メルボルン・ストーリー ①
トラムの歌姫
(日豪戦が近くなると思い出すのが、7年前にメルボルンで行われた日豪戦の取材で3日間ほど現地滞在した時の経験。フットボールとはまったく関係ないが、7年前にFBに上げた内容を加筆訂正の上でnoteに転載した)
メルボルンに来るたびに、何か面白い経験がある。"物語"と名乗るほどネタがあるわけではないけども、それぞれの経験を書き残しておきたいと思う。
今回の滞在は日豪戦の取材。メルボルンに来る理由の半分はフットボールだから、ほとんど散策に時間を避けないのが残念。今回も御多分に洩れず3日の取材行で自由時間はあまり無い。
取材と原稿の合間にお世話になっている同業の大先輩との会食にシティに出た。楽しいひと時を終えて、宿があるサバーブまで戻るトラムを待っていた。
その停車場の横で1人の女性が遠慮がちに周囲を見回しているのに気づいた。意を決して、大きく息を吸ってから、そのホームレスと思わしき歳の頃20代半ばの若い女性は歌い始めた。
こう言っては失礼だが、そのくたびれた服装や苦悩に満ちた容貌からは想像できない美声で、アデルの曲を伸びやかな歌声で歌う彼女。しばし聴き惚れた。
ふと、我に帰って、ありったけのコインを彼女の前に置かれた紙コップに滑り込ませた。彼女は微笑んで、なおも歌い続けた。
しばらく、彼女の歌声を耳を傾けてるお目当のトラムが来たので、乗り込もうとすると、後ろから声が掛かった。
Thank you very much for your generousity,sir.
Now I have enough money for tonight's bed.
彼女は微笑んでいた。先ほどまでの苦悩の色は消えていた。覗き見ると、紙コップはコインでほぼ満タン。何枚かの金貨と5ドル札も見えた。僕は彼女の言葉に応えるべく、手を差し伸べて握手を求めた。
Thank you for your beatiful song. They made my day.
一瞬、驚き、ためらいがちに握り返して来た彼女の手はとても筋張って薄く細かった。僕がトラムに滑り込むと、彼女も踵を返して少し軽やかな足取りで雑踏に消えていった。
メルボルンの肌寒い夜、彼女が簡易宿泊所の綺麗なシーツのベッドで一夜を過ごせるのなら、あの美声への謝礼としての善意にも金額以上の意味があるというもの。
何だか気分が良い。シャワーを浴びてから、今夜も未明まで原稿に向かうとするか。
(写真はイメージです)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?