吉田下阿達町にあった牧畜場と織物工場
↑京都大学文書館所蔵 外科研究室屋上より展望(医学部全景(南部方面、西部方面))1929年の京都織物
京大自治寮のひとつ、鞠小路通りにあった吉田西寮は、もともと京都織物株式会社の寄宿舎だった。吉田西寮のあった吉田下阿達町、現在の薬学部や医学部周辺の歴史を追ってみた。練兵場が牧畜場になり、その敷地に京都織物の工場が出来た後、戦後から薬学部キャンパスになった。
川東練兵場
京都織物五十年史によると、明治維新前まで聖護院領だった同地は荒れ地で、1864(元治元)年に幕府の兵員洋式訓練場である川東練兵場が開かれた。同年の天狗党の乱がきっかけで禁衛の守備を増強するために仮兵営を立てて松平容保が管理していた。京都府警の前身となる平安隊もここで訓練を受けたとある。河東操練所と書かれた資料も多い。
後の陸軍大将である児玉源太郎は18歳のとき入営している。
同日、大村益次郎が木屋町の旅館で暴漢に襲われたとある。のちの宇治キャンパスになる、宇治の火薬製造所を作った人だ。この仮兵営には、これまた後の陸軍大将である寺内正毅と西南戦争での陸軍大尉賀屋義矩もいた。大村は児玉と寺内によって担架で運ばれた。手当てのため、高瀬川から舟で運ばれるも、このときの傷がもとで大村は同年12月に亡くなる。京都市内に住んでいる人なら見たことがあると思うが、高瀬川沿いに大きな石碑がある。
こんな街中で遭難ってどういう意味かと思っていたが、襲われた場所ってことなのね。
川東練兵所には下士官候補100人近くが集められており、大村が襲われた翌日の9月5日から揖斐章による指導が開始される(維新政権の直属軍隊 千田稔 著 出版者 開明書院 出版年月日 1978.12 p. 84 )。フランス式軍事訓練を主眼とする下士官養成所であったが、明治3年5月12日(1870年6月10日)兵学寮に吸収されて教導隊になった(博士論文「洋楽導入過程の研究 : 先達者の軌跡」 1991年 中村理平)。存在した時期が短いからか、図すら見つからなかった。外観などご存じの方はお教えください。いつか、工事があればこのあたりから練兵場に関係する遺跡や遺物が見つかるかもしれない。
京都府立牧畜場
今では街中だが、明治期には牧場があった。京都府史006件名「兵部省練兵場廃地ヲ本府牧畜場トス」明治5年2月という資料が歴彩館にある。
宮内庁所蔵京都府名勝撮影帖(其1)にも「牧畜場」という写真がある。
奥に見える山は形状からして比叡山とみえ、鴨川から南東方向を撮影したとみられる。存在は古地図からも確認できる。
鴨川にかかる新橋は現在の荒神橋で、鴨川東岸に牧畜場と見える。
牛乳瓶も最近発見されている。
民間へ払下げされ、松原牛乳そしてたにじりやという京都のローカルブランドとして今も生き残っていくが、その話は別の記事に書いておきたい。
全国のローカル牛乳をまとめたサイト「漂流乳業」に、配達事業を継承した松原牛乳に関してまとめられている。
同サイトによると、1872(明治5)年に初代府知事・長谷信篤氏の肝いりで府営牧畜場とした開業した。1879(明治12)年、父親が牧畜場に出入りしていた小牧仁兵衛に払い下げられた。牧畜場の実務担当は明石博高。ちなみに小牧は銀行家で、熊野寮南西の聖護院蓮華蔵町にあった三谷伸銅関係でも名前がある。1876(明治9)年、槇村正直府知事の車夫だった松原榮太郎が赴任し、1909(明治42)年に京都牧畜場の事業を松原氏が継承したとある。
一般社団法人Jミルクのサイトにかなりの詳細が書かれており、写真資料も掲載されている。
松原榮太郎は、幼いころに父がなくなり母も行方不明となった苦労人だが、彼の商才によって京都牧畜場は採算がとれるようになったとある。
すげえ。同サイト曰く、最盛期は300頭以上の飼育規模だった。火災や牛疫を乗り越え、松原へ事業継承している。京大病院正門前に松原総本店の住所があり、松原牛乳は平成初期まで営業していた。
余談だが、この松原総本店があったのは幕末頃に太田垣連月や西川耕三の住んでいたあたりだ。太田垣連月は富岡鉄斎の若い頃の師匠的存在で寄付金で丸太町橋をかけた。西川耕三は池田屋事件で密儀に加わっており、後に新選組に斬られる勤皇家である。
現在では、稲盛財団記念館に立っている石碑がここに牧場があったことを示している。
左の細いほうの石碑は、1877(明治10)年の関西行幸を祈念した明治天皇行幸所牧畜場阯だ。私が在学中だった2008年頃、稲盛記念財団のお綺麗な建物が建てられた際に移設したらしい。今でも柵越しに見れるので、ここを通る際はこの辺に牧場があったんだなと思って欲しい。
Jミルクのサイト曰く、「松原栄太郎の系譜をもつ会社は『たにじりや』です。」とあり、太秦の世古牧場から牛乳処理販売を手掛けていた谷尻氏が松原牛乳を取り扱っていた。
配達手法も変遷しており、馬車から戦後には大八車、さらに昭和30年頃にはオートバイが使われだす。
今でも牛乳箱が町に残っている。
牛のマークがイカす。自販機での販売や学校給食にも採用されていたので、京都にお住まいの年上の方々は今でもご存じのはずだ。自販機でも売られていた。
「松原牛乳の自販機 10年ほど前までは販売していた。(左上)」とのこと。
京都にたくさんあった牧場
そもそもなぜ牧場があったのか。先ほどの石碑にはブログ京都クルーズ曰く「牧畜場は農作業に必須であり、健康増進にも大切である」とある(2013年2月12日 鴨東の牧畜場 ~木屋町をあるく(1)office34)。奠都以降、明治の京都では府知事槇村正直により牧畜事業が奨励されていた。現在の府立大農学部の前進である京都府農学校の設立は1898年だ。また、吉田下阿達町だけでなく太秦や北白川や元田中や岡崎あたりにも牧場があった。Jミルクのサイト(【京滋(京都・滋賀)地域編】第3回 田中村が何故京都の一大搾乳地域となったのか)曰く、神戸港と京都駅が鉄道でつながり、国産よりも質のいい外国品種の輸入と輸送に有利だった点、琵琶湖疏水整備による水確保が容易であり、市街地周辺であったことがあげられている。とくに、「京都府内の乳牛のおよそ6分の1が田中村に集まっている」。1959(昭和34)年、北白川小学校の児童がまとめた「北白川こども風土記」にも記載がある。
私も面白いと思う。巻末資料には、北白川小学校周辺の遺跡史蹟分布図もある。
農学部グラウンドの東、今でいう人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター周辺には3つも牧場があった。同 p. 363 の年表によると、服部、小林、鶴井牧場はそれぞれ明治32~40年頃、明治35~大正初年頃、明治40~昭和10年頃存在した。
この本は、北白川小学校の児童が中心になって地元の歴史を古老に聞いたり資料を読み解いたり専門家と協力してまとめ、新規発見もあった物凄い文献でもある。
元田中周辺にも稲生牧場と松岡牧場の二つがあった。
【京滋(京都・滋賀)地域編】第3回 田中村が何故京都の一大搾乳地域となったのか | 一般社団法人Jミルク 府立の牧畜場が一番規模が大きいが、市内には他にも中小規模の牧場が複数あったようだ。
謎の釣生州
薬学部の敷地とはずれた位置の話になるが、古地図を見て気付いたことがある。釣り堀か生け簀のような施設が鴨川の東にあった。やたらと立派な建物を囲む池の上に船が4艘浮かんでいる。
現在の荒神橋にあたる新橋東詰め仮にある牧畜場の北側に「釣生州」と読める。1881年の古地図にも同様に記載されていた。結論から言うと詳細は不明だった。一応、調べた範囲の内容をつらつら記載する。
同じ名前の料亭が現在も中京区にあるほかは、頼山陽の書簡に「釣生州」「釣池州」とも書いている。鴨川対岸の上生洲町はもともと元禄のころまで「河原町荒神下ル池州町(いけすちょう)」だったらしい(博士論文「近世京都の都市形成に関する形態史的研究」1995年 土本俊和)。近隣の地名に施設名が引っ張られたのかしら。更に言うと、現在のホテルオークラに近い東生州町と西州町は二条にあった生州が由来となったと説明しているサイトもある。高瀬川のあたりだ。頼山陽は1832(天保3)年没なので、言及していたのはこっちだろう。
江戸時代にはこうした魚を取って出すお店が多く、その一つ美濃吉は今も続いている老舗料亭である。
幕末頃の女将「てい」は「維新の志士を助けて活躍し、特に宮部鼎蔵以下の池田屋烈士の埋葬を危険を冒して行い」と同公式サイトにある。池田屋事件は川東練兵場が開かれ大村益次郎が襲われた1864(元治元)年に起きた。当時の名物の一つだったらしい。
現在、荒神橋東詰の吉田河原町にある歴史ある施設といえば京都精華学園中学校・高等学校だ。精華七十年史によれば、1907(明治40)年に、京都製糸会社が所有する吉田町西河原百八十二番地の土地と建物を買収したとある。京都織物の北側には京都製糸という会社があったらしい。
京都製糸は1887(明治20)年に設立され、1902(明治35)年、熊野寮の敷地にあった第一絹糸紡績会社と合同し、絹糸紡績株式会社になる。さっきの古地図は1879(明治12)年なので、京都製糸設立前に釣生州なる施設があったと考えられる。
京都製糸設立時に関する資料が見つからないので、釣生州に関して調べるのはここまで諦めた。誰かご存じの方、教えてください。1880年頃まで第二回~九回の京都博覧会が御苑で行われていた。時代は下るが、1903(明治36年)には第五回内国勧業博覧会の堺会場に日本初の本格水族館が建設された。ここからは想像だが、高瀬川にあった生州を模した施設を会場に近い鴨川東岸に作ったのかもしれない。古地図では3階建ての大きい建物として描かれているので、資本が必要な気がする。
京都織物工場
渋沢栄一記念財団のサイトによると1886年に京都織物会社として設立され、1968年に京都織物株式会社として解散し、土地建物は京都大学へ譲渡とある。
加越能は富山県の地名である。創業者には渋沢栄一だけでなく田中源太郎もおり、孫の田中敦はのちの倉敷紡績会長だ。鴨川側から俯瞰した全体図が社史に残っていた。
左奥に並ぶ建物のいずれかが、のちの吉田西寮となる寄宿舎とみられる。
寄宿舎には自治会もあったことが京都市会会議録 昭和30年 第3号-第8号[1955-1956]に示されている。荒神橋西詰にあった本社は今も京大の一部として利用されている。
梶井基次郎の小説に記載がある。
工場内部の写真もいくつかの資料にあった。
戦時中はパラシュートや軍服などを学徒動員で作っていた。
他社から見学に来た際の所感が残っていた。
創業当時とみられる木製の織機も使われており、キレイな本館と中身とのギャップに驚いた記述がみられる。東レからしたら当時お客さんなのにすげー正直な感想だ。この本館の煉瓦建築は今も残っており、熊野寮設計相談役だった建築学教授の西山卯三が建物について寄稿している。
荒神橋事件は聞いたことあるけど、金属の手すりが回収されていたとは初耳。また、京都府指定文化財である、平野神社の三十六歌仙絵に額を京都織物が奉納したとある(養正高等小学校生徒作文 第2集 藤枝石太郎 著 出版者 豊住謹次郎 出版年月日 明24.3 p. 243)。これらの話は公的な資料が見つかってないので今後調査していきたい。
京都大学薬学部
京都大学七十年史 p. 618 には、阪大が医学部薬学科から学部に独立した流れに乗って学部昇格運動が京大でも起きていた。
ちなみに、細かいが1956年時点では京都織物会社ではなく京都織物株式会社という名称のはずである。吉田西寮の記事でも思ったが、この年史、間違いが多くねえか?
まとめ
京大薬学部の敷地には、昔は川東練兵場と牧畜場と京都織物があった。京都織物の寄宿舎は後に吉田西寮として転用される。
1864(元治元)年 川東練兵場が開かれる
1886(明治19)年 京都織物会社設立
1958(昭和33)年 京都大学が京都織物の寄宿舎及び社宅の敷地を買収
1968(昭和43)年 京都織物株式会社解散
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?