小さな会議室で一人こもって毎日過去10年分の決算書を分析しました。売上は18億から13億に下がっていました。社員の平均年齢は50代半ば。固定費は10年前と変わりがありません。受注を受ける部署は朝一の時間と夕方は忙しいものの他の時間は社員が通販の雑誌をめくっているほど暇でした。しかも基幹システムがあるにも関わらず、受注をメモで現場へ指示し、後からシステムに入力するという二重作業を行っていました。実はこれには理由があった事に後で気がつきました。最も悪い事は、社長が「今は景気が悪いから」と赤字の原因を外部に求めている事でした。
入社した翌年の1月末に大口顧客が不渡を出しました。これまで特定の仕事の指示をしてこなかった父から声をかけられ、入社後初めて社長室で2人きりで話をしました。不渡の事実を知らされ「残念だがもう出来る事はない」と言われました。それが初めて正面から父が私に言った言葉でした。何故か怒りが込み上げ「僕がなんとかするから任せろ」と言っていました。それは小さい頃から意識していた実家に対する意地でした。絶対に忘れられなかった想い「父や叔父達に認めさせてやる」、それを実行出来るチャンスだと思いました。
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