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SNSと戦争と半沢直樹。

こんにちは。
神門崇晶(かんどたかあき)です。

普段は大学で商学の勉強をしながら大学構内でカレー屋の経営をしていたり小樽のYouTuberになったり、偶然ラジオ番組をもったり色々やってます。プロフィールについては僕のTwitterから見てください。

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▲はじめに▼

下の写真は、2020年2,3月に留学していたオーストラリアのホストファザーが持っていた昭和天皇崩御の新聞だ。

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昭和天皇は、戦後荒廃した日本各地を飛び回り、戦争に負けて失望の底にいた日本国民を救おうと御尽力なされた。8/15は、「日本における」終戦記念日とされている。75年が経つことになる。(オーストラリアの短期留学については、「オーストラリア見聞録」というマガジンがあるので、そちらを読んでいただきたい。)

この劣化した新聞は、コロナが拡大しつつあった今年の2,3月に短期留学をしていたときに見せてもらった。朝日新聞と読売新聞の2紙である。ファザーは日本製鐵に数年間務めててその時の新聞を大切に取っておいたそうだ。彼は日本に数年住んでいただけだったが、祖国・イギリスとはまるっきり異なる文化に魅せられ、日本のことが好きになったそうだ。日本をいつでも思い出すためか、リビングには新年にみんなで割るお酒が入った樽があったり(もちろん中身は入っていない)、明治時代につくられた算盤を置いていた(これはいつの時代のやつなんだ?と聞かれ、僕が調べた)。

今回のnoteでは、この新聞をきっかけに現代における「戦争」とは何なのか、ということをロジェ・カイヨワの著書「戦争論」で論じられている考えを踏まえて考えてみることにした。そして、現代における戦争とは何なのか、なぜ戦争は人々を熱狂させ続け撲滅されないのか、それらについて考察していく。


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▲戦争とは▼

ロジェ・カイヨワは著書『戦争論』でこう論じた。

戦争と祭りは表裏一体である。祭りを好むものは一時の高揚感がクセになり、それを求めて次の祭りが待ちきれなくなる。戦争も同じ構造である」

とても腑に落ちた。

とはいっても、僕は20歳であるためもちろん戦争を知らない。いや、知らない、は間違いだ。「直接的には」知らない。実際、現在の日本において、戦前生まれは約15%で、国民のほとんどが戦争を直に体験しているわけではない。「間接的に」知っているのだ。戦争といえば、9.11のハイジャックテロを契機にしたイラク戦争について、開戦時僕はまだ幼かったが、ぼんやりと覚えている。戦争を実感した初めての記憶だ。それほど、衝撃は大きかった。

そして、戦争とは互いの「正義」がぶつかる場所である、と思っている。例えば、アメリカとイラク戦争であれば、イラク側(正確にはアルカイダ)の正義によって先のテロが起こり、アメリカの正義がそれを許さず戦争は開始された。だから、どちらも悪いなんて1ミリも感じていないだろう。何万人死のうが、何十万の人に影響が出ようが、知ったこっちゃない。偉大な「正義」の下で戦っているのだ。お互い誇りをもって、誇りをかけてやっている。だから、どちらかの正義が折れない限り、戦争は終わらない。僕は、戦争はこういうものだと思っている。これを、「戦争正義論」とする。


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▲現代における戦争とは▼

現代における戦争とは何なのかを考えてみた。
結論を述べると、僕はSNSにおける誹謗中傷だと思っている。

ロジェ・カイヨワの「戦争論」と検見すると、会ったことの無い人を匿名で誹謗中傷することで一時の高揚感を得る。これが炎上したら高揚感は激烈に増す。それに味をしめて、次のターゲットにお狙いを定め、そいつが何かボロを出すと、「祭り」に飢えたみんなで集中攻撃をする。こういうメカニズムだろう。

次に、僕の「戦争正義論」と照らし合わせる。特に、「不倫はいけないと思います!」といった「○○してはいけません!」というのはまさに「正義」そのものだ。その人にとっての正義が「不倫、ダメ、ゼッタイ」なのであれば、不倫容認派の正義とは真向に対立することになる。ただ、SNSを舞台にした「現代における戦争」での一番の問題点は、正義の押し売りがしやすくなったことにある。我々はSNSを獲得したことによって、物理的障壁を飛び越えて、個人の正義を大多数に画面を通して直接訴えることが格段に容易になった。10年前では、「不倫をするなんて考えられない!目ざわり!」と直接いえたのはせいぜい夫か、近所の旦那くらいだったろう。石○純一には、テレビに向かって「消えろ!」とか言っていたのだろうか。それは石田○一にはノーダメージだ。

物理的な正義の訴求は、例えば過度な自粛警察に当てはまるように思う。そしてこれに類似しているのが、「はだしのゲン」だ。中岡家は当時、戦争に突き進む大日本帝国では極めて稀な戦争否定派であった。それを、周りの人達は「非国民」だとして中岡家は虐められた。僕にとっては、自粛警察とはだしのゲンで中岡家を虐めていた奴らは違いはあれど、同じように見える。ただ、彼らには自身の「正義」があってそういうことをしている、ということだ。


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▲戦争と半沢直樹▼

現在、TBS系列で放映中のドラマ、「半沢直樹」。筆者も毎週欠かさず熱狂的に見ている。個人的には、21世紀で一番面白いドラマではないかと思っている。では、なぜここまで国民から人気のあるドラマなのだろうか。


それは、半沢直樹は戦争ドラマである、からだ。


なぜこう言い切れるか、その理由を説明していきたい。
まず、ドラマ半沢直樹ではおおよそ、4,5話かけて話をひと段落つける必要がある。そのため、1話目冒頭15~20分で明確な敵対関係を描くことが必須になる。今のシーズン2であれば、半沢直樹 VS 電脳雑技集団、解決するとすぐ、半沢直樹 VS 日本政府である。この明確かつ誰でも簡単に理解できる敵対関係こそが、半沢直樹を戦争ドラマにしている要因であり、人気ドラマたる所以である。また、一度味方の中で裏切り者が出てきたら公衆の面前で徹底的に炙り出すことで、味方の士気・結束力を向上させるのもかなりの戦争だ。内部の人間を多数の前で叱る、のではなく責任を「全て」そいつに押し付けるのだ。これほど、非人道的なやりかたはあるだろうか。そして、「倍返しだ!」というワンフレーズで敵に立ち向かう。

見事な戦略である(戦略、という言葉は元々軍事で使われていた言葉なので半沢直樹には最適だ)。この明確な敵対関係、裏切り者への徹底した魔女狩り、痛快な展開。これらの要素が我々視聴者を熱狂の渦へと巻き込み、毎週日曜日21:00を待ち遠しい存在にしてくれる。ロジェ・カイヨワの「戦争論」を今一度見てみたい。

戦争と祭りは表裏一体である。祭りを好むものは一時の高揚感がクセになり、それを求めて次の祭りが待ちきれなくなる。戦争も同じ構造である」

まさに、「戦争ドラマ」である。


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▲まとめ▼

ドラマ半沢直樹には日本中が熱狂している。しかし、半沢直樹は好きか?と聞かれると好きだ、と答える人は少ないのではないだろうか。
では、戦争は好きか?と聞かれたときはどうどろう。好きだ、と答える人はほぼ皆無だろう。しかし、戦争には熱狂してしまうのだ。

もしかすると、人間は潜在的に戦争をもとめてしまう生物なのかもしれない。

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神門崇晶(Kando Takaaki)
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