子どもの頃に描いた夢とこれからの自分
小学生の頃、とても大好きな先生がいて、将来は教師になるのだと公言していた。普通ならその志を持ったまま、夢を叶えたストーリーをお伝えしたいところだが、そううまくはいかなかった。
振り返ると、器用貧乏という言葉に親しみを感じ、やればできる子だと自分に言い聞かせ、要領の良さで挫折とは無縁に生きてきたように思う。高校入学時がおそらく学力のピーク…
大学受験も高校3年生になるまで遊び続けていたため、苦戦しそうな現実に直面。一から勉強することも浪人する勇気もなかったこともあり、大学に行くことがとりあえずの目標になっていた。
当時は心理学や社会福祉に関する学部であれば、やりたかったことからそう遠くはないと都合よく解釈して通い始めたものだから、見事に大学でも遊びまくり…
ただ、幸運にもそこで出会った教授からは福祉や物事の考え方の基礎を学ぶことができた。アドバイスされるままに、卒業論文を書くために児童自立支援施設に任意実習に行ったことは、いまの自身の支えになっている。(実習先に迷惑をかけ、「ダメな自分」を自覚できたという意味もあり)
大学卒業後は子どもと関わる仕事がしたいと、児童養護施設で指導員として働くことを決めた。何らかの事情で親などの保護者と暮らすことができない子どもたちと生活をともにする現場であり、喜びも苦しさも多くのことを共有できた。経験が少ないが故に怖いもの知らずで、視野が狭いくせに気合いと根性と勢いがあれば大体のことを乗り切れると思っている、生意気なヤツだったように思う。
当初はそこで力をつけて、業界で影響力のある存在になりたいと願っていたはずだったが、結局その職場を退職することにした。当時を振り返ると、その決断が自分の本心であったか、何かから逃げたかったのか曖昧で、今もあがきながらその答えを見つけようとしているような感覚になることがある。
その後は社会福祉士として、病院でメディカルソーシャルワーカー(MSW)という、疾病や障がいによる生活の変化や経済的な困難等を支援する仕事についた。医療の現場というものは、良くも悪くもそれぞれが抱える様々な困難が一気に顕在化する場所と言っても過言ではなく、「治療して、はい終わり」という訳にはいかないケースがたくさんある。それこそ、この仕事をしていなかったら出会うことがないだろう境遇の方々との出会いや、自分の常識や生活の感覚で物事を推し量ることの傲慢さを知ることができた。
そうした経験を経て、ふと自分の力試しがしたいと思ったのが、事業を始めるきっかけとなった。大きな組織に所属して、その後ろ盾で何でもできるような気になっていたことも存分に影響していただろうが、少なからず自分で事業を展開するうえで、まだ何の価値も生み出していない個人であるということは理解していたつもり。
それよりも、何も動かずに後悔することの方が怖かったように思う。絶対に足を止めないという強迫観念にも似た感情で自分自身を突き動かした。当初、ダメだった時は上手な転び方もできるだろうと軽い気持ちでいた部分もあったが、実際に志に共感して一緒に働いてくれる従業員ができたことにより、「絶対に成功させる」と考え直すことになった。もちろん、「絶対」などありえないが、それでも今もそう考えている。
これからのことは自分にもわからない。けれど、一歩踏み出したことで多くの人との出会いや繋がりが生まれたことは間違いなく、自分の強みやダメなところもたくさん知ることができた。
子どもの頃に思い描いた夢とは少し違う形ではあるけれど、とても楽しく刺激的な毎日を送ることができている。そして、自分にはこの経験を最大限活かしていくことができるのだと信じて、さらに走り続けていきたいと思う。子どもの頃に描いた夢とは少し違うけれども…