
クリスマスキャロルとパーマストン
クリスマスキャロルの時代背景を理解するには、当時のイギリス政治の中心にいたパーマストン卿(ヘンリー・ジョン・テンプル)の影響を知ることが重要です。パーマストンは、外交の面で非常に影響力を持ち、アヘン戦争やクリミア戦争、そしてアメリカ南北戦争にも大きな影響を与えた人物です。
はじめに
ヘンリー・ジョン・テンプル、通称パーマストン卿は、19世紀のイギリス外交において中心的な役割を果たした人物であり、その影響力は内政、外交ともに大きなものがあった。彼は2度にわたりイギリスの首相を務め、その間に外相としても長期間イギリスの外交政策を主導した。パーマストンの外交政策、特に「栄光ある孤立」として知られるイギリスの外交戦略について考察する。また、彼の反奴隷主義とアメリカ南北戦争に対する姿勢、さらにはマクラウド事件やアヘン戦争などの出来事を通じて、彼の国際的な影響力を分析する。
栄光ある孤立
「栄光ある孤立」(Splendid Isolation)は、19世紀のイギリスが採用した外交政策を象徴するフレーズで、特にヴィクトリア朝時代を通じて顕著に現れました。
この政策の根幹にあったのは、イギリスが大陸ヨーロッパの複雑な政治的同盟に巻き込まれないようにしつつも、海軍力と貿易を通じて国際的影響力を維持するという考え方です。
パーマストンは、この政策を積極的に推進し、イギリスの国際的孤立主義を強固にしましたが、その実態は、イギリスが「孤立」しているわけではなく、むしろ強力な海軍力を背景に各国に影響を与え続けたというものでした。
パーマストンの外交政策は、イギリスの利益を最優先し、国際的な同盟には関与せず、他国に対して強硬な態度を取ることを特徴としていました。
彼はしばしば武力を背景に外交交渉を行い、必要に応じて介入し、イギリスの経済的利益や国益を守ることを優先しました。
「栄光ある孤立」は、他国との同盟や協力を避ける一方で、イギリスの海軍力を使って世界中で影響力を発揮し続けた政策の象徴です。
パーマストンは、イギリスが他国の問題に深く巻き込まれることを避けつつ、経済的・軍事的な優位性を確保するというこの考え方を推し進めました。
また後にその「栄光ある孤立」から脱却した際の最初の同盟は大日本帝国との「日英同盟」でした。
パーマストンの反奴隷主義と南北戦争(内戦)
アメリカ合衆国の初期の大統領の多くは南部ヴァージニア出身で、「ヴァージニア王朝」と呼ばれるほどでした。
ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンはプランテーションを経営し、黒人奴隷を所有しており、ジェファーソンには黒人奴隷の愛人に無理やり子供を作らせていた。
北部も南部ほどではないにせよ、自由があったわけではなく、黒人に対する差別も根強く存在しました。
当時、北部における黒人の投票率は非常に低く、投票所に黒人が来ると嫌がらせや暴力が行われ、警察もそれを見過ごすことが多かったため、実質的には黒人を排除して白人だけの国にしようとする動きが見られました。
1860年、エイブラハム・リンカーンが「奴隷解放」を公約に掲げて北部の熱狂的な支持を受け、大統領に当選しました。
これに対して南部は危機感を抱き、連邦からの脱退を考えました。
当時は今の様にアメリカが国家としてまとまっていなかったので連邦からの脱退を禁じるためのルールはなかった。
南部にとって奴隷制の廃止は経済的に致命的であり、リンカーンは奴隷制廃止を延期する提案をしたものの、支持者から「公約違反」と非難されました。
南部は連邦から脱退を宣言し、アメリカ連合国を建国しました。
その後もリンカーンは「連邦に留まってくれるなら奴隷制を認める」と提案しましたが、南部はこれを拒否し、結果的に南北戦争が勃発しました。
南部には優秀な軍人が多く、戦争初期の2年間は善戦しました。
また、当時世界第3位の大国であったフランスが南部を承認し、リンカーンはイギリス(パーマストン)の支持を得るために「奴隷解放戦争」という大義名分を掲げました。
イギリスのパーマストン首相は熱心な奴隷廃止論者であり、リンカーンに対して好意的中立を維持しました。
最終的に、経済力と生産力で勝る北部が戦争に勝利し、シャーマン将軍による悪逆非道な焦土作戦などもあり南部は徹底的に破壊されました。
戦後、南部の指導者たちは厳しく糾弾されました。
南北戦争の本質は、奴隷解放ではなく、連邦離脱を阻止するための北部と、リンカーンの侵略戦争に抗う南部との戦いでした。
戦後、北部は「これは内戦であり、奴隷解放のための正義の戦争だった」という“神話”を形成。
これを内戦であったことにしなければ北部はただの侵略国家と言われるためその様な神話を作ったわけです。
その後、連邦離脱の権利を否定しました。
これにより、アメリカは統一国家としての地位を強固にし、連邦離脱を許さない姿勢を確立しました。
1776年アメリカ建国というのは13州が合衆国憲法というなの同盟を結んだだけであり現在の欧州連合(EU)の様なものであり、現在のアメリカ合衆国の真の建国はこの時と言えるでしょう。
マクラウド事件とアメリカへの脅迫
アメリカとの関係では、アレクサンダー・マクラウド事件が象徴的です。アレクサンダー・マクラウドはカナダ国境で逮捕され、殺人罪で逮捕されていましたが、パーマストンが「容易に忘れられない教訓を与えることになる」と脅迫したことで、大統領は泣き寝入りし、マクラウドは無罪となり釈放されました。
彼は常々演説で「たった一人の大英帝国臣民の死でも開戦原因となりうる」と言っていたようにその態度を貫いた。
現実的にもイギリスはインドから軍隊を送ることができる一方、アメリカは大した軍事力を持っていませんでした。
なのでアメリカは常にパーマストンに気を遣い続けました。
当時アメリカには海軍はあったが、提督の階級がありませんでした。
それは組織全体を統括する高位の指揮官が存在しなかったことを意味し、これは通常、大規模かつ複雑な海上作戦を行うための指揮体系が整っていないことを示唆します。(提督の階級ができた1866年が実質的なアメリカ海軍の誕生と言える)
アヘン戦争とイギリス議会の反対
アヘン戦争は19世紀にイギリスと清との間で起こった貿易をめぐる紛争であり、1839年から1842年まで続いた第一次アヘン戦争と、1856年から1860年まで続いた第二次アヘン戦争(アロー戦争)から成ります。この戦争は、単なる貿易摩擦にとどまらず、国際的な影響をもたらした重大な事件であり、清国の没落と欧米列強のアジア支配の幕開けを象徴する出来事でした。
18世紀から19世紀にかけて、イギリスは清国との貿易において巨大な貿易赤字を抱えていました。
イギリスは茶、絹、陶磁器といった清の製品を大量に輸入していましたが、清側はイギリス製品をあまり必要とせず、銀での支払いを要求していました。
この貿易不均衡を是正するため、イギリスは清国にアヘンを輸出し始めます。アヘンはインドで生産され、清国で違法にもかかわらず非常に高い需要がありました。
アヘン貿易はイギリスにとって極めて利益が大きく、貿易収支を改善する手段となりました。
アヘンは短期間で清国内に広がり、多くの清人がアヘン中毒に苦しむことになりました。
清政府はこの問題に危機感を抱き、ついに1839年、アヘンの取り締まりを強化し、アヘンを焼却するという強硬手段に出ました。
このアヘンの焼却が、戦争の直接の引き金となりました。
清国の役人林則徐は、広東で押収した大量のアヘンを公然と焼却し、イギリスのアヘン貿易を根底から揺るがしました。
この行動にパーマストンは激怒し、軍事行動を決意します。
1839年、イギリス海軍は清国沿岸を封鎖し、第一次アヘン戦争が勃発しました。
アヘン戦争に対して、イギリス国内でも激しい議論が交わされました。
多くの議員や市民は、アヘン貿易そのものが倫理的に問題であり、アヘンを押し付けるための戦争は正当化されないと考えていました。
特に宗教的な道徳観から、アヘン貿易は「罪深い行為」として批判されました。
一方で、パーマストンなど政府の主要な指導者たちは、国益を最優先し、戦争を強行しました。
パーマストンは「支那は10年に一度叩きのめす必要がある」という発言をしたという事でも知られています。
そして本当に彼は再度清を叩きのめします
アロー戦争
アロー戦争(1856年–1860年)は、イギリスとフランスが連合して清国に対して行った戦争で、名目上は通商の自由や外交の不当な扱いに対する抗議でしたが、実態としてはヨーロッパ列強が清国に対してカツアゲのような形でさらなる譲歩を引き出した事件です。
この戦争は、第一次アヘン戦争に続くイギリスの清国へのさらなる侵略を正当化する手段として行われました。
この戦争の引き金となったのは、清国当局がイギリスの商船「アロー号」を拿捕し、船員を拘束した事件でした。イギリスはこれを口実に清国への報復措置を取りましたが、実際のところ「アロー号」は清国籍の船であり、イギリス政府が介入する正当な理由はありませんでした。
しかし、当時のイギリス政府、特に外相パーマストンはこれを外交的圧力として利用し、さらなる特権を清から引き出す目的で戦争に突入しました。
イギリスは単独で戦争を行うのではなく、フランスとも手を組みました。フランスは、宣教師が殺害された事件を理由にして参戦しましたが、この戦争の目的もイギリス同様、清国に対するさらなる貿易利権の拡大でした。
イギリスとフランスの連合軍は清国の主要都市を攻撃し、清政府に強大な軍事的圧力をかけました。
アロー戦争の本質は、清国に対して不平等条約を押し付け、さらなる特権を得ることにありました。イギリスとフランスは、戦争を正当化するためにあらゆる外交的な口実を使いましたが、実際には清国の弱体化を狙い、経済的利益を引き出すことが目的でした。
特に第二次アヘン戦争後に締結された天津条約(1858年)と北京条約(1860年)により、列強諸国は新たな港の開放、アヘン貿易の合法化、さらにはキリスト教の布教活動の自由など、清国にとって非常に不利な条件を強要しました。
清国はこの戦争によってさらに多くの主権を喪失し、半植民地状態に追い込まれていきました。
クリミア戦争とパーマストン
クリミア戦争でも、パーマストンの外交手腕が試されました。
パーマストンが外相ではない時期をロシアが「チャンス」と見た背景について触れますと、19世紀のヨーロッパにおけるパワーバランスの中で、パーマストンは常にロシアに対して強硬な外交政策を取っていました。彼が外交の表舞台から退いた瞬間、ロシアはそれを隙と捉え、特に東方問題において勢力拡大を図ろうとしました。
一方、オスマン帝国(トルコ)は、パーマストンが依然としてイギリス内閣の重要な地位にあることを理解しており、イギリスを味方につけることが可能だと信じていました。
パーマストンは、東方問題に関してロシアの拡張主義を抑制する政策を長年進めており、オスマン帝国は彼の影響力を背景に、イギリスをロシアの脅威からの防波堤として期待していたのです。
パーマストンが外務大臣ではない期間であっても、彼は内閣の主要なメンバーとして影響力を持ち続けており、オスマン帝国はその存在を頼りにしていたことがわかります。
クリミア戦争が勃発した背景には、ロシアがオスマン帝国に対して侵攻することでヨーロッパにおける地位を強化しようとした一方で、イギリスはパーマストンの主導により、ロシアの野心を抑え込もうとする動きがありました。
また、オーストリアハプスブルク家はロシアからの援助要請を受けていました。
オーストリアは当時、フランスとイギリスの立場も見極める必要がありました。これらの国々がオスマン帝国を支援し、ロシアに対抗することを決めたため、オーストリアがロシアに加担することは外交的にリスクが高かったのです。
最終的に、オーストリア皇帝フランツヨーゼフ1世はロシアからの協力要請を断り、むしろロシアに対して中立的ではなく、敵対的な態度を取るようになりました。
オーストリア軍はドナウ川沿いに展開し、ロシア軍がこの地域での進軍を続けるのを妨ぎました。このことが、クリミア戦争中のオーストリアとロシアの関係悪化の一因となり、その後の国際政治においても両国の関係に影響を与えました。
このことについてはミュージカル『エリザベート』で話されています。
結果的に、ロシアはパーマストンが外務大臣を辞任していた一時期に、戦争を開始するタイミングを見計らったとも言えますが、イギリスが最終的にはパーマストンの影響の下でロシアの進出を阻止し、オスマン帝国を支持する形となりました。
パーマストン外交における「武力の影」と平和的解決
パーマストン卿の外交手腕は、「砲艦外交」という強硬な外交政策によって特徴づけられますが、その根底には「武力を背景にしつつも、それを最後まで行使しない」という戦術が見受けられます。
これは、一見するとヤクザの手法と似ています。
ヤクザは暴力の可能性をちらつかせながらも、実際にはそれを使わずに相手を従わせる。
パーマストンもまた、イギリスの圧倒的な海軍力や軍事力を背景にしながら、あくまで平和的な解決を模索することで多くの問題に対処しました。
この戦術の成功の鍵は、パーマストンが交渉相手に「いつでも軍事力を行使できる」という強力なメッセージを伝えつつ、実際には武力行使に至らないというバランスを保ったことにあります。相手国は、この「見せかけの武力」によって譲歩を余儀なくされる場面が多く、パーマストンはこれを効果的に利用しました。彼の政策は、まさに「武力をちらつかせつつも最後まで手を出さないヤクザ」としての姿勢に通じるものがあります。
パーマストンとヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王とパーマストン卿の関係は、非常に複雑で時には緊張感がありました。
特に外交政策をめぐる対立が多く見られました。
パーマストンは、積極的で一方的な外交姿勢をとることで知られ、ヴィクトリア女王の慎重でバランスの取れたアプローチとはしばしば対立していました。
有名な出来事の一つとして、フランスのルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデターに対する対応が挙げられます。
女王は中立を維持するよう指示していたにもかかわらず、パーマストンはフランス大使にクーデターを支持するような発言を行い、女王の命令を無視しました 。
このような対立は、単なる個人的な問題ではなく、君主制と議会制民主主義の間での権力のあり方に関わるものでした。
ヴィクトリア女王は、パーマストンが彼女の意向を軽視し、内閣の決定を無視することに対して強い不満を持っていました。
これが彼の一時的な解任につながったものの、パーマストンは引き続きイギリスの外交政策に影響を与え続けました。
また、パーマストンの強硬な外交政策、特にクリミア戦争や第二次アヘン戦争における介入主義的な姿勢は、ヴィクトリア女王にとっても大きな悩みの種でした。
彼女は、イギリスの国際的役割についてパーマストンとは異なるビジョンを持っていたことが、彼女の苦悩を一層深めました。
これらの出来事は、ヴィクトリア女王がパーマストンの独断的な行動に対してどれほど頭を悩ませていたかを示すものであり、彼女の時代における君主の役割がどのように試されていたかを浮き彫りにしています。
女王夫妻はパーマストンをピンゲルシュタインと陰口をたたきながらも、彼の決断力には大層意志の強い男と評したと言われている
結論
パーマストン卿の外交政策は、19世紀イギリスの国際的地位を強固にするものであった。彼の「栄光ある孤立」政策は、イギリスの経済的・軍事的優位性を確保し、他国との同盟を避けつつ国際的影響力を拡大するという独自のアプローチを確立した。また、彼の反奴隷主義やアヘン戦争における強硬な外交姿勢は、国益を最優先にした政策の表れであり、その影響はイギリスの国際的地位に大きな影響を与えた。
最終的に、パーマストンは国内外で多くの対立を引き起こしたものの、その外交手腕はヴィクトリア朝時代のイギリスの栄光を支える要因となったのである。
おわりに
結論として、ヴィクトリア時代のイギリスを舞台にした『クリスマスキャロル』は、単なる貧富の格差を描いた作品ではなく、当時の世界的な外交や国内の政治的対立の影響を受けた背景を含んでいます。
ヴィクトリア女王の治世下、パーマストン卿の強硬な外交政策や積極的な国際介入は、世界中の政治や経済に影響を与え、英国の地位を高めました。
しかし、それに対する女王自身の葛藤や悩みも同時に存在していました。『クリスマスキャロル』が描く社会問題や道徳的メッセージは、パーマストンが主導した複雑な世界情勢の中で、イギリス国民が感じていた不安や希望を反映していると言えるでしょう。
また、物語の背景にある産業革命や社会問題は、パーマストンの外交が国内外に与えた影響とも関連しています。
例えば、アヘン戦争やアロー戦争といった国際的な紛争は、英国の商業利益を守るための政策として実行され、国内での議論を呼び起こしました。これにより、エベニーザ・スクルージのような資本主義に毒された人物が登場する社会状況が形成されました。
最後に、パーマストンが世界各国に対して行った脅迫的な外交手法は、特にアメリカとの関係や南北戦争の背景にも影響を与え、リンカーンの奴隷解放プロパガンダの背後にある政治的動機も明らかになります。『クリスマスキャロル』は、こうした時代の動きを背景に、道徳的な再生や社会的変革の可能性を示唆しています。