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【小説】魔窟の人~法医学研究室鵺野教授~

 ズルズル。
 暗闇の中でなにかが引きずられている。
 荒い息づかい――何いる。
 きゅるきゅると金属が擦れている。
 そして、衣擦れ。人だ――ひとりではない。
 声を押し殺して……嗚咽している。
 さいごに大きなため息。
 しばらくして部屋の引き戸がそっと閉じられる音がした。

 午後二時四十五分。休憩室に集まったわたしたち研究室のスタッフが、今日のおやつは何にしようかしらと相談しているところへ、和歌山県産の桃を手土産に捜査一課の八田さんが顔を出した。
「ナイスタイミング。ちょうどおやつにしようと思っていたところなの。すぐに切って出すから、八田さんもお茶して行かない?」
 陽子先輩が声をかけると、八田さんは「いいんですか」とうれしそうな顔で部屋に入ってきた。
「じつは、ぼくも一口食べてみたかったんです」
「こういうのは大勢でいただいほうがおいしいしね。ちょっと待っててみんなに声をかけてくるから」
 桃をもって部屋を出ていった陽子先輩を見送ると、わたしは八田さんに椅子を勧めた。
「きょうは桃なんかもってきてくださって、本部で何かあったんですか」「いいえ。最近はこれといった事件もないし、部長や班長のいる刑事部屋にい続けても気づまりなだけですから。いつもお世話になってる法医学研究室へあいさつに行ってきますって抜け出してきたんですよ」
 八田さんは、この春、警察本部の捜査一課に配属になったばかりの新米刑事さんだ。県警の捜査一課とわたしの働いている大学の法医学研究室とは関係が深い。
「鵺野(ぬえの)教授には、いつも犯罪死体の解剖でお世話になっていますから、すぐに『行ってこい』って。ちょうどいい息抜きです。……ところで教授は」
「いまはきっと教授室に。呼んできますね」
 休憩室を出て教授の部屋へ向かう。八田さんには「呼んできます」と気軽に言ったものの、教授の部屋を訪ねるのは気が重い。ドアをノックすると入っていいと返事があったので、そうっと開ける……そうっと。

 昼なのにカーテンを閉め切った部屋に灯りはついていない。壁際には人体模型や骨格標本が立っていて、棚には組織標本の瓶がずらりと並んでいる。壁には所狭しと写真が貼られているが、それらはいずれも変死体の写真なのだ。首吊り死体、服毒死体、刺殺体、礫死体などなどありとあらゆる人の死に方が網羅されている。薄暗い部屋の中、それら『法医学資料』に囲まれて、鵺野教授は椅子に座っていた。
「教授、八田さんがお見えです」
「ん、八田? だれだったかな」
「捜査一課の八田さんです。この春、刑事さんになったばかりの」
「ふうん。一課にそんな刑事がいたかな……。で、その八田がなんだい。また解剖の依頼かな、今日はこれから教授会なんだけど……解剖を優先したいから教授会、断っておいてくれる?」
 教授は極めてマイペースだ。
「いえ、あの……。解剖じゃなくて、日ごろお世話になっているお礼だと……」
「なんだ、解剖じゃないのか。気が進まないなあ。おれが行かなきゃダメ? 関口さんがおれの代わりにお礼を聞いといてよ」
「ええっ。教授にお礼ってことでしたのに」
「警察にしてみりゃ、法医学研究室の人間ならだれだっていいはずだよ」「そうですかあ……せっかく桃をお土産にもっていらしたのに……」
「桃か……。桃には興味あるな。その八田とやらは休憩室にいるのかい」 こうしてわたしは、人見知りの小学生のような教授を混沌の魔窟教授室から誘い出すことに成功した。

 休憩室には、法医学研究室の主なスタッフ5、6人が集まっていて、もう八田さんの持ってきた桃を食べはじめていた。

「教授。捜査一課の八田です。いつもお世話になっています。これは……お世話になっている法医学研究室の皆さんで召し上がっていただこうと――」「ああ、八田くん? ありがとうありがとう。検視官室長にはよろしく言っといてよ。ところでおれの分はどこ?」
「教授のはちゃんととってありますから。あー、関口さんこっちこっち、早く食べないとなくなっちゃうわよ」
「すみません、陽子先輩!」
 わいわいがやがやと騒がしい。午後の法医学研究室はいつもこんな感じだ。教授の籠っている魔窟を除いては。

「八田さん、ゆっくりしていけるんでしょう?」
 あらかた桃を食べ尽くして、休憩室からスタッフがひとり去り、ふたり去りしていくと、陽子先輩が八田に声をかける。若くてイケメンの八田さんは、陽子先輩の好みのタイプだ。
「ああ、でも、そんなに長くは……。報告書をひとつ仕上げないといけませんから」
「でもさっきは事件がないって」
「そうなんですけど、今朝方、首吊り自殺がありまして……。それを報告書にまとめないと」
 自殺には犯人がいないので、八田さんたち刑事にとっては事件でないらしい。
「あら大変。どこであったのそれ」
「ええ、新塚(あたらづか)高校って知ってます? そこの美術室でのことなんですけどね――」
 新塚高校は普通科のほかに、県内では珍しい美術科が設置されている高校である。八田さんの話によると、その新塚高校の美術室で今朝、首吊り死体が発見されたという。
「美術室の天井には、大型の彫刻を釣り上げるためのクレーンが設置されてまして。そこにロープを掛けて」
「まあ、だれが亡くなったの? まさか生徒さん?」
「いえ、交野(かたの)という美術科の教師です。教師にあるまじき素行の悪い男で、あちこちに借金を作っていたようで」
「借金苦による自殺……」
「ええ。電気を止められたアパートには戻らず、学校の美術室で寝起きしていたようです」
「まあ」
 陽子先輩の合いの手がいいのか、もともと話好きな性格なのか、八田さんはスルスルとその時の情景を話してくれる。
「朝、登校してきた美術科の生徒三人が発見しました」
「びっくりしたでしょうね」
「すぐに警察に通報があって、ぼくたちが臨場した時にはまだ、天井からぶら下がっている状態でした」
 それは発見した高校生はショックだっただろう。法医学という仕事柄、比較的人の死体を見慣れているわたしたちでさえ、ぶら下がった首吊り死体を直に見たことはない。せいぜい、教授室に貼られている中にひとつある首吊り死体の写真くらいだ。
「ロープを外して下ろした時は、すっかり冷たくなっていて――」
 ふと、八田さんが考えごとをするように、視線を空中に泳がせた。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや。そういえば遺体をロープから下ろした時に、この――桃の香りに似た甘い匂いが、かすかにしたなって思い出したんです」
 ふと見ると、さっきまで切られた桃が盛られていたお皿が空っぽになっている。最後のひときれを食べているのは……教授だ。
「美術室に桃なんて置かれてなかったし、あれって思ったんですよね」
「ふーん」
「八田くんは――」
 突然、いままで黙ったまま桃を頬張ることに専念していた鵺野教授が口を開いた。桃の果汁に濡れた指先を未練たらしそうに舐めている。
「あれっと思っただけなのか?」
「えっ」
「首吊りといっていたけど、首に残ったロープの跡に生活反応はあったかい。血液は採取して科捜研へ検査に出したのかな」
「……いいえ、そうしたことはしてません。今回のは殺人事件じゃなくて自殺ですから」
「遺書は?」
「……ありませんでした」
 教授の追及に八田さんは泡を食ったみたいだ。やばい。教授の目が鋭く据わっている。どうやら、法医学者としてのスイッチが入ってしまったらしい。
「まだ、遺体は警察署にあるのか」
「は、はい」
「すぐに大学(ここ)へ持ってきなさい」
「え、でも……」
「今朝、遺体を発見した高校生たちの身柄も押さえておくんだ。これは自殺じゃなくて殺人事件だよ、八田くん。死因を調べるため、遺体は解剖する」

 新塚高校の美術室で、美術科教師・交野初(かたのはじめ)の遺体を発見した三人の高校生は、警察の追及を受けると程なく交野殺害を自供した。ここからは、後で八田さんから聞いた話だ。
 殺された交野は、借金以外にもいろいろと悪どいことを重ねてきたワルだったようだ。学校の金を手をつけていたほか、絵の勉強のため、お互いヌードモデルになりなさいと三人の高校生を裸にして、その様子をスマートフォンなどで撮影。その画像をSNSを介してネット上に晒すと脅し、三人の高校生に代わる代わる肉体関係を強要していたらしい。
 高校生たちは、美大受験まで指導を受ける間はと我慢していたが、いつまでたっても受験指導ははじまらず。思いつめた三人が示し合わせて交野の毒殺を計画。夕食に青酸カリを仕込んだカプセル混ぜて殺害し、自殺を偽装するために三人で死体をクレーンに吊るした。青酸カリはインターネットの裏サイトで入手したらしい――というのが後の捜査で判明した事件のあらましだ。
「どうして教授は、八田さんの話だけでこの事件が自殺を偽装した殺人だと分かったんですか?」
 休憩室で三人の高校生が逮捕されたというニュースを見ながら、陽子先輩が教授に尋ねている。交野の解剖から数日が経った午後のことだ。交野の死因は、解剖の結果、「シアン化水素中毒による呼吸不全」と判明していた。
「ああ、あれか。あれはあのとき、一課の八田が『桃の香りに似た甘い匂いがかすかにした』と言ったからさ」
「甘い匂い……ですか」
「青酸カリは、胃酸と反応して猛毒のシアン化水素を発生させるんだが……シアン化水素は、かすかに甘い匂いがする気体なんだ」
「あ……それじゃ」
「青酸カリを摂取して自殺する例がないわけじゃないが、それなら重ねて首を吊る必要はないわけだからな。高校生たちは交野を吊るすことで自殺を偽装しようとしたんだろうけど、却って墓穴を掘ったってわけだ。ま、それだけ交野が憎かったし、生き返るかもしれないと思って怖かったんだろうね」
 わたしと陽子先輩は顔を見合わせた。悪いことはできないものなのだ。しかし――。
「人を殺してしまった高校生は悪いけれど、殺された交野の方がずっと悪い男のようにも思えますけどね」
「ええ、高校生たちが可哀そう……」
 しかし、わたしのたちの感慨とは別に、自殺を装った殺人事件を見破った鵺野教授は飄々としたものである。
「科学が解き明かす真実はときに残酷なものなのさ。ところで、季節はすぐに真夏になってしまうようだね。名残の桃を買ってきたんだけど、どう、みんなで食べるかい?」
 鼻白んだわたしたちは、さすがにそんな気分にはなれず、その桃は教授が独り占めすることになった。でも、そこは教授のことだ。こうなることを見越してわざわざ桃を買ってきたに違いない。ほんと、よく分からない人。魔窟の住人にふさわしい。

 それからしばらく、わたしたちは冷蔵庫のなかで冷えている桃を見て、うら寂しい思いにとらわれることになったのだけれど、きっと鵺野教授には、わたしたちの気持ちが分からなかったに違いない。

(了)

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