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おざなりなクリスマスで良いな。
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友人と待ち合わせて東京都写真美術館の展示を見に行く。美術館は恵比寿ガーデンプレイスに併設されており、でかいクリスマスツリーやらモニュメントがあちこち並んでいてイルミネーションでピカピカしている。この季節、ハロウィンが終わると街は一気にクリスマス前夜祭みたいな装いになるので11月って存在しないみたいだなと思う。恵比寿の記憶はいつもこれくらいの季節で、もうクリスマス一色なんだなあと思いながらアウターの重みを感じてキラキラしているガーデンプレイスを通り抜ける景色をよく思い出す。
写真美術館にはアレックソスの展示を目当てに行ったが、同時開催されてた「現在地のまなざし」という展示の作品がえらく印象に残っている。解体されることになった空き家から出てきた何百枚、何千枚という大量の家族写真が雑然と一角に積まれてあり、観客はその写真の塊を手にとって見ることができる。2000年初期に撮られたものもあれば、もっと昔、何十年も前のもある。どれも少し色褪せていて誰一人知っている人は写っちゃいないのだけど、なぜか懐かしい気持ちになるとともに、これらの写真が空き家の解体作業で出てきたことは一抹の寂しさを感じさせる。写真を撮る行為が意味することは人それぞれで、その違いが写真家の作風につながるんだと思うが、この夥しい写真の山を見て、撮影した瞬間その時間の自分を、過去という空間に置いてくる作業なのだなと感じた。自分という人間は過去も今も地続きで生き続けているわけだけども、写真に撮るとある一瞬の自分を踵の角質を落とすような感じで地続きな自分本体から切り離し、過去に置きざりにする、そんな行為に感じたのだった。展示されていたあの写真の人たちが今どこで何をやっているのか、今も生きているのか何もわからないが、彼らにとってあの写真たちはもう不要なもので、過去に縋ることなく今を生きていけるということなら、少し光も感じる。
写真美術館を後にして六本木の森美術館に行く。ヒルズの象徴のでかい蜘蛛のオブジェを作ったルイーズ・ブルジョワの展示を見た。他者と関係を築くことの切実さや痛みが込められた作品ばかりで、見るのに身体的にも精神的にもエネルギーがいる展示だった。
友人と解散し青山通りを歩く。六本木で地下鉄に乗るより青山に出てしまった方がアクセスがいいのでいつもそうしているが、歩くと気分がいいので結局表参道あたりまで歩くことになる。青山に思い入れがある生活では全くないのだけれど、この道を歩いた時間は結構長い。仕事でいい気分になって意気揚々と歩いたこともあれば、無理な日が始まり何かから逃げたくて歩いた記憶もある。色恋を期待して人と会い満たされて昂った気持ちを落ち着かせるために歩いたこともあれば、何も始まらずに虚しさだけが残った日を癒すために歩いたことも多分ある。道に並ぶあれやこれやの高級そうな店たちは、全部親しみがないなと思いながらいつも歩く。
いつも通り歩いていると、店の入り口に空気で膨らませる形式のクリスマスツリーを飾っている店があった。営業はしているが外壁工事期間らしく建物は足場で囲まれていてとても無機質な空間で、ツリーも空気が微妙に足りないようでくったりとしている。クリスマス感を全面に演出しようという気はさらさらなく、11月になったからとりあえず、と急拵えされたような出立ちでつい「おざなりだなぁ」と呟いてしまった。おざなりでとても良い。誰に見られるでもなく、誰の記憶にも残らないであろう弱気なクリスマスが妙に気になり、一度素通りしてしまったが、戻って写真を撮った。