見出し画像

熊野寮の誕生

↑2008‎年‎7‎月‎28‎日、‏‎12:30 A棟から南側の雷を頑張ってガラケーで撮影
 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の36日目の記事です。

 1965年の熊野寮誕生時のエピソードを追っていこう。
・吉田寮の学生中心に委員会をおこし大学と交渉していた
・総長の家に直訴しに行ったこともある
・大学側は当時の文部省に概算要求を毎年していた
・総長は寮祭で一緒に歌うくらい仲良しだった
・設計相談役の西山さんは学生と議論して設計を決めた
・西山さんの自由寮での記憶が設計に反映された
・開寮3年後に寮を探索した記録が残っている

時代背景

 背景に関しては京都大学新聞の「吉田寮百年物語」第四回の記事が詳しい。この記事では、関係者の生の声を中心に集めてみた。60年代、当時は第一次ベビーブームによる人口増加で京都は下宿事情が悪かった。京都大学七十年史には増寮の努力が見て取れる。

京都大学七十年史 著 : 京都大学七十年史編集委員会 出版年月日:1967 p.1193

 上記表にある1950年頃の物価からして、月100円の寮費は今でいう月2~3000円程度の感覚だろうか。

京都大学七十年史 著 : 京都大学七十年史編集委員会 出版年月日:1967 p. 1194

 収容人数を順調に増やしているように見える。しかし、この収容人数のグラフ、この後は何十年もずっと横ばいなのでは。当時、他国公立大学に比べて収容人数の比率が低く、全学生の2000人全員分くらいの収容人数を学生は大学に要求していた。開寮前後の事実関係については、熊野寮enpediaの年表初期の記載も参考されたし。

  • 1965年4月5日 熊野寮開寮(A棟のみ)。168人が入寮

  • 1966年4月11日 第二期工事終了、B棟・C棟・食堂が完成。

  • 1966年5月 寮食堂運営開始。

 南側のA棟が最初に開寮され、一年を置いてB・C棟と食堂が完成した。

総長官舎に突入

 ここで、熊野寮五十周年記念誌にある、「特集座談会」新寮は我等のもの(昭和39年11月21日午後1時半~3時)と題する、寮設置あとの談話会の記事をみてみよう。吉田、宇治、女子の各寮の学生と、大学側として学生課の南雲さんが登壇されている。総長に直訴までしたらしい。

結局平沢前総長も長い間、寮の問題を考えておられり、又奥田現総長も考えて下さったのですが、やはり決定的な要因となったのは僕の見る所では、昨年の十二月、総長官舎へ押しかけた、そして直接総長へ直訴した、その時初めて総長は、寮の問題は切実なんだとい云うことを、教養部、薬学部とも問題とも絡んで理解してくれたと思うんです。あんな夜中に総長宅を押しかけると云う不穏なことをやったのですが、総長の心を動かしたと云う点で、大きな意味があったのではないかと思うわけです。

熊野寮五十周年記念誌(上)丸山(4回生北寮)60年代特集記事

 大学側は土地の不足を嘆いており、学生側は厚生施設が後回しにされがちだと指摘している。各寮とも足並みがそろっていたかというとそうでもなく、吉田寮が中心となって交渉していたことが伝わる。また、本当は熊野寮だけでなくもっと寮を増やすよう要求したかったが、宣伝が足らず熊野寮建設をもってしりすぼみになったと話されている。この座談会はとくに荒れるでもなく、談笑も交えた柔らかい雰囲気だったようだ。京都大学新聞の2019年の記事に、当時の学生の寄稿がある。

新年あけに就任間もない奥田総長から年頭所感談話で「新寮建設は土地問題で望み薄」の話があった。またその後の総長団交で新寮予算を政府と交渉中との話があり、そこで2月1日、総長官舎へ夜8時に大挙して緊急団交に及び、総長から学生部長を予算折衝に東京へ派遣する、などの話を頂いた

《記録》新寮(熊野寮)建設闘争の記憶
【寄稿】折茂勝巳(1961年~1965年在寮、工学部卒業)
山本駿一(1963年~1967年在寮、農学部卒業)

総長「寮に始まり寮に終わる」

 いっぽうで、当時の奥田総長はどう感じていたのか。1969年の京都新聞縮刷版で退任後の奥田総長インタビューをみてみよう。この年は学生運動真っ盛りで、東大では入試が中止された。

(前略)”事件史”ですが、序盤はやはり寮の問題でしょうか。
奥田 寮に始まって、寮に終わった感じですね。六年前の十二月十六日に就任したところ、もう年内に学生が官舎に押しかけて来た。薬学部の建て物を建てるのに吉田西寮が引っかかった。もともと京大は寮が少ないんです。国立大の全国平均は学生の 15 %、京大では現在でも7.4 % しか収容力がありません。当時は2-3 % でした。「古いヤツでもつぶされたら困る」というんですね、急いで設計から始めて熊野寮を建てました。

京都新聞夕刊 第31682号 昭和44年12月16日火曜日(6) 1969年

 寮が足りてないという課題は総長も認識されていた。具体的な数字を挙げていらっしゃる。学生が官舎に押しかけて来たのも本当らしい。

吉井 (中略)いわゆる大集団交のハシリですか。
奥田 実は、団交、そのことは話し合いと言っていましたが、いわゆる大衆団交は、総長になる前東南アジア研究センター所長として経験していました。熊野寮ができたところ、鉄筋のため、寮費が月三百円、従来の木造の寮は百円。「三倍もの値上げはケシカラン」とまた、新たな紛争が起きました。「モノが違うのだから値上げではない」「大学の方針で、木造の寮から移らされたのだ。自分たちは木造でも安い方に住みたいのだ」と平行線。これがまだ解決しないで残っているのです。水道光熱費を大学が負担するのか、受益者が負担するかその負担区分の問題。そして増寮問題・・・・・・。

京都新聞夕刊 第31682号 昭和44年12月16日火曜日(6) 1969年

 この負担区分問題、この13年後の1982年に暖房ボイラー停止に関わり、38年後の2007年の温水シャワー設置に至るまで、風呂がずっと沸かされない原因となっていた。ただ、当時の総長はおおむね問題意識が学生と共有されていたように見える。

京都新聞夕刊 第31682号 昭和44年12月16日火曜日(6) 1969年

総長「こんにちは赤ちゃん」

 いっぽうの、熊野寮生たちは奥田総長とどうかかわっていたのだろう。熊野寮五十周年記念誌から抜粋しよう。

奥田東総長も寮祭では歌を歌ったりして、和気あいあいと交流したと記憶しています。

熊野寮五十周年記念誌(上) 柴田重徳 65年入寮 p.38

一九六六年の熊野寮祭に奥田東総長が来て、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」を歌ったのが、記憶にあります。

熊野寮五十周年記念誌(上) 渡邊義明 (文学部)66年入寮 p.85

 物凄い仲良しじゃないか。しかも、コンパの後にまた官舎に遊びに行っている。

その先鋭化の先に現れたのが不払闘争だった。教育の科解禁等の実現をめざして運動を進める中で自ずから出てきた方針であり、突然始まったわけでも、政党や政治団体の指嗾があったわけでもない。
寮コンパの後のストームでは奥田東総長の官舎は定番のコースだったし、寮生はアルバイト紹介などの厚生面で優遇され、ある種の特権意識を持っていた。
 寮費不払いによってこういう蜜月関係は次第に姿を消していった。

熊野寮五十周年記念誌(上) 湯浅康正(文学部)65年入寮 p.44

 上述のように、自身らでも蜜月と思える関係が失われていった実感も、諸先輩方にはおありのようだ。京都大学新聞のインタビューに答えられていた山本さんもこう述懐されている。

 また寮建設が実現したもう一つの要因としては、寮生と当時の京大総長の平澤興氏(医学部)、奥田東氏(農学部)、学生部厚生課との間には、未だ絆のようなものが残っていたことが挙げられます。

熊野寮五十周年記念誌(上) 山本駿一 (農学部)65年入寮 p. 43

 京都大学新聞の連載も同様の記載がある。

奥田総長は、寄宿料不払いの不正常状態を理由に、増寮予定の「修学院寮(400人収容予定)」の概算要求を取りやめた。加えて、一旦は寮自治会と合意していた炊フの公務員化も凍結した。

【連載第四回】吉田寮百年物語(2019.11.01) | 京都大学新聞社

 熊野寮が出来たころは、総長はじめ、大学の教職員と密な関係を持っていた事実が確認できた。

熊野寮五十周年記念誌(下)
右はおそらく97-03まで総長をされていた長尾誠元総長

 年表(熊野寮五十周年記念誌 p.461)曰く1964年3月4日、京都大学事務局から熊野寮の建設計画が明示された。1963年度までの5年間、毎年大学から文部省に概算要求していたらしい。ある程度流れが出来かけたところに、学生の直訴による後押しがあったという感じのようだ。
 この時代の空気感はもっと緊迫したものかと思っていたが、学生と教職員、子どもと大人という二項対立ではなく、同じ方向を向いて対話が密に繰り返される関係性が築かれており、それが寮の誕生に関わっていたといえる。

総長官舎の場所

 しかし、そんな交渉や寮祭でフラッと寄れるほど総長のお住まいは近くにあったのか?と思って調べてみると、今の医学部構内の北側、志賀越道の南、鞠小路通りに面する位置にあったようだ。熊野寮から歩いて10分くらいだ。在学中よく自転車で通ったぞこの道。現在は橘会館という名前で共有施設になっている。全然気づかなかった。

橘会館地図 大学サイトより

1913年築の吉田寮と双肩する歴史がある。

総長官舎(現:医学部構内敷地)は、明治44(1911)年10月民有の宅地554坪 800 (1,834㎡04)を購入した。

京都大学百年史【総説編】[第2編: 事務局・学生部 ・附属図書館] 第1章: 事務局 p. 988

門構えからして立派だ。

橘会館(旧総長官舎) 大学サイトより

昭和 57 (1982)年 5月総長官舎の廃止により 2,639㎡39を庁舎敷地に用途変更した。

京都大学百年史【総説編】[第2編: 事務局・学生部 ・附属図書館] 第1章: 事務局 p. 1067

 1982年まで総長官舎として使われていたということは、奥田東総長も住んでいたはずだ。ここで、1944年に京大の営繕課長を務めていた、後の熊野寮設計相談役である建築学科教授、西山夘三さんの本を参照しよう。

住み方の記 著: 西山夘三 出版者:文芸春秋新社 出版年月日:1965 p. 170

 124帖16室もあり、記載されているどの官舎よりも大きい。西山さんは「その大きさを調べると全く階級をあらわしている」と記されている。

橘会館(旧総長官舎) 大学サイトより

 もう総長はお住まいでないのが残念だ。この距離の近さは魅力的だ。

三高自由寮の思いを込めた設計

 交渉後、熊野寮の設計依頼がはじまる。吉田寮から「新寮設計小委員会」が発足し、寮生にアンケートをとって草案を作り、1964年4月29日に設計の相談役として西山夘三教授に依頼した、と記念誌の熊野寮五十周年年表にある。最初の頃の設計草案は、記念誌にも記載されている。建物を学生と設計するなんて楽しそうだ。

また工学部建築学科の西山夘三研究室には、熊野寮の設計に関してお世話になりました。急な申し出にも拘わらずご快諾頂き、次々と変わる寮生の勝手な設計プランに応じて設計図を完成して頂き、有難とうございました

熊野寮五十周年記念誌(上) 山本駿一 (農学部)65年入寮 p.4

 また、当時の医学部公衆衛生教室西尾雅七さん、その次の学生部長は庄司光さんらが建設にご尽力いただけたとあり(川口清史 経済学部 65年入寮 同 p. 32)、色々な人の協力があったことが伺える。
 京都大学新聞に建築直前の時期の写真があった。

京都大学新聞 2000-01-16

 大文字が見えるので、南西側からの撮影だろう。教育学部校舎は取り壊されている。京都大学新聞曰く、1964年6月には設計が決まった。4月末の草案からわずか一か月程度だ。

京都大学新聞 1964-06-01

 この記事では510人規模と記載されているが、C棟収容人数が166名になるという学生部長の勘違いのせいだ。実際はC棟だけは88名である。6月23日の交渉でそのことを学生に責められている記録が記念誌の年表に残っている。最終的に、すべて棟を合わせたら422名が収容人数となる。
 西山さんの連載「日本のすまい」を見てみよう。東側から見たB,C棟をスケッチされている。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 81

 この記事は吉田寮に関しても細かく調査されているが、今は熊野寮設計の話に進もう。

 一方、1965年から、熊野神社の南西方の丸太町通りをへだてた昔の紡績工場跡地が大学の手に入ったので、新しい鉄筋コンクリートの熊野寮が、南から順にA, B, C と4階建ての3棟が建設された。これをつくるについて吉田寮の学生たちが中心になって寮建設の学生側の組織が出来、学生の住む寮を学生自身が考えるのだと、色々研究をやり、案を立てていた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 81

 正確には、教育学部校舎の前は飛行機部品工場の日本国際航空工業があった。西山さんが旧制三高時代に在籍された時代は鐘紡上京工場だったので、そのご印象が強いのかもしれない。これから、西山さんの苦闘が始まる。

学生たちの希望は個室(1人室)が圧倒的だった。(中略)私は彼らに、1人室などとんでもない、細長いうなぎの寝床のようなヘヤをならべるならいざしらず、1人当たり12~17㎡というような設計基準で最も住みよい住空間をつくるには、すくなくとも2人室、できれば4人ないし6人くらいの集団的なユニットにして、その中をうまく工夫することである。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 81

 学生要求の1人部屋は無理だそうだ。「うなぎの寝床」という表現はやっぱり京都の地だから自然と出てきはんのやろか。

私の頭の中には、自習室と寝室とわかれていた旧制高校の大ベヤ型のイメージに重なり、居住室員全体のくつろぐ空間と純粋にプライベートなクローズされた空間とにふりわけた新らしい寮室の中で、自治意識のハッキリした青年たちがつくり出す、新らしい寮生活といったものが去来していた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 81

 熊野寮設計にあたり、ご自身の三高時代の自由寮のイメージが確固としてあった。改めて、西山さんは食寝分離の原則を発見された、建築学の大家であることが門外漢にも伝わってくる。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 83

 現存していないが、玄関入ってすぐ左側は下足室で、屋内では靴を脱ぐ設計思想だったらしい。そういえば玄関入ってすぐ段差を上がるのは、こういう構造だったからか。近年、この辺は寮内のバーである「あたたまりや」や「軟鉄庵」などとして活用されていたはずだ。各棟の東西にある水場は調理室かと思っていたが、設計時は洗面所だったのね。コンロがあるので食堂がお休みの日は鍋などよく調理していた。売店もあったらしい。

また熊野寮では寮室1室を売店にし、生協の経営で夜7時から11時までのパートタイムの営業、飲み物菓子類、文房具などを売っている。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 84
 

 今は売店はないが、ファミマなどが近くにない時代は、寮内の売店は便利だったろう。

設計者による寮探検

 出来上がった寮はどんな使われ方をしているだろう。開寮後3年での西山さんの寮探検の記録が残っている。

 1968年3月、学年試験のおわった日、私は建築学科に属する寮生の案内で、吉田寮と熊野寮の実態をしらべに出かけた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 82

 ところで食堂の方を除くと、内部はアコーディオン式間仕切りで、北の方がオルガン室とピンポン室に区切られているのであるが、このピンポン室でさかんにゲームをやっているのはひどく体の小さいチビッコである。「あれは何だ?」ときくと、あそび場のない近所の子供がやってくるのだという。地域社会との融合というのであろうか。学生たちはこういう事に寛大(?)である。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 82

 旧制三高の自由寮にはなかったことらしい。私の在寮中にもチビッコが中で遊んでるのは見たことないが、地域との融合は素晴らしい。地域の塾KUMANより先駆けて子どもの遊び場になるとは先進的だ。やっぱり、東側のグラウンドは「ニッコク」と呼ばれていたのだろうか。チビッコは当時6歳としても現在62歳だ。お近くにお住いの方で、子供のころ寮に遊びに来た人はまだご記憶があるかもしれない。そういえば、あの辺りは子どもの遊べる公園などが少なめかもしれない。
 玄関の次は、西山さん西山研所属の寮生と各個室を探検されている。

A、Bが新入生、下級生用、C棟が上級生、大学院生用となっている。A、B棟は4人部屋であるが、まずこれをみよう。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 82
新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 84

 素晴らしいスケッチだ。昨日部屋に遊びに来ました?と聞きたくなるくらいリアルだ。西山設計思想では、上図のように廊下側にパブリックなラウンジ的空間をとり、プライベート空間と分けている。しかし、「はじめの計画通りにつかわれているものが非常に少ない」と感じていらっしゃる。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 84

 上図のような構成の部屋は確かに多かった。C棟の二人部屋もスケッチされている。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 85

 「くつろぎの談話室風に取ってある廊下側のスペースを効果的に使っていないようである」とある。肘掛け椅子とテーブルのセットは集会などで室外に運び出されそのままになっていたり、設計思想通りに全然なっていない。このテーブルセット、熊野寮五十周年記念誌に写真が残されている。

熊野寮五十周年記念誌(上) p.40
熊野寮五十周年記念誌(上) 丹波文夫 (農学部)66年入寮

 開寮すぐの時期は、まだ設計通り使われてた部屋もあったようだ。確かに、この四角いソファどこかで見たことがある気がする。記念誌にある開寮当時の先輩との座談会では、こういった備品も大学と交渉して調達するものだったと記載されていたと思う。西山さんは食堂をはじめ、共有スペースもつぶさに観察されている。

 食事をおわると、食器返却口にもっていく。ステンレスの流しがついており、そのホッパー上になった下に残飯を入れ、水あらいしておいていく。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 83

 食堂は、食事のほかに全寮大会、講演会、映画界、ダンスパーティーといった全寮的な大ぜいのあつまる集会につかわれる。(中略)各棟、各階のラウンジ(休憩談話室)は、外来者の宿泊、(主として学生、宿泊料150円、吉田寮では茶室、舎友室がこういった用途につかわれている)学内外のサークル会議、ブロック会議などにつかわれる。また会議室はブロック会議、寮全体の代議員会、サークル活動のほか、学生のアルバイトとしてやっている塾形式の家庭教師の学習室にもつかっている。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 83

 住んでたんですかってくらい詳細だ。ブロックとは、棟と階ごとに分かれた生活単位だ。寮の用語も使いこなされている。
 共有スペースは寮内外で活用されていたようだ。観察の後は考察に入られている。

小さなヘヤ空間の中にも、公空間への要求と私空間確立の要求とが、複雑に絡み合っていることがわかる。このようなからみあいが、生活様式や人間関係の生長発展とともにどう展開していくのか、この空間をうまくすみこなすためには、その空間の設計とともに複雑で慎重な研究と計算が必要である。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 86

 どう発展と言われると難しいが、住んでて割と居心地良かったですよ。

  個室居住者の社交の場としてくつられたている談話室の一つをのぞいてみたら、各室がイスザ式になっているのに対してか、畳じきになっており、4、5人のグループがテレビをつけながら麻雀をやっているのがみられた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 87

 社交の場として活用されているからおかしくはないかと。

 医務室は現在、名称本来の用途でなくて、麻雀や絵の展示室につかわれている。もとベッド、ロッカー、身長ばかり、体重計がおいてあったそうだが、今はテーブルだけしかのこってなかった。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 87

 B棟一階に医務室があったのなんて初耳だ。体重計なんて無くても大丈夫っすよ。2007年に設置された温水シャワーの前室にはあった気がする。
 私の住んでいた部屋はとても広々としていて、噂によると建築学科だった昔の住人が棚を壁一面に作りまくってくれたおかげで収納スペースがたっぷりあった。住人が良いと思う方に自由にレイアウトし直せるなんて素敵だ。建築学の大家の呆れ顔が目に浮かぶようだが、西山さんの住まれていた自由寮(旧)よりも熊野寮は永く使われてるので喜んで欲しい。2004年9月頃の屋上の防水工事や2007年頃の窓サッシ交換や2010年頃の耐震工事によって割とメンテナンスされてきた。きっと大きな災害にも耐えてくれるだろう。

A棟屋上の防水工事施工票
mixiのコミュニティでサッシが交換されてて驚く元寮生
ボテッカーとは貼られてるビラのこと

 西山さん、ご設計とご訪問および詳細に記録を残して下さり、ありがとうございました。

開寮当時の雰囲気

 熊野寮一期生柴田さんの、後年におけるインタビューが京都大学新聞にあった。

京都大学新聞 2000-01-16

 寮が出来て間もないころは盛り上がっていたが、吉田寮と比べると人数が多く、人同士のつながりが希薄だと感じていたようだ。これを「アパート化」と形容されている。やっぱり、西山さんが考えたように、1人部屋でなく相部屋にすることでの一体感は大事だったのかも。しかし、大学からそんなに遠いだろうか?

 この後、熊野寮生は自らの手で入寮選考を行っていく。例えば、1971年の京都大学新聞の記事に、入寮選考始まるとあった。当時は吉田寮と熊野寮の入寮選考は二寮一緒に行われていたようだ。

京都大学新聞 1971-03-22

 新入寮生の募集は吉田寮・熊野寮あわせて約130名だそう。いつからか入寮選考は別々に行われるようになった。

命名は京都大学新聞?

 熊野寮五十周年記念誌にこんな文章がある。

(1962年の)
翌3月、毎年恒例の文部省取材に上京した。新年度を前に毎年のこの時期、「京大新聞」は京大予算の概要を現地取材するためだった。大学予算担当の課長に面会して名刺を交換すると、「おう、俺の後輩じゃないか。俺も京大だよ。熊野に新寮をつくる予算が決まったよ。ほらここに図面まで来ている」(中略)同紙3月16日付に、「『熊野寮』一挙実現へ/一期は二百人収容/四階建て、四百人収容を目指す」というスクープ記事を書き、京大詰めの一般紙記者をあわてさせた。大学側の図面にはただ「新寮」としか書いていなかったが、マスコミでいう「新聞辞令」といやつで、勝手に熊野寮と名づけ、結果的にすんなりそのような名前になった。

熊野寮五十周年記念誌(上) 長沼節夫 (文学部)66年入寮 C107 p.58

 勝手に!?1964年3月16日付の京都大学新聞の記事が記念誌には記載されている。紅リポジトリでも全文確認できる。

京都大学新聞 1964-03-16

 記事左側に「京都大学学生寮熊野寮平面図」とある。この記事で命名されたならすでに平面図に「熊野寮」と記載されているのは変では?正確には、公式な発表より前にすっぱ抜いたということだろう。熊野寮の以前にあった教育学部の校舎が「熊野校舎」という名だったので、割と自然な気がする。命名に関してもっとお詳しい情報をお持ちの方がいらしたらお教えください。

まとめ

 吉田寮を中心とした学生らと、当時の総長ら大学の職員らの努力によって建てられたことが分かった。当時の学生と教職員の距離の近さが、熊野寮を生んだといってもいいかもしれない。
 先人たちが住む人にこうあって欲しいと願って議論し設計されたことが伝わって来た。特に、西山さんは旧制三高自由寮での経験を設計に反映してくれていたと感じられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?