茶席がつなぐ版画家徳力富吉郎と政治家岸信介
↑2024年2月10日10時42分ごろ、熊野寮文芸市場の日に撮影した徳力版画館
熊野寮の南西角には京都徳力版画館が存在する。版画家徳力富吉郎の作品などが展示されている。この版画館の三階は徳力富吉郎が生前集めた作品が納められており、古版画資料室と呼ばれている。
岸信介の揮毫
ここに、「徳力版画文庫」と書かれた扁額が掲げられている。
元総理大臣岸信介の揮毫による扁額らしいが、スタッフの方曰く由来がわからない、もしわかったら教えて欲しいとのことなので、可能な範囲で調べてみた。結果をいうと、岸信介が揮毫した直接的な証拠は見つからなかったが、2人の間につながりがあってもおかしくはなさそうだとわかった。
・徳力富吉郎は有名な版画家
・徳力富吉郎は近衛文麿の弟である水谷川忠麿と茶友達だった。
・徳力富吉郎は近衛文麿の私設秘書だった木舎幾三郎の茶室を建てる手伝いをした
・木舎幾三郎は岸信介と親交があり、醍醐寺保存会を務めていた。
・木舎幾三郎の創刊した雑誌に徳力富吉郎が長年連載していた。
・水谷川忠麿と木舎幾三郎とのつながりが徳力と岸信介をつなげた可能性がある
徳力富吉郎
1902年(明治35)年京都生まれの版画家で、東の棟方志功、西の徳力富吉郎と呼ばれる有名版画家だった。ならば、政治家とつながりもあるかと、徳力富吉郎と岸信介の名前で検索したが、何も情報が出てこない。手法を変えて、両者の交際関係から、共通する人や出来事を探してみた。
水谷川忠麿
1902(明治35)年東京生まれ、徳力と同い年で近衛文麿の異母弟にあたる※。苗字が異なるのは養子に出されたからだ。旧制高校までは学習院高等科文科だったが、京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。京大一覧にも1923(大正12)年の哲学科年入学者として名前がある。京都帝大オーケストラ(のちの京大オケ)ではホルン担当。音楽部沿革史にも委員として記載されている。
このとき、兄の近衛秀麿が学習院時代編曲した曲を演奏している。この頃、今も京大オケに利用されている学生集会所はすでに存在したので、近衛家の学生が近衛通りの横で近衛家の人間が編曲した曲を吹いていたことになる。
音楽、絵画、茶道、雅楽と芸術に詳しく、西園寺公望の秘書や、貴族院議員もしていた。戦時中は京都へ疎開していたが、兄近衛文麿の組閣に伴って疎開を中断し、東京へ戻っている。戦後は奈良県春日大社の宮司に任ぜられた。余談だが、鹿寄せと呼ばれる行事で使われる楽器を、昭和24年まではトランペットだったものをナチュラルホルンにするよう提案した人が水谷川忠麿だとするサイトもある。
徳力富吉郎と水谷川忠麿
2人は、大戦中に京都に疎開してきた際に近所だった。水谷川忠麿への徳力富吉郎からの追悼文が残されている。
茶席をよく一緒に開いた仲だったと記載がある。
宮司になったのは戦後のことである。
その絵馬の写真が残されている。
水谷川忠麿が春日大社宮司の時代、100回行う茶会「百回記」を水谷川忠麿は企画し、寿月庵(本人による命名)で11年近くかけて完遂した。徳力も何度か参加したようである。「水谷川さんの、並々ならぬ茶に対する執念の様なものが感じられて、嬉しくも悲しい。これこそは、町々に茶の心を普及する絶好の催しと、私は感激した」と徳力は書いている(日本美術工芸 (516) 日本美術工芸社 1981-09 p. 40)。ちなみに、この百回記には小林一三も参加しており、最終回の題字執筆を任されている。ほかにも、徳力富吉郎の随筆にはたびたび水谷川忠麿が登場している。
会津八一という美術家の歌集を一緒に出版したり、徳力から秘蔵の小堀権十郎の額を水谷川忠麿に贈ったり、戦時中は入手困難なお酒を水谷川忠麿に貰ったり(日本美術工芸 (516) 日本美術工芸社 1981-09 p. 39-41)、水谷川忠麿お手製の茶道具は徳力が所蔵していたりと、公私ともに深い仲だったことがわかる。
随筆「茶杓物語」(徳力富吉郎 著 出版者 文化出版局1983.9)にもこれらのエピソードがまとめられている。また、近衛家の保存していた文書を御室の地にまとめた施設である陽明文庫設立時には、水谷川忠麿が座席を彼の好みで建てた。徳力はその際に作品展を開催したとある(花背随想 徳力富吉郎 著 出版者 淡交社1984.7 p. 69 )。1943(昭和18)年竣工と記載があるが、陽明文庫の公式サイトには最初の書庫一棟は1938(昭和13)年竣工とある。茶室はその後に建てられたのかもしれない。
木舎幾三郎
1896(明治29)年広島生まれの記者であり、近衛文麿の私設秘書もしていた。戦前は雑誌「政界往来」を立ち上げ、一時公職追放されるが、戦後に会社化してその時代の政治家たちから寄稿を集めている。特に近衛文麿に心酔していたようで、虚心 : 随筆集(木舎幾三郎 著 東海出版社, 昭和15年)の序文は近衛文麿が贈っているし、題名の「虚心」も「近衛公から頂戴した僕の座右の銘である」(同 p. 7) とある。木舎幾三郎は、戦時中には京都に住んでおり、1943(昭和18)年3月頃には、洛北の加茂川近くの家から右京区大覚寺近く、大沢池湖畔にある望雲亭に強制疎開させられたとある(「近衛公秘聞」木舎幾三郎 著 高野出版社 1950 p. 277)。戦後撮影された航空写真には扇状に広がる大沢池の南西にポツンと建物が見える。
この場所は今も同じ名前の建物がある。
木舎幾三郎と水谷川忠麿
近衛文麿の弟である水谷川忠麿とも交流があり、二・二六事件の際は、目白にあった近衛文麿の別邸に集まって情報収集している(同 p. 20)。雪の日だったそうだ。また、近衛陽明文庫を拡張し、水谷川忠麿の住居も御室に移して単科大学のような私塾を設立しようと近衛文麿に進言している。近衛文麿も「僕もそう思っているんだ」とノリノリだったが、そののち彼は敗戦の責を追って自殺し、この夢は叶わなかった(同 p. 84)。また、1961(昭和37)年5月23日には水谷川忠麿の告別式にも参加している(「政界五十年の舞台裏 続」木舎幾三郎 著 政界往来社 1974年 p. 212)。
ここで、木舎幾三郎と水谷川忠麿のつながりにおいて特に強調したい点が茶道だ。1947(昭和22)年に木舎幾三郎は、前述した京都市右京区の望雲庵在住時、「木舎は茶の湯が好きらしい」と噂が流れて往生している。
と全く興味なさそうだ。ところが、尊敬する近衛文麿や友人から茶道具一式をいくつも頂戴してしまっている。特に、製薬会社(わかもと)社長の長尾欽弥から貰った際には、水谷川忠麿と細川護貞(近衛文麿の娘婿)から「一度お道具拝見したいものだ」と言われる。木舎幾三郎が軽い気持ちで返事すると、実は茶道の不文律で茶席の催しを催促する婉曲表現だったと後で知って、慌てて準備している。何とか茶席を無事に終えて二度とやるか思っていたが、数年後、望雲亭のすぐ西にある鳴瀧音戸山山頂に茶室を作って住んでいる。名前は虚心庵。ちなみに、別の茶席に呼ばれた際も小林一三が一緒に参加している(「望雲亭雑記」近衛公秘聞木舎幾三郎 著 高野出版社 1950 p. 271)。
徳力富吉郎と木舎幾三郎
徳力富吉郎は、木舎幾三郎の創刊した政界往来に口絵を長年寄稿していた。初出は1965年8月号で1969年5月号まで途切れず、また1976年4月~80年代も不連続だが名前がある。とくに、木舎幾三郎の亡くなった年の号では、京都の木舎別邸建築の世話をしたことが徳力によって書かれている。
前述の虚心庵を指すとみられる。
木舎幾三郎と岸信介
木舎幾三郎は、戦後はいわゆる吉田学校(吉田茂門下の政治家達)の面々と交流が多かったようで、彼の雑誌政界往来で原稿をよく貰っている。
木舎幾三郎は、自著の序文などを同年生まれの岸信介から複数貰っている。岸は木舎を「政界の指針たれ」「特異な存在」「政界の生き字引」と表している(それぞれ「戦前戦後 3版」木舎幾三郎 著 政界往来社 1956年 p. 383、「政界五十年の舞台裏」木舎幾三郎 著 政界往来社 1965年 p. 1、「政界五十年の舞台裏 続」 木舎幾三郎 著 政界往来社 1974年 p. ii)。対談の記事もある。
醍醐寺保存会
とくに、京都醍醐寺五重塔の再建活動に注目しよう。醍醐寺のwikipedia曰く「1950年(昭和25年)のジェーン台風でも被害を受け、1960年(昭和35年)に修理が完成した」とある。この一行にストーリーがこもっていた。
1957(昭和32)年に、醍醐寺保存会会長への就任を木舎から岸に依頼している。
記幾三郎はこのときの詳細を真言宗の新聞六大新報に寄せている。保存会前会長だった近衛文麿の名を出しても「どうも総理の現職だからねえ……」とはじめは乗り気でなかった岸信介を説き伏せている。五重塔の修理はそもそも進んでいたが、再建お披露目と同年に予定されている醍醐寺開基理源大師1050年遠忌のスポンサー集めを木舎幾三郎が三宝院岡田門跡に相談され、岸信介に依頼した。寄進は目標以上に集まり、福田、池田、佐藤、三木とそうそうたる面子が並んでいる。昭和34年10月24日には保存会発足式を醍醐寺で行った(「保存会結成まで」木舎幾三郎 六大新報 (2614) 六大新報社 1960-04昭和35年4月5日(15))。このことは「政界五十年の舞台裏 続」p. 189 にも記載があり、その夜は木屋町の料亭「大千賀」に岸信介の歓迎会が開かれている。そもそも、木舎幾三郎と醍醐寺に何のつながりあるのかという話は、また別記事に記載する。前後して、1958(昭和33)年8月には、岸信介が醍醐寺を訪問している。
六大新報にも岸信介醍醐寺訪問の記載がある。
醍醐にとって戦後初の首相訪問とのこと。写真も残されている。
「日本美術年鑑 」(昭和36年版東京国立文化財研究所美術部 編 東京国立文化財研究所 1962年)にもあるように、1960年4月には五重塔開眼と理源大師遠忌が行われ、岸信介は醍醐寺を訪問し式辞を述べている(六大新報 (2615) 六大新報社 出版年月日 1960-04 昭和35年4月15日(4))。
その時に岸信介が送った色紙もある。
岸信介の揮毫に注目すると、冒頭にある徳力版画文庫の揮毫と同じ感じがする。岡田門跡、岸、木舎が並ぶ写真も残されている。
17年後、木舎幾三郎が亡くなった年の政界往来にはこんな追悼文もある。
この寄稿者も木舎幾三郎と茶席を設けている。木舎幾三郎は建設委員(保存会のことか)副会長扱いされているが、六大新報では高碕達之助が副会長とされているので記憶違いかな(六大新報 (2614) 六大新報社 1960-04昭和35年4月5日(14))?いずれにせよ、木舎は岸を担いで、台風で傷ついた醍醐寺五重塔復興と開基遠忌のために実働していたようだ。また、前述の木舎別邸である虚心庵の中の様子が六大新報編集後記に書かれている。
近衛文麿を祀る仏像だけでなく、岸信介の扁額もあった。はじめは嫌嫌だったが、茶室で茶会をよく催していたようだ。木舎幾三郎の葬儀には岸信介も参香している(六大新報 (3173) 六大新報社 1977-02)。
最後に、肝心の徳力富吉郎と岸信介の関係だが、扁額を送った記述は見つからなかった。50〜60年代の岸信介の日記を読めば何か分かるかもしれない。山口県田布施町郷土館にあるらしいので気になる。
まとめ
徳力富吉郎の版元は50年代には聖護院蓮華蔵町にあったので、その頃に木舎幾三郎と醍醐寺保存会活動でよく上洛していた岸信介から、扁額を貰った可能性は十分ある。ちなみに、徳力富吉郎は1981(昭和56)年に木版画「洛東 醍醐寺」を残している。人間国宝が国宝を描いたことになる。
まとめると、徳力富吉郎の友人水谷川忠麿の兄、近衛文麿の私設秘書である記者木舎幾三郎は、岸信介元首相と関係が深かった。これだけ見ると物凄く遠いが、それぞれ茶室や部屋に扁額を飾ったり茶席に参加していたり追悼文を送ったり、親交の様子を具体的に知れた。茶道や書道は人とのつながりを彩るために活きていることがわかる。
追記
※近衛文麿は腹違いの弟が3人おり、水谷川忠麿は末っ子だ。長男文麿の母親が文麿を産んでしばらくして亡くなった後に、その妹が嫁いでいる。文化人類学の本に載っていたソロレート婚だ!イギリスの民俗学者ローラ・ボナハンが、悲劇としてシェイクスピアのリア王で弟が兄の未亡人と結婚したシーンをアフリカの民族に紹介すると、それは良い事だと反応されて戸惑ってたやつだ(「アフリカ奥地でのシェークスピア」月間言語別冊1アフリカの文化と言語 大修館書店 1974年7月 p. 111)。正確には、こっちはレビレート婚だが。なので、文麿と忠麿は兄弟でもあり従兄弟でもある(これまた、母親同士が異母姉妹だから込み入っている)。
近衛家は音楽家を沢山輩出しており、政治家になった文麿が異質にも見える。水谷川忠麿の学習院時代、英国王子エドワード8世が来日し、関東の学生達による歓迎行事が催されている。そのイベントの一つ音楽祭では、水谷川忠麿は兄の近衛直麿と一緒に演奏している。曲種は英国歌及行進曲オールドコムラード(英国皇太子殿下歓迎学生大会紀 桜薔会 編 大正11年 p. 31)。
また、水谷川忠麿は兄の近衛直麿に寿司屋で酒を一緒に飲んでおり、下戸というわけでもない(近衛直麿追悼録 室淳 編昭和8年 p. 79 )。茶席は酒宴とはまた別物のようだ。