事業承継を積極的に始めた事について(1/2)

新規事業立ち上げで苦労している時に銀行から金型製造会社を紹介されました。社内で相談すると全員が反対しました。理由は紙屋が金型を作る事は出来ないから。しかし紙事業の将来に不安を感じていた私は、先方の社長と一年かけてじっくりと話をして一年後M&Aする事を決めました。
金型製造会社の経営状態は健全でした。前オーナーの弟である専務は売却に納得していない様子でした。過去の過ちを犯さない為に慎重に時間をかけて経営に関わりました。利益が出ているので現場には手をつけない。変えるのは管理部門のみ。現場の職人とは信頼関係を築く為に時間を使う。
前オーナーは5人兄弟の長男で、兄弟全員が会社で働いていました。営業兼工場長の次男の専務は今回のM&Aに納得していない様子でした。長男を含む残りの四人は職人でした。長男と三男は木型職人で、その技術が会社の強みでした。兄弟が全ての部署に配置され、何かがあっても兄弟だけで仕事を回せるある意味完璧な仕組みになっていました。
兄弟に依存しすぎている状況を改善する為、紙屋から再建時に社員をまとめ上げてくれた実績のある社員を転籍させて工場長にしました。彼は人と接するのが上手なので専務とも上手くやって現場を纏めてくれるはずです。金型の作り方はこれから勉強すれば大丈夫だと思いました。
会社としてのルールが何もない状況だったのでM&Aして一年後に朝礼を始め、年2回の個人面談を始めました。後々これが大きな問題を生む事になります。三男である木型職人が「ルール化された会社は性に合わないから辞める」と言い出しました。前オーナーである会長が説得しましたがダメでした。
毎月三男と話をしました。説得ではなくただ話をして、話を聞きました。ある時会長は「あいつは辞めて死ぬつもりじゃないかと思う」と言っていました。私はまさかと思いましたが話を重ねるうちに、有り得るかもしれないと思うようになりました。
三男は「辞めたら一年かけて四国へお遍路さんへ行く」と話をしていました。結局、三男は9月に退職しました。
それから一年後。8月に四国の警察から連絡がありました。会長と工場長が四国へ飛びました。「何度か失敗した様ですが意思が固かったのだと思います」と説明されたそうです。辛いとか悲しいとか何も感じませんでした。僕は冷酷な人間なのだろうか?自問自答しました。
答えは出ませんでした。
何があっても経営者として先に進まなければならないと思いました。
何の為に経営しているのか?
会社ってなんだ?
三男の訃報に接して以降、私は会社は社員及びそこに関わる人を幸せにするべき場所なのだと思うようになりました。
金型会社をM&Aしたのは紙の将来を不安に思ったからでしたが、営業はあまりに畑違いでなかなか先に進みません。真空成形用金型は主に包装資材として使われます。紙も包装資材として使われます。我々が専門で扱っていた紙は印刷洋紙でした。包装資材に使われる紙がキーになると思いました。
そんな時にタイミング良く銀行から今度は包装資材に使われる板紙を扱っている紙卸商のM&Aの話が来ました。対象会社の営業エリアが当社のエリアと重なっていました。それならば我々の倉庫と配送網も共用出来ます。直ぐにM&Aを決めました。先方のオーナーの意向は不動産を残したいとの事でしたので、営業権を買取る事にしました。
今回のM&Aで営業の人数が増えました。ところが板紙の顧客と印刷用紙の顧客を各営業に両方担当させましたが、売上が下がっていきます。それだけでは無く紙器系の顧客へトレーの提案も出来ずにいます。何の為にM&Aを行なったのか?疑問が湧いてきました。
一方で、金型会社は業績を少しずつ上げていきました。
何が違うのか?
違いは明白で紙の営業はM&Aした事で全くターゲットの違う印刷と包装資材の顧客を両方営業しなければならないという状況でした。つまり専門外を担当しなければならないという問題が起きていたのです。
その一方で金型の営業は従来通り金型の顧客だけを営業すれば良いのです。
悩みました。これでは消費の減少が予測される紙に携わる若手の給料を上げる事が出来ません。
初めて経営理念の大切さを感じました。勉強する為に中小企業家同友会に入会し勉強を始めました。
その後も紙の売上は減少し、金型の売上は増加を続けました。2008年のリーマンショックまでは。この未曾有の金融危機によって金型の受注が突然前年の50%になりました。
何が起こっているのか理解出来ませんでした。売上は激減し固定費はそのまま。
赤字額はこれまでに見た事のない金額になりました。
何が大切な事なのか?
何を実現したいのか?
この変化の激しい時代に何か一つに特化して生きていけるのか?
答えは簡単には出ません。
取り敢えず何事もまずやってみる事を決めました。そして単体では平凡でも、組み合わせればオンリー1になれるのではないかと仮定しました。
取り敢えず自分達が出来る事を確認しました。在庫、配送、真空成形金型・トレー製造。配送圏内ならば誰よりも早くトレーを届ける事が出来る。配送圏内の工場を片っ端から営業に歩きました。結果、トレーを使っている工場もありましたが、自社調達している工場はほとんどありませんでした。
ライバルがいないところには顧客もいない。何かの経営書で読んだ事がありました。
もう少し細かく出来る事を見てみました。弊社の金型工場には木型師がいます。
社内に木型師を抱え手彫りで金型原型を作成出来る工場は少なくなっていました。そこをより強くする為に3Dスキャナーを導入しました。
木型で試作を作った場合、形状が承認された後に鋳物で金型を作成します。その為、鋳物原型は鋳物の収縮率を考慮して同形状で大きめに作ります。これをデジタルデータ化する事で手間を無くしました。木型での工数が2/3程度になり、またデータ化した為に他の工数も激減しました。
強みを強化した結果、利益率は上がりました。3Dスキャナーを導入する少し前に、社員から木型技術を利用してソフビ(フィギュア)事業の提案がありました。最初はゲゲゲの鬼太郎シリーズ、その後 こびとづかん のソフビを手掛けました。鬼太郎シリーズは今は亡き水木先生から再現性の高さへのお褒めの言葉をいただき、こびとシリーズは10年以上経った今でも新作を作り続けています。
経営の軸足がこうして徐々に紙から金型へ移っていきます。リーマンショックの直前に、倉庫の固定費を変動費へ変える為に新築だった倉庫を貸し出し、在庫管理は外注へ任せました。オフィスは古い金型会社の中に移しました。
営業も印刷洋紙担当は一人となり、板紙担当の営業にはトレー・金型も担当させました。
そんな時にリーマンショックが起こり、大きな問題が発生しました。再建を一緒に行なった取締役二人(紙担当、工場長)が退任しました。期待していた若手も一緒に退職しました。理由は、紙担当の取締役は軸足が金型に移った事、工場長はリーマンショックによる赤字の責任を取るとの事。大赤字を前に引き止める事が出来ませんでした。
こうして営業も印刷用紙担当は一人となり、板紙担当の営業にはトレー・金型も担当させました。
残った若手を中心に仕事を始めましたが、今度は洋紙担当のベテラン営業が顧客を持ってライバル社へ移りました。紙の売上減少がさらに進み、より金型へ軸足がシフトしました。これは想定していた事でしたが、過程で中堅・若手社員が辞めていった事はショックでした。
社員の将来の為に紙から金型へ軸を移したら、その社員達が退職していく。何の為に新規事業を始めたのか分からなくなりました。
専門特化すれば業績は伸びるかもしれませんが変化の激しい時代には危険性も伴います。もし我々が紙に専門特化していたらどうでしょうか?結果は難しいものになったと思います。
退職する若手社員と最後に飲みに行った際に彼から「社長が現場で陣頭指揮を取っている姿を想像出来ない。残った若手の為に一緒にやって下さい」と言われました。僕自身も初めての体験でしたが営業マンとして紙の顧客を担当する事にしました。そんな時に東日本大震災が発生しました。

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