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石塚真一先生と私

私は中学に入学すると同時に引きこもりとなり、中学を通うことなく特例で卒業しました。そして、高校には入学することもなく、何者でもない状態が7年続きました。その間、自宅で発狂し、措置入院となり、閉鎖病棟に入院しました。薬の副作用が原因で呼吸ができなくなり、臨死体験を経験しました。意識と無意識の狭間で、自然とお題目を唱えていました。その結果、奇跡的に瀕死状態の私を看護師が発見し、一命を取り留めました。それから、毎日ベッドの上で、心の中で題目を唱え続け、3ヶ月後には退院することができました。

退院後、自宅に引きこもりながらも毎日題目を唱え、池田大作先生の書物をたくさん読み感動し、勇気を湧き出だしました。そんな中、アメリカの大学に行きたいと思うようになり、英会話のジオス北千住校に入学しました。引きこもりの後、初めて一対一で講師と接することになりましたが、お互いのコミュニケーションがうまくいかず、他の先生を探すことになりました。

そこで、ちょうど就職した会社が倒産して転職してきた28歳の男性講師が「私がこの子の面倒を見るから任せてください」と名乗り出てくれました。私は不安でしたが、最初の授業から彼は引きこもりがちの私に明るさをもたらし、時にはふざけながら授業を進めてくれました。彼との英語学習は楽しく、私は授業がない日も彼に会いに行き、仕事中にもかかわらず一緒に出かけることもありました。

不登校になった理由は、中学時代の教師からの暴力や生徒からのいじめでした。それ以来、私は長年一人っきりの生活を送り、人と接することを避けてきました。人を信じられなかったのです。しかし、彼は長年の人間不信を振り払う特別な力を持っていました。型破りな彼は、授業をやらずに一緒にギターを弾いたりしました。おかげで、ずっと一人で寂しくギターを弾いて技術だけは上達した私が、初めて人と一緒にジャムをすることができました。

その後、私は部屋で学会の勉強をたくさんし、実践もして功徳の実証も得ました。先生にそのことを話すと、講師と生徒の立ち位置を逆にし、私がホワイトボードを使って学会の歴史を語り、先生がそれを熱心に聞くという授業が始まりました。また、先生がジャズが好きで、特にハービー・ハンコックやウェイン・ショーターが好きと知ると、後日、創価学会員である二人の信仰を特集したVHSを持参し、ジオスの受付のテレビで鑑賞することもありました。

授業では、先生の日頃の人生観やアメリカの大学時代の話、気象学を学んだ経験、アメリカでの逃避行やロッククライミングの話など、彼の頭と心にある全てを私の心に吹き込んでくれました。最後には必ず「お母さんに内緒ね」と告げ口しないでねという意味の言葉で授業を締めくくるのがお決まりでしたが、母親は楽しそうに先生に会いに出かける息子のことを嬉しく思い、家族全員、おばあちゃんも先生に感謝の気持ちを抱いていました。

ある日の授業で、先生が鉛筆で描いた自作漫画を私に見せてきました。「This First Step」と題された彼の漫画はいかにも素人らしく、消しゴムの消し切れていない箇所が散見される仕上がりでした。しかし、私は大尊敬する彼が、仕事の合間に相当な努力をして仕上げた力作を賞賛せずにはいられませんでした。褒められた先生は何かを確信したかのように、その漫画を封筒に入れ、コンペに応募したのです。

その後、あまり月日が経たない、ある日の授業の際、彼から「手塚治虫新人賞」のグランプリ受賞を告げられました。そして、間も無く掲載されたビッグコミックオリジナルを二人で読むことになりました。本当に載ったねという不思議な空気の中、彼から「次の作品のネタを考えよう!」とジオスの授業を利用して緊急ネタ会議が始まりました。私からは、新宿の歌舞伎町で実際にいた「殴られ屋」はどうかと提案してみましたが、意外にも反応は良くありませんでした。

ホワイトボードがネタで埋まったところで、一旦持ち帰ることとなりその日の授業は終わりました。次の授業で、「タカ(私)を主人公にした漫画を描こうと思う」と告げられ、私は驚きましたが、先生もまた、私の人生経験と苦しみを通じて人々に「生きろ」というメッセージを伝えたいという思いを抱いていることがわかりました。最終的に先生の次の作品はビッグコミックオリジナルの連載作品『岳』として世に出ることとなりました。連載一作目は今も大切に保管してあります。

内容は、ジオスでいつも聞いていた先生の哲学が集約されていて、読むたびに先生との会話を思い出します。こうして、その後漫画は映画化され、次作は互いに語り合ったジャズが主題の『BLUE GIANT』になりました。やっぱり、先生はそのままだなと、街中で彼の描いた漫画キャラクターを見かけるたびに、もはや遠い存在になった彼のことを、ふと思い出します。

こうして、多忙になった漫画家・石塚真一先生は、ジオス最後の日が終わると、北千住から一時間ほど離れた郊外のアパートに私を招待してくれました。そういえば、石塚先生は私を、先生の好きな高田渡のコンサートに連れて行ってくれました。石塚先生の奥様とお母様と4人で渋谷クラブクアトロまで電車で行きました。すると、ちょうど一番前の席が2席空いていて、私は石塚先生と隣同士で座ることになり、その目の前に高田渡が現れました。彼は歌うより喋り続け、石塚真一はそれに逐一反応して腹を抱えて笑う、その姿に私が笑ってしまうという奇妙な図式が出来上がりました。

話はジオス最後の日に戻ります。先生のお宅に招待され、近くの菖蒲園(ここで知らない人に菖蒲をバックに撮ってもらった、先生とのツーショット・フィルム写真は宝物です)や、奥さんと3人で食事をしながら素敵な時間を過ごしました。実は、先生は私の自立の道をしっかりと模索していてくれたのです。間違いなく、ジオスでの勉強だけでは夢であるアメリカの大学には進学できないことを私たちは痛感していました。そして、ひそかに私に対して、自身と同じ進路を選択することを望んでいたのです。しかし、彼は決して諭したり、命令したりといったことはしませんでした。

実は、石塚先生曰く、先生も高校で不登校になり、なぜか剣道に参加することでギリギリ卒業ができたそうです。そして、彼もその不登校を乗り越えて、アメリカの大学へと進学することを夢見ていました。そうした中で、南イリノイ大学新潟校という専門学校が創設され、そこをエスカレーター式に進むことで本校に進学できると聞き、新潟にある同校の寮の門をたたいたとのことでした。

彼曰く、引きこもりになりながらも、なんとかしてアメリカの大学に行きたいともがいていた私が、その当時の先生自身と重なったらしいです。だから、ここまで家族同様、親身に、勉強以前に大切な何かを自身の姿で示してくれたのです。そして、私も彼の日々の真心の姿を見て、彼と同じ南イリノイ大学新潟校の寮に入る決意をするに至ったのです。教育で最も大事なのは、言葉ではなく、その人間の姿そのものであると、この時、石塚真一の姿を通して教わりました。だって、石塚先生からそこまで英語を教わっていないのに、今の私を見てご覧なさいよ。夕日も沈み、先生宅での楽しい時間もひと段落し、長い常磐線に乗る時間、別れの時間が来ました。石塚先生は「これ、電車で読んで」と手紙をくれました。駅まで車で送ってくれて、私たちは限りなく永遠に近い別れの到来を許し、私は無人の常磐線に乗りました。まだ少しだけ太陽の光がこちらを差し、その光を浴びながら先生からの手紙を読みました。最後のページを読み終えると、一万円が入っていました。

それから、先生は著名な漫画家としていっせんでご活躍されていることは周知のこと。私はその後、小学校以来の学び舎となる、南イリノイ大学新潟校を、be動詞もわからないまま入学し、案の定再び不登校になったのですが、絶対に自分が変わらなければ同じことが繰り返されると悟り、独自に新潟市内まで行って中1の英語の教科書を買い、必死にゼロから学び、その結果、カリキュラムよりも早くアメリカの大学進学に必要なTOEFLの点数を獲得しました。そうして、誰よりも遅れていたのに、誰よりも早くアメリカの大学進学を決め卒業をしました。その後は、石塚真一先生への恩返しの思いで、自分が石塚先生にしてもらったように、これからの未来の人材を育てようと、中高教員免許を取得し、世界一嫌いな学校という現場に教員として戻りました。これからの若者には絶対に、学校を世界一楽しい場所に、少なくとも私といる時間にはなって欲しいという思いで。 

有名になり遠くに行ってしまった石塚真一先生からは、大学卒業時に私と家族宛に長文の封書が届き、思いの丈を便箋いっぱいに綴ってくれました。ちなみに、私が写真家としてサインを書く際に添える花のマークは、この石塚真一先生からの手紙から拝借しています。その後も、私が教員になったり、何か事あるごとに報告をしては、岳のキャラクター三歩と共に熱いメッセージをくれる石塚真一先生なのでした。

写真展情報:

  • 日程: 2024年9月26日〜10月29日

  • 会場: Liike(渋谷区恵比寿西1-35-5-2F)

  • 営業時間: 10:00〜19:00

  • 作家在廊日: 10月1日, 14日, 15日, 22日, 29日

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