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【雑記】自分に興味がないことは、雑音に聞こえる
どうもこんばんわ。崇(たかし)です。
今日は「自分に興味がないことは、雑音に聞こえる」という話です。
二人暮らしの時間の過ごし方
ぼくは妻と二人暮らしですが、我々二人は家の中での過ごし方に結構違いがあります。
妻:テレビっ子。基本的に起きている間はずっとテレビをつけています。地上波の場合もあれば、動画サブスクだったりもします。ドラマ全般がお気に入りのようです。
ぼく:テレビ一切見ない。家では読書、ゲームなどで過ごすことが多い。また、帰宅した後や休日などに仕事をすることもしばしば。最近はnote執筆も。
そして、我が家は1LDKです。なので、リビングで妻がテレビを見ていると、その音が絶対に耳に入ってきます。そしてぼくにとってはその時している作業(読書とかゲームとか)にとってそのテレビ音がどうしても気になってしまうのです。
なのでどうしても気になる時は寝室で本を読んだり、イヤホンをつけて音楽を聴きながら作業したりしているわけです。
うるさいなと思う自分と向き合う
そういう時に、どうしても「うるさいな」と感じてしまう瞬間があります。
自分がテレビをあまり見ないのもあって、「テレビなんてくだらないもののために集中が阻害されている!」という気持ちになってしまうことが、どうしてもあるんです。
ですが、ある時ふと思ったのです。
「そう思うのって、自分がやっていること(読書とかゲームとか)がテレビより価値があるって思ってるってことだよね」
「それって本当にそうなの?ゲームに興味がない人からしたら、どうしてゲームがテレビより価値があるって言えるの?」
要は「スキに貴賤なし」ということですね。誰かが何かをスキだと思って、それを理解しない人が「なんでそんなことを」と言ったところで、その優劣を評価することはナンセンスなんじゃないかと。
実際、ぼくの奥さんはゲームはマリオしかやりません。他のゲームには一切興味を示しません。僕のやるゲームに興味を示したことはほぼ一度もありません。
なので、よく考えると完全に「どっちもどっち」だなーと。
人間、「自分に興味のないことは雑音に聞こえる」のだと思うのです。
「興味がないこと」への非寛容
最近、特に世の中に余裕がなくなってきているからか、SNS等でも非寛容な言葉が増えてきているように感じます。
その理由の一つに、上で書いた「自分の興味のないことは雑音に聞こえる」という心理があるんではないかと思っています。
人間誰しも、自分の「興味のないこと」より、「興味のあること」の方が価値が高い、意味があると考えがちです。
なので、「興味のあること」に何か問題があったときに、目についた「興味のないこと」に非寛容になり、攻撃してしまうのではないでしょうか。
でもそういう時ぼくたちは、その「興味のないこと」が他の誰かの「興味のあること」であるということを、忘れてしまっているのかもしれません。
コロナが流行り始めた頃に「夜の街」や「パチンコ屋」が槍玉にあげられたのも、そうした心理が働いていたように思います。
人間なので、完全にそうした心理から自由になることは難しいと思います。
ただ、そうした心理を一歩客観視して考えることで、少しでも寛容な姿勢を持つことはできるのではないかなと考えています。
という文章を、テレビの音を避けるためイヤホンをつけながら書きました。
今日は以上です。
ありがとうございました。