熊野寮の誕生
↑2008年7月28日、12:30 A棟から南側の雷を頑張ってガラケーで撮影
この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の36日目の記事です。
1965年の熊野寮誕生時のエピソードを追っていこう。
・吉田寮の学生中心に委員会をおこし大学と交渉していた
・総長の家に直訴しに行ったこともある
・大学側は当時の文部省に概算要求を毎年していた
・総長は寮祭で一緒に歌うくらい仲良しだった
・設計相談役の西山さんは学生と議論して設計を決めた
・西山さんの自由寮での記憶が設計に反映された
・開寮3年後に寮を探索した記録が残っている
時代背景
背景に関しては京都大学新聞の「吉田寮百年物語」第四回の記事が詳しい。この記事では、関係者の生の声を中心に集めてみた。60年代、当時は第一次ベビーブームによる人口増加で京都は下宿事情が悪かった。京都大学七十年史には増寮の努力が見て取れる。
上記表にある1950年頃の物価からして、月100円の寮費は今でいう月2~3000円程度の感覚だろうか。
収容人数を順調に増やしているように見える。しかし、この収容人数のグラフ、この後は何十年もずっと横ばいなのでは。当時、他国公立大学に比べて収容人数の比率が低く、全学生の2000人全員分くらいの収容人数を学生は大学に要求していた。開寮前後の事実関係については、熊野寮enpediaの年表初期の記載も参考されたし。
1965年4月5日 熊野寮開寮(A棟のみ)。168人が入寮
1966年4月11日 第二期工事終了、B棟・C棟・食堂が完成。
1966年5月 寮食堂運営開始。
南側のA棟が最初に開寮され、一年を置いてB・C棟と食堂が完成した。
総長官舎に突入
ここで、熊野寮五十周年記念誌にある、「特集座談会」新寮は我等のもの(昭和39年11月21日午後1時半~3時)と題する、寮設置あとの談話会の記事をみてみよう。吉田、宇治、女子の各寮の学生と、大学側として学生課の南雲さんが登壇されている。総長に直訴までしたらしい。
大学側は土地の不足を嘆いており、学生側は厚生施設が後回しにされがちだと指摘している。各寮とも足並みがそろっていたかというとそうでもなく、吉田寮が中心となって交渉していたことが伝わる。また、本当は熊野寮だけでなくもっと寮を増やすよう要求したかったが、宣伝が足らず熊野寮建設をもってしりすぼみになったと話されている。この座談会はとくに荒れるでもなく、談笑も交えた柔らかい雰囲気だったようだ。京都大学新聞の2019年の記事に、当時の学生の寄稿がある。
総長「寮に始まり寮に終わる」
いっぽうで、当時の奥田総長はどう感じていたのか。1969年の京都新聞縮刷版で退任後の奥田総長インタビューをみてみよう。この年は学生運動真っ盛りで、東大では入試が中止された。
寮が足りてないという課題は総長も認識されていた。具体的な数字を挙げていらっしゃる。学生が官舎に押しかけて来たのも本当らしい。
この負担区分問題、この13年後の1982年に暖房ボイラー停止に関わり、38年後の2007年の温水シャワー設置に至るまで、風呂がずっと沸かされない原因となっていた。ただ、当時の総長はおおむね問題意識が学生と共有されていたように見える。
総長「こんにちは赤ちゃん」
いっぽうの、熊野寮生たちは奥田総長とどうかかわっていたのだろう。熊野寮五十周年記念誌から抜粋しよう。
物凄い仲良しじゃないか。しかも、コンパの後にまた官舎に遊びに行っている。
上述のように、自身らでも蜜月と思える関係が失われていった実感も、諸先輩方にはおありのようだ。京都大学新聞のインタビューに答えられていた山本さんもこう述懐されている。
京都大学新聞の連載も同様の記載がある。
熊野寮が出来たころは、総長はじめ、大学の教職員と密な関係を持っていた事実が確認できた。
年表(熊野寮五十周年記念誌 p.461)曰く1964年3月4日、京都大学事務局から熊野寮の建設計画が明示された。1963年度までの5年間、毎年大学から文部省に概算要求していたらしい。ある程度流れが出来かけたところに、学生の直訴による後押しがあったという感じのようだ。
この時代の空気感はもっと緊迫したものかと思っていたが、学生と教職員、子どもと大人という二項対立ではなく、同じ方向を向いて対話が密に繰り返される関係性が築かれており、それが寮の誕生に関わっていたといえる。
総長官舎の場所
しかし、そんな交渉や寮祭でフラッと寄れるほど総長のお住まいは近くにあったのか?と思って調べてみると、今の医学部構内の北側、志賀越道の南、鞠小路通りに面する位置にあったようだ。熊野寮から歩いて10分くらいだ。在学中よく自転車で通ったぞこの道。現在は橘会館という名前で共有施設になっている。全然気づかなかった。
1913年築の吉田寮と双肩する歴史がある。
門構えからして立派だ。
1982年まで総長官舎として使われていたということは、奥田東総長も住んでいたはずだ。ここで、1944年に京大の営繕課長を務めていた、後の熊野寮設計相談役である建築学科教授、西山夘三さんの本を参照しよう。
124帖16室もあり、記載されているどの官舎よりも大きい。西山さんは「その大きさを調べると全く階級をあらわしている」と記されている。
もう総長はお住まいでないのが残念だ。この距離の近さは魅力的だ。
三高自由寮の思いを込めた設計
交渉後、熊野寮の設計依頼がはじまる。吉田寮から「新寮設計小委員会」が発足し、寮生にアンケートをとって草案を作り、1964年4月29日に設計の相談役として西山夘三教授に依頼した、と記念誌の熊野寮五十周年年表にある。最初の頃の設計草案は、記念誌にも記載されている。建物を学生と設計するなんて楽しそうだ。
また、当時の医学部公衆衛生教室西尾雅七さん、その次の学生部長は庄司光さんらが建設にご尽力いただけたとあり(川口清史 経済学部 65年入寮 同 p. 32)、色々な人の協力があったことが伺える。
京都大学新聞に建築直前の時期の写真があった。
大文字が見えるので、南西側からの撮影だろう。教育学部校舎は取り壊されている。京都大学新聞曰く、1964年6月には設計が決まった。4月末の草案からわずか一か月程度だ。
この記事では510人規模と記載されているが、C棟収容人数が166名になるという学生部長の勘違いのせいだ。実際はC棟だけは88名である。6月23日の交渉でそのことを学生に責められている記録が記念誌の年表に残っている。最終的に、すべて棟を合わせたら422名が収容人数となる。
西山さんの連載「日本のすまい」を見てみよう。東側から見たB,C棟をスケッチされている。
この記事は吉田寮に関しても細かく調査されているが、今は熊野寮設計の話に進もう。
正確には、教育学部校舎の前は飛行機部品工場の日本国際航空工業があった。西山さんが旧制三高時代に在籍された時代は鐘紡上京工場だったので、そのご印象が強いのかもしれない。これから、西山さんの苦闘が始まる。
学生要求の1人部屋は無理だそうだ。「うなぎの寝床」という表現はやっぱり京都の地だから自然と出てきはんのやろか。
熊野寮設計にあたり、ご自身の三高時代の自由寮のイメージが確固としてあった。改めて、西山さんは食寝分離の原則を発見された、建築学の大家であることが門外漢にも伝わってくる。
現存していないが、玄関入ってすぐ左側は下足室で、屋内では靴を脱ぐ設計思想だったらしい。そういえば玄関入ってすぐ段差を上がるのは、こういう構造だったからか。近年、この辺は寮内のバーである「あたたまりや」や「軟鉄庵」などとして活用されていたはずだ。各棟の東西にある水場は調理室かと思っていたが、設計時は洗面所だったのね。コンロがあるので食堂がお休みの日は鍋などよく調理していた。売店もあったらしい。
今は売店はないが、ファミマなどが近くにない時代は、寮内の売店は便利だったろう。
設計者による寮探検
出来上がった寮はどんな使われ方をしているだろう。開寮後3年での西山さんの寮探検の記録が残っている。
旧制三高の自由寮にはなかったことらしい。私の在寮中にもチビッコが中で遊んでるのは見たことないが、地域との融合は素晴らしい。地域の塾KUMANより先駆けて子どもの遊び場になるとは先進的だ。やっぱり、東側のグラウンドは「ニッコク」と呼ばれていたのだろうか。チビッコは当時6歳としても現在62歳だ。お近くにお住いの方で、子供のころ寮に遊びに来た人はまだご記憶があるかもしれない。そういえば、あの辺りは子どもの遊べる公園などが少なめかもしれない。
玄関の次は、西山さん西山研所属の寮生と各個室を探検されている。
素晴らしいスケッチだ。昨日部屋に遊びに来ました?と聞きたくなるくらいリアルだ。西山設計思想では、上図のように廊下側にパブリックなラウンジ的空間をとり、プライベート空間と分けている。しかし、「はじめの計画通りにつかわれているものが非常に少ない」と感じていらっしゃる。
上図のような構成の部屋は確かに多かった。C棟の二人部屋もスケッチされている。
「くつろぎの談話室風に取ってある廊下側のスペースを効果的に使っていないようである」とある。肘掛け椅子とテーブルのセットは集会などで室外に運び出されそのままになっていたり、設計思想通りに全然なっていない。このテーブルセット、熊野寮五十周年記念誌に写真が残されている。
開寮すぐの時期は、まだ設計通り使われてた部屋もあったようだ。確かに、この四角いソファどこかで見たことがある気がする。記念誌にある開寮当時の先輩との座談会では、こういった備品も大学と交渉して調達するものだったと記載されていたと思う。西山さんは食堂をはじめ、共有スペースもつぶさに観察されている。
住んでたんですかってくらい詳細だ。ブロックとは、棟と階ごとに分かれた生活単位だ。寮の用語も使いこなされている。
共有スペースは寮内外で活用されていたようだ。観察の後は考察に入られている。
どう発展と言われると難しいが、住んでて割と居心地良かったですよ。
社交の場として活用されているからおかしくはないかと。
B棟一階に医務室があったのなんて初耳だ。体重計なんて無くても大丈夫っすよ。2007年に設置された温水シャワーの前室にはあった気がする。
私の住んでいた部屋はとても広々としていて、噂によると建築学科だった昔の住人が棚を壁一面に作りまくってくれたおかげで収納スペースがたっぷりあった。住人が良いと思う方に自由にレイアウトし直せるなんて素敵だ。建築学の大家の呆れ顔が目に浮かぶようだが、西山さんの住まれていた自由寮(旧)よりも熊野寮は永く使われてるので喜んで欲しい。2004年9月頃の屋上の防水工事や2007年頃の窓サッシ交換や2010年頃の耐震工事によって割とメンテナンスされてきた。きっと大きな災害にも耐えてくれるだろう。
西山さん、ご設計とご訪問および詳細に記録を残して下さり、ありがとうございました。
開寮当時の雰囲気
熊野寮一期生柴田さんの、後年におけるインタビューが京都大学新聞にあった。
寮が出来て間もないころは盛り上がっていたが、吉田寮と比べると人数が多く、人同士のつながりが希薄だと感じていたようだ。これを「アパート化」と形容されている。やっぱり、西山さんが考えたように、1人部屋でなく相部屋にすることでの一体感は大事だったのかも。しかし、大学からそんなに遠いだろうか?
この後、熊野寮生は自らの手で入寮選考を行っていく。例えば、1971年の京都大学新聞の記事に、入寮選考始まるとあった。当時は吉田寮と熊野寮の入寮選考は二寮一緒に行われていたようだ。
新入寮生の募集は吉田寮・熊野寮あわせて約130名だそう。いつからか入寮選考は別々に行われるようになった。
命名は京都大学新聞?
熊野寮五十周年記念誌にこんな文章がある。
勝手に!?1964年3月16日付の京都大学新聞の記事が記念誌には記載されている。紅リポジトリでも全文確認できる。
記事左側に「京都大学学生寮熊野寮平面図」とある。この記事で命名されたならすでに平面図に「熊野寮」と記載されているのは変では?正確には、公式な発表より前にすっぱ抜いたということだろう。熊野寮の以前にあった教育学部の校舎が「熊野校舎」という名だったので、割と自然な気がする。命名に関してもっとお詳しい情報をお持ちの方がいらしたらお教えください。
まとめ
吉田寮を中心とした学生らと、当時の総長ら大学の職員らの努力によって建てられたことが分かった。当時の学生と教職員の距離の近さが、熊野寮を生んだといってもいいかもしれない。
先人たちが住む人にこうあって欲しいと願って議論し設計されたことが伝わって来た。特に、西山さんは旧制三高自由寮での経験を設計に反映してくれていたと感じられる。
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