寮のボイラーが止まった日
↑写真は2007年10月21日、22:16の談話室 コタツと鍋とレモン水が懐かしい。鍋敷きが本のクラシス。
この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の20日目の記事です。
・2007年の温水シャワー設置以前は廃墟な風呂場の水シャワーしかなかった
・寮の設計相談役の西山教授が寮開設すぐあとの1968年に寮内を見に行った頃には、風呂は水しか出てなかった
・寮には暖房としてスチームボイラが存在したが、1982年に負担区分問題のあおりで止められた
・温水シャワーは長年の大学との交渉によって設置された
きっかけはamazon口コミ
以前、熊野寮の温水シャワー導入時の話を記載した。その際、寮据付の風呂がいつからか廃墟になっていたと書いた。そのときは勝手な妄想で、ボイラーが壊れてから誰も修理やメンテをしてこなかったのだろうと決めつけていた。だが、どうも違う可能性があることに最近気づいた。というのも、寮生の書籍「京都大学熊野寮に住んでみた ある女子大生の呟き」(著:福田桃花 2018年出版)のamazonサイトにこんな口コミがあったからだ。
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熊野寮の風呂事情について書かれているのでビビッっと来てしまった。注目したいのは、ボイラーが止められたという表現だ。止められた?誰によって?なぜ?
集団生活に風呂がないと困るだろ。入浴をサボると、人間は養鶏場の香りを放つ。私は、すっかり風呂停止はボイラー施設故障を学生が放置してたからだと思っていた。だが、事情はもっと複雑かもしれない。
この大先輩らしき方の口コミをきっかけに、当時の風呂事情を類推してみたい。
本記事の目的
この記事では「風呂はあったのになぜ止まったか」に焦点を絞る。そのほかの、自治寮vs大学の対立の歴史はゴチャゴチャしてるので、あくまで背景程度にとどめる。お互い食い違ってる人たちの主張の整理なんてキリないが逆に、整理に挑戦されてる方は凄いと思う。
これはこれで、物語として見ごたえあるんだけどね。
熊野寮の設計資料
口コミを書かれた方は、プロフィール曰く1963年生まれらしい。ということは現役入学と仮定して、寮に入った年は1982(昭和57)年ごろと推察される。そのころにボイラーが止められたらしい。
ここで、国会図書館デジタルアーカイブと、80年代ビラアーカイブと、熊野寮enpediaと、大学の学術情報共有サイト紅リポジトリを参考にしてみたい。
まずは国会図書館より、工学部建築学科の西山夘三さん著「日本の住まい」を参照しよう。西山さんは熊野寮の設計相談役のひとりだ。この本には熊野寮の設計資料が記載されている。
当時の設計情報を見てみよう。
厨房の右に「ボイラー」「浴室」「脱衣」とあるのが見えるだろうか。のちのシャワー室となる、熊野寮の風呂の配置だ。私が在寮していた時と同じ、A棟1Fの奥に風呂が存在することがわかる。ボイラー室も存在する。ほお~、このころから風呂あったのね!
西山夘三さんは1968年3月、学年試験の終わったある日に、建築学科の寮生の案内で吉田寮と熊野寮を調べに来られた。次のページにこうある。
「光熱水費については話し合いがつかないため、食堂の南側にある浴室は夏季には水浴びに使っているものの、浴室としてはつかわれないままになっている」とある。どうも、光熱水費について大学と学生どっちが払うべきか折り合いがつかなかったため、水しか出てない状態だったらしい。1965年4月に寮が開設してわずか3年後にもかかわらずだ。鴨川で水浴びするのと変わらないのでは。
60年代の闘い
京都大学新聞から、吉田寮の歴史をまとめた名記事「吉田寮百年物語」にはこうある。
熊野寮設立前の1964年から、光熱費は全国的にもずっと審議対象だったらしい。この議論の結果として、
とのように、継続審議とある。後の80年代でも再燃していることから、ひとまず問題を棚上げし、実質的な光熱費支払いを大学が行う状態となったようだ(負担区分問題というらしい)。熊野寮1期生村上さんの記述も見てみよう。
にもあるように、1965年に寮が出来て1年目には既に値上げに対抗して寮費不払い運動が行われていた。寮費ですら議論されていたのだから、別費目である光熱費はさもありなん。
学生側の資料
次に、学生側の視点に経ち、熊野寮の歴史が書かれたenpediaを見てみよう。
ほう、ボイラーの文字が出てきた。確かに、amazonの口コミ通りから想定される1982年の出来事だ。底冷え厳しい京都の冬にこれはいけずだ。「ボイラーが止められた」という口コミの裏付けになるんでなかろうか。
まてよ、この「暖房ボイラー」が風呂焚きと同じものか、不明瞭なのが気になる。私はすっかり、Amazonの口コミから1982年頃に風呂が止められたと思っていた。だが、口コミ曰く「入寮してすぐボイラーが止められて」とある。さすがの熊野寮でも、ボイラーが止まったら瞬時に荒廃するだろうか。ナウシカの腐海かよ。
もう一つ、1982年当時の熊野寮自治会が発行したこんなビラもあった。
寮生ではない方は、迫力あるフォントになんじゃこりゃと思われたかもしれない。いわゆる、学生運動から連綿と続くゲバ文字フォントのガリ版刷りのビラである。80年代にしてもえらいレトロどすなあ。こんなビラは私の在寮時('07~09)でもよく見慣れたものだが、熊ん蜂ってのは初めて見た。ボイラーを止められて怒っとる。一人称複数系の「わしら」って部分がいい味を醸している。
話を戻すと、ビラ曰く毎年11月20日には暖房ボイラーが稼働していた。なのに、1982年11月だけは故障したまま放置され、暖房無し生活となった。気になるのは、全文を読んでも風呂に関する記述は全くなく、暖房に関してのみ抗議している点だ。メチャメチャ怒っとるなら、風呂を止められた話も記載するはずだ。やはり、1982年以前から既に水しか出ない状態だったのではなかろうか。ひょっとして、西山夘三さんが調査された1968年から、いや下手したら設立の1965年からずーっと水しか出ない状態だったのでは?
そう思ってX(Twitter)でも検索してみると、こんな質問箱回答も見つけた。
間接的な情報だけど、やっぱり風呂は沸かされたことなかったのではないかしら。ただ、この方は確か2000年代の年入寮だったはずなので、直接確認されたかはわからない。
大学側の資料
いっぽうで、大学側の主張も見てみよう。ビラアーカイブより、当時の学生部長神野博さん名義で「学寮問題について」という文書が残されている。
光熱水費に関しては学生負担だという主張が記載されており、1983(昭和58)年のほぼ一年中闘っている。当時、相当手を焼いていたのが伝わる。さすが、大学側はんはしっかりされた文章を書かはりますなあ。
その後の経過は紅リポジトリにある大学百年史のとおり、学生負担の金額が交渉の末、合意に至ったらしい。
食堂改善がきっかけとなり(これも色々あったみたいだが)、光熱費に関しては1984~1985年にひとまず一件落着したようだ。私も在寮時に払ってた寮費と光熱水費含めた月4100円という金額に至るまで、こんなふうに議論されてたのね。ここに至るまで、両者で合意した結果と見られる(百年史は大学側が編纂した資料なので、ひょっとしたら俺たちゃ今でも納得してねーぞ!という立場をとってるかもしれない)。
ひとまず以上から、学生側と大学側の両面から光熱費に関する議論があったことが確認できた。
さまよえる風呂
風呂の話題に戻ろう。結局、風呂は温かいお湯を維持した期間はあったのかしらん?もしくは、光熱費の議論がひと段落した1985年頃はどうだったのだろう。
ここで、今一度80年代の寮の状況を知るために、学生側の資料を見てみよう。大学生活を開始される新入生の皆さんへというビラには入寮希望者にむけて寮の状態が記載されている。
古いビラなので読みにくくて申し訳ない。一番下の暖房の項目に、熊野寮は「冬は朝・夕 スチームが入ります」とある。これが、のちの1982年11月に壊れたという暖房のことか。また、一番上の欄に、各部屋の人数が記載されている。一部屋2~3人(C棟は1人)とある。西山設計では一部屋の定員4人(C棟は2人)なので、収容人数に対して半分近い空きがありそうだ。よく見たら、人数の部分が手書きで直されとる。本来の数字から実態に合わせて修正されたのだろう。
いっぽう、1982年の大学側資料には以下の記述がある。
1980~1982年当時の寮生の人数は収容人数の半分ほどの、200人程度しかいなかった。大学側は何度も人数把握を行ったようなので、これが本当なら結構な低調期だ。学生と大学の資料の両面から、当時の人数の少なさが伺えた。
寮は収容人数に対して常に8割以上は埋まっているイメージだったので意外だ。人数が少ないと部屋が広く使えるが、掃除などの当番を回す大変さは想像に難くない。自治会も維持が大変だったろう。となると、光熱費問題が一区切りしたとて、風呂再建にまで回す人的パワーはなかったのかもしれない。
そして温水シャワーへ
ただ、あんまり憶測を書いて間違ってたら、これまた当時の寮生に失礼なので一方的に決めつけちゃいけないよね。めっちゃ頑張って風呂を復活させて維持した学生がどこかの時代にいても変ではない。先に書くが、お祭りの時に力づくで沸かした人たちがいたことが後に明らかになる。
その後、確認できる範囲で最も古くは2001年から訴え続け、2006年12月の寮生大会(全寮生が議論する場)にて、大学への温水シャワー要求が決まり、私が1回生だった2007年7月、ついに温水シャワーが設置される。悲願と言ってもいいのでは。ガス代は100%寮生負担。以前記載した、初代シャワー局長の奔走の日々はどのビラにも資料にも載っていない。
振り返って
こうして資料を探っていると思う。文章に残っていない話は、今では類推するか、当時の寮生に直接お話を伺うしかない。資料保存の大事さが身に染みる。特に、80年代ビラアーカイブは有志によって作成されたらしく、一方だけの記録に頼らず信頼性を高められるという点で、非常に高い価値がある。
自身の寮生時代を鑑み、こうも思う。仮に、寮の風呂が止まることなく元気に稼働していたら、談話室からみんなで連れ立って近所の銭湯に通う習慣はなかっただろう。若くして異様に町銭湯に詳しい学生はちょくちょくいるが、上記の出来事が間接的に京都の銭湯文化の継承に少しは貢献していたかもしれない。
まとめ
ということで、少なくとも60年代後半と80年代は、寮の風呂は水しか出ない期間だったことが分かった。後に判明するが、やはりずっと水しか出ていなかった。
当時在寮されていた寮生の方々、および当時の自治会の方々、壊れた風呂を放置してたんだろうなんて、憶測で勝手なことを書いてごめんなさい。壊れて放置というより、大学と光熱費をかけて話し合ってた状態が長かったことが推察された。
また、シャワーの維持管理に関して、初代シャワー局長の努力の素晴らしさは、今日に至るまで変わらず燦然と輝いている。風呂運用の歴史がどうあれ、その功績が揺らぐわけではない。温かいシャワーの維持を成功させた歴史的英雄だ。改めて初代シャワー局長に感謝し、まとめとしたい。
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