たった一枚の絵を見る為に

日常、旅、日常。

日常と日常の間にある旅の時間。旅に出る前の日常には計画を立てたり妄想する時間があり、旅の後の日常には想い出が残り続ける。

本当に旅をして良かったと感じ始めたのは旅から帰って来て2ヶ月が過ぎた頃だった。自己主張の強い幾つもの記憶が、時間の経過と共にそれぞれの持ち味を残しながらも段々と頭の中で溶け合って一つの流れる想い出になった。様々な野菜が入ったシチューが煮込まれて徐々に味が一つにまとまって行くように。それでも強烈な記憶は強烈なままなんだけど。

まだ夜が明ける前、電車用の信号の赤や黄色が夜の空気の中に鮮明に浮かび上がる時間帯に、香川県の高松にある島々に向けて出発した。シンジラレナイほど早い。

初日は直島のベネッセハウスミュージアムで壁にかけられている世界中の国旗の中から日本の国旗を見つけて喜び、瀬戸内海を見ながらレモンクリームのパスタを食べた。風の無い日で近くの樹々の葉も少し遠い水面も揺れることはなく、いつか静かな気持ちになりたい時に今日に戻りたいと思った。樹々の薄い緑や濃い緑、山肌や遠い島を縁取る海岸の薄い茶色と空の水色が目に優しかった。

二日目は豊島(てしま)に行き、豊島美術館で初対面の人達と一緒に床に寝そべり、入り込んでくる陽射しを眺めながら建物内に反響する音に耳を澄まし、体の周りを流れていく不思議な水の動きを目で追った。その後、海辺に建つ小さな建物に行き、小部屋で胸に聴診器を当ててヘッドフォンを付けて自分の心臓の音を聞き、CDに録音した。心臓が動いている状態が生きているということ。やがて止まるその心臓の音をこれまで一度も聞いたことが無かったことに驚く。帰り道、道を遮る様に座っていた人懐っこい島猫の頭を撫で、もう使われていない大きな港にある木のベンチに座ってタバコを吸い、町の人たちが使うローカルなバスに乗って船が出る港まで戻りフェリーに乗った。船が圧倒的な量の水をかきわけて進んで行く様子を眺めることがこんなにも癒されるのだと知った。

ここまで読んでくれたあなたは、タイトルになっている「たった一枚の絵」がいつまでも出てこないことを不思議に思うかもしれない。いつか何の先入観もなく、直島の地中美術館に飾られているその絵を見てみて欲しい。

たった一枚の絵を見る為に行った旅行で幾つもの想い出が残る。歩けること、耳が聞こえること、美味しいと感じられること、美しいと感じられること、目が見えること、心臓が動いていることがこんなにも素晴らしいことなのだと感じた旅だった。

今でも目を閉じると木々の向こうに見える静かな瀬戸内海と、その一枚の絵が目に浮かぶ。

瀬戸内の島々。いつか一人であるいは誰か大切な人と訪れてみて欲しい。

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