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「古代ギリシャの歌合戦」バッハの世俗カンタータ『フィーバスとパン(BWV 201)』


ヨハン・セバスティアン・バッハは、宗教音楽の巨匠として知られていますが、その一方で多くの**世俗カンタータ**も手がけています。その中でも特に注目すべき作品の一つが、1731年に作曲された『フィーバスとパン(Der Streit zwischen Phoebus und Pan, BWV 201)』です。この作品は、ギリシャ神話を題材にしつつ、バッハのユーモアや音楽に対する哲学が反映されているユニークなカンタータです。今回は、作品の背景となる神話と、私が実際にこの作品に出演した経験についてもお話しします。


ヨハン・セバスティアン・バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(J.S. Bach, 1685年3月31日 – 1750年7月28日)
アイゼナハで生まれました。この町は現在のドイツに属していますが、当時は神聖ローマ帝国のザクセン=アイゼナハ公国の一部でした。
バッハが生きていた時代、ザクセン地域は宗教改革によって大きな影響を受けており、特にルター派が支配的な宗教となっていました。

ザクセンの支配者たちはルター派の強力な支持者でした。16世紀にザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)マルティン・ルターを保護したことが、ルター派の発展に大きく貢献し、これがバッハの時代にも続いていました。
バッハ自身もプロテスタントのルター派信者として、彼の音楽には深い信仰が反映されており、教会音楽やカンタータなどを数多く作曲しています。

アウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden1555年)は、宗教改革によって引き起こされた対立を終結させ、神聖ローマ帝国内でカトリックとルター派の共存を認める画期的な条約でした。
この和議により、各領邦の君主がその領土内での宗教を選択できる「領主の宗教が住民の宗教である」という原則(Cuius regio, eius religio クイウス・レギオ、エイウス・レリギオ)が確立されました。このため、ルター派やカトリックの信仰が各地で定着しました。
またアウクスブルクの和議の原則はウェストファリア条約により約100年後にあらためて確認されました。
ウェストファリア条約においては予定説を重要な協議に掲げるカルヴァン派も認められることになりました。

バッハの生きていた18世紀のザクセン選帝侯領は、長らくルター派の信仰を持っていました。
ザクセン選帝侯であったアウグスト強健公とその後のフリードリヒ・アウグスト2世は、政治的にはポーランド王位を手に入れるためにカトリックに改宗しましたが、ザクセン自体はルター派の地域として維持されました。
したがって、バッハがトマスカントールを務めていたライプツィヒは、ルター派の宗教と音楽が深く結びついていた地域です。

バッハ自身は熱心なルター派の信徒であり、彼の多くの作品、特にカンタータやオラトリオは、ルター派の信仰に基づいて作曲されました。
ザクセンがルター派の地域であったため、彼がその信仰の影響を受けたことは自然であり、特に信仰上の圧迫を受けることはありませんでした。
アウクスブルクの和議以降、ドイツ内でルター派の信仰が安定していたことが、バッハの宗教的な自由を保証していたとも言えます。

バッハがこのルター派の信仰を背景に多くの宗教音楽を作曲し、プロテスタント音楽の発展に大きく貢献したことは、彼のキャリアと作品を理解する上で重要なポイントです。
彼の代表作であるマタイ受難曲やヨハネ受難曲は、ルター派の宗教観とバッハの音楽的天才を融合させた傑作であり、トマスカントールとしての職務を忠実に果たした結果です。


バッハのキャリアは、トマスカントールとしてライプツィヒでの活動が最もよく知られています。 彼は1723年からその役職に就き、教会の音楽監督として、トーマス教会や聖ニコライ教会で礼拝音楽を指導しました。
この時期に、バッハは代表作として知られるマタイ受難曲やヨハネ受難曲、ミサ曲ロ短調など、後世に大きな影響を与える宗教音楽を作り出しています。

バッハの功績としては、バロック音楽の発展における最大の作曲家の一人として、フーガや対位法を極限まで発展させ、宗教音楽と世俗音楽の両方で傑作を残しました。
彼の作品は、後世の作曲家たちに多大な影響を与え、現在でも世界中で演奏され続けています。

神話の背景:アポロンとパンの音楽対決


フィーバスとパン』の元となる物語は、ギリシャ神話に登場するアポロン(フィーバス)と牧神パンの音楽対決です。アポロンはリュートの名手であり、音楽や芸術の神として崇拝されていました。一方、パンは自然と素朴な生活を象徴する牧神で、笛(パンパイプ)を奏でることで知られています。この神話では、両者がどちらの音楽が優れているかを争い、ジャッジを受けるという構図が描かれています。

神話によれば、審判役となったのはミダス(マイダス)王
彼はパンの笛の素朴さに共感し、パンを勝者に選びますが、この判断に不満を抱いたアポロンは、ミダスの耳をロバの耳に変えてしまいます。
このミダス王は『ゴールデンタッチ』と『王様の耳はロバの耳』の主役になっている王様です。
この結果、アポロンの芸術的で洗練された音楽が正当であることが強調され、パンの素朴な音楽は大衆に受け入れられやすい一方で、真の価値は低いとされました。

この対立は、芸術と大衆音楽、洗練された文化と素朴な表現の対立を象徴しており、18世紀当時のヨーロッパでも同様の議論が行われていたことから、バッハの作品に深い意味を与えています。

私の出演経験とパンのキャラクター


私は、過去に『フィーバスとパン』の公演でパン役として出演した経験があります。
この公演は、単にオラトリオを演奏するだけではなく、演技付きのパフォーマンスとして行われ、非常にユニークな現代演出が施されました。
私が出演したバージョンでは、古代ギリシャの神話の世界ではなく、現代のテレビでの歌合戦という形で、フィーバスとパンの対立が描かれました。
このような新しい視点からのアプローチは、観客に大きな楽しみを提供し、音楽とストーリーテリングの融合が成功した例と言えます。

この公演で、私は本格的に踊りながら歌うというチャレンジをしました。
パンというキャラクターは、自然で素朴な音楽を愛する牧神として、体全体で音楽を表現する必要がありました。
幸いなことに、私はこれまでクラシックバレエや他のダンスを学んできた経験があり、それをフルに活かすことができました。
演技と音楽、そして踊りを組み合わせたこの役柄は、私にとって非常に大きな挑戦であり、同時に成長の機会でもありました。



パンの哲学と私の共感


パンというキャラクターは、私にとって非常に共感できる存在でした。
というのも、私自身も音楽において芸術性以上にエンターテイメント性を重視する傾向があるからです。パンは、高尚なアポロンの音楽とは対照的に、素朴で楽しい音楽を好むキャラクターで、彼の音楽哲学は私自身の考えと非常に近いものでした。
彼の音楽は自然と直感に訴えかけるものであり、難解な芸術的表現よりも、観客にダイレクトに楽しんでもらえることが重要だと感じる私にとって、パン役はまさにぴったりの役でした。


ライアン・ターナーとの共演


この公演では、指揮者であり音楽監督であるライアン・ターナー(Ryan Turner)と共演しました。
ライアン・ターナーは、ボストンにあるエマニュエル教会の音楽監督でありバッハ音楽のスペシャリストとして知られており、その指揮スタイルは非常に知的でありながら、感情的な表現も見事に引き出すものです。
彼との共演は、私にとって非常に貴重な経験となり、バッハの音楽を深く理解する大きな学びとなりました。

この作品を通じて、音楽の構造や表現の重要性を再確認するとともに、彼の下で音楽を作り上げる過程は私に多くの刺激を与えました。この経験が、私が後にミュージカル俳優としてキャリアを進める際の重要な一歩となったことは間違いありません。

リサーチの重要性:パンについて学ぶ


パン役を演じるにあたって、私は徹底的にこのキャラクターについて調べました
まず、地域で最も大きな図書館に通い、パンに関する書籍を可能な限り読みました。
当たり前ですが、すべて英語の資料だったため、読解には時間と努力が必要でしたが、パンというキャラクターの背景を深く理解するために欠かせない作業でした。

さらに、ハーバード大学の美術館、ボストン美術館(MFA)、そしてニューヨークのメトロポリタン美術館にも足を運び、パンが描かれた絵画や彫刻を直接見に行きました。
美術作品を通してパンの姿を視覚的に理解することで、彼のキャラクターに対するイメージをより明確にすることができました。
これらのリサーチは、パン役を演じる上での私の基盤となり、役作りに大いに役立ちました。

自信の再確認


さらに、この公演を通して、私は自分のダンススキルにも新たな自信を持つことができました
実は、数年間ダンスを辞めていたため、自分の技術に対する不安がありました。
しかし、公演の中で、ディレクターが私の動きを評価し、それを舞台の中に取り入れてくれたことで、私は自分のダンス能力が平均以上であることを再確認しました。この経験を通じて、今後のミュージカルキャリアにおいても、踊りを積極的に取り入れていく自信がついたのです。


まとめ


『フィーバスとパン』は、単なる音楽作品を超えて、芸術と大衆音楽の対立、洗練された音楽と素朴な音楽の対比を描いた、バッハのユーモアと哲学が詰まった作品です。
この物語の元となるギリシャ神話は、音楽や芸術がいかに人々に影響を与えるかを示しています。

私にとって、この作品でのパン役は、自分自身の音楽に対する哲学と共鳴する部分が多く、非常に意義深いものでした。演技、歌、踊りのすべてを組み合わせるこの役は、私がこれまでに培ってきたスキルをすべて活かすことができ、また新たな挑戦となりました。この経験を通じて、私はミュージカル俳優としてのキャリアを築くための自信を得ることができました。バッハの音楽とともに過ごしたこの時間は、私にとってかけがえのない財産です。

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