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西山夘三とはどんな人か

 西山夘三は京大建築学科の教授であり、1965年の熊野寮開寮における設計相談役でもある。生活空間という言葉を生んだ建築家であり、彼による「食寝分離の原則」の発見は、のちの日本住宅設計におけるnLDK(リビング、ダイニング、キッチン)という基本構造の大本になった。
 西山はとんでもない量の資料を残されており、彼の業績や日記などの記録はいくら掘ってもきりがない。また、イラストの豊富なエッセイも出版されている。この記事では、2024年4月6日に歴彩館で開催されたシンポジウムでの直弟子たちの講演と西山の評伝(広原盛明 2024)から、彼の輪郭を追っていきたい。とくに、熊野寮の設計にどんな考え方が反映されているか知りたい。

シンポジウムのパンフ

青年時代

 1911年3月に大阪の下町の西九条の西山鉄工所という町工場で生まれ、長屋で育つ。三男なので夘三だ。

イラストレータ、エッセイスト

 もともと絵が好きで、漫画を描いてクラスに回すような漫画少年だった。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日

 中学5年の西山は雑誌「キング」に 1 p 漫画を投稿して入賞している。ラジオを組み立てたり工作研究ノートと称する設計図を残したり、この頃から鋭い観察眼を持っていた。また、徹底した記録魔で、のちに生まれたエッセイ「住み方の記」は日本エッセイスト・クラブ賞を授賞し、NHKでドラマにもなる。

学生時代

 三高時代は自由寮を満喫していたことは以前の記事で述べた。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日

水上部(ボート部)に入り、琵琶湖で漕ぎまくっていた。当時は一高(東大)とのスポーツ戦が盛んで、東京まで出向いて行われた墨田川でのレースでは負けたが、来日していた飛行船ツェッペリン号を偶然見れた(あゝ楼台の花に酔う p.  296)。

西山夘三 あゝ楼台の花に酔うp. 79

 1930年、多くの級友と同様、東一条を隔てた南側の三高から北側の京都帝国大学へ入学する。西山の兄二人も同じ大学で、大阪西九条の家業につながる機械学科に進んだが、西山は家業が嫌だったうえに絵や工作が好きで、図学の授業があったので建築の道に進んだ。そこで、DEZM(デザム)という建築学生集団に入って研究会や読書会や論文読んだりコンペに応募したり、「鬼の西山」と呼ばれるほど建築の道へ没頭する。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日
シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日

 デザムは思想から出身までバラバラな学生たちが一緒になって研究する熱い団体だ。自著ではそんなに勉強している様子は描かれていないが、本人にすると当たり前だったのかも。京都帝国大学一回生その頃の百万遍周辺の様子が書かれている。

ちょうどその頃、大学の北門と百万遍の間に「ノートル・パン・コルディアン」とフランス字をかいた風変わりなパン屋ができた。(中略)やがておやじさんは隣りの家を買いとって、五、六センチ厚の欅づくりの立派なテーブル、イスをならべたパン食堂をつくった。今の「進々堂」である。

住み方の記 増補新版 西山夘三 筑摩叢書 1978年 p. 82

 進々堂、この頃からあったんか。公式サイトを見ると、確かに1930(昭和5)年3月に進々堂京大北門前が開店している。書かれているテーブルとイスは、のちの人間国宝黒田辰秋の作とみられる。西山は友人の表現では「バターにパンをつけ」るような食べ方によって安上がりの昼食をとっていた。店主は「日本の将来を担う愛する学生たちに、本当のパンらしいパンと、薫り高いコーヒーを提供したい」との願いを込めたらしい。西山は「私はそういうもの(注:コーヒー)にあまり眼もくれず、五銭のプチ、ライパン、ロシアパンに三銭のバターをつけ、タダのお茶をすすった」とのこと(住み方の記 p.82)。

戦時・戦後

応集と住宅営団時代

 帝国大学卒業後、1937年に始まった日中戦争で応招され、今でいう宇治キャンパスのあたりに火薬庫建設に大学院生活の半分である3年を費やす。自由そのものだった学生生活から一変、非人間的な上下関係でガンジ絡めに拘束された社会は後に悪夢として出てくるくらい嫌な経験だったようだ。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日
技術将校時代の西山

 1940年に結婚するが、食っていけないので国の住宅政策を進める住宅営団の設立時に調査技師として1941年から入る。驚くほどの高給だったそうだ。

シンポジウム 20世紀のすまいを創った建築家 パネル展示より
新婚の時過ごした代官山アパート

 ただ、住宅営団では主流派の同潤会は設立されたきっかけである関東大震災から続く設計原理である、中廊下型を推し進める。これが戦時下の狭い住宅には向いていなかった。しかし、傍流に属する西山の唱える新提案は無視されていた。

研究者として

 西山の唱えた提案は食寝分離論という。食事室と就寝室を分離すべき、という一見当たり前の主張だ。しかし、戦時中のひっ迫する住宅事情に対し、厚生省と建築学会が提唱する国民住宅は、立って半畳寝て一畳、なんにでも転用できる一畳で事足りる、という転用論を用いることを主張した。これでは、居住水準はどんどん低下していく。西山は抵抗する。食寝分離論は転用論と戦う武器だった。

やはりそこに生活の法則性というものがあって、食事と寝室とを分けるというような生活をやっている。食べると寝るとは生活の中て最も重要な二つの要素ですが、その典型的な亜生活を別々の空間で行うという生活様式が、伝統的になりたっている。

「西山夘三先生退官記念集録」昭和49年7月 
西山夘三先生退官記念事業会 p. 17

 その観察眼でもって、大量に見てきた日本のすまいから得た共通点が食寝分離だったのだ。住宅営団で西山の提案は受け入れられなかったが、東大吉武研の51C型RC公営住宅がDK(ダイニングキッチン)とリビングを設えた構造によって食寝分離を後に可能にした。

 戦後、公営住宅・公団住宅の建設とともに、西山の提唱していた規格設計が「標準設計」の形をとって実現され、住宅供給政策上に大きな役割を果たすと同時に、これを通じて都市生活者の居住方式を方向付けるうえに大きな影響を与えた(広原 p. 147)。初期の吉武研の研究に大きな影響を与え、また乗り越えるべき目標とされた(広原 p. 147)。

 戦時中を振り返って西山曰く、住宅営団は役人上がりばかりで実務的に手を汚す仕事はしないし、建てる住宅はだんだんスケールの小さいものになり、研究も何もないので辞めて大学に戻った(広原 p. 159)。 
 1942年、京都帝国大学講師嘱託の辞令を貰い、同大学の仲良しな次兄である夘次郎から大学に戻るならと学位論文の執筆を奨められる。1944年、学位論文「庶民住宅の研究」により工学博士となる。この学位論文は日本建築学会で高い評価を受ける(広原 p. 144)。住まいに対する新たな概念を見つけたのだ。

多岐にわたる功績を一言で表すならば「『生活空間』を発見したこと」だという。「今ではすっかり定着した『生活空間』や『住空間』という言葉は西山がつくったものだった」

京都新聞2024年3月21日(6)

綜合原爆展

 1951年7月、京大同学会が中心に行った綜合原爆展は、米占領軍の報道規制と妨害に屈することなく、原爆被害を国内で最初に一般市民へ伝えた。京都大学で今に続く文化祭であるNFの起源の一つともされている(広原 p.175、11月祭の歴史ー序章:NFって何?どうやって生まれたの?2021年9月20日)。
 このとき、西山はパネルや展示模型の作成に積極的に協力し、後に宣伝担当の一人小畑哲夫から謝辞を述べられている(広原 p. 176)。西山が三高時代の青春を退官後に描いた「あゝ楼台の花に酔う」の最終頁が、まさしく原爆だ。楽しく描かれていた学生時代とは打って変わっておどろおどろしい。学校や寮に対する官憲の弾圧の始まりから、たった25年でここにまで至った事に対する憤りがみてとれる。

教職員として

 京大の営繕課長になった際は、物不足の時代に多くの資材を動かせたので強い権限を持った。この時代に、吉田山の北に防空壕を掘ったとある。戦後も、営繕課長の伝手で人とのつながりが増えた。その流れで初代教職員組合委員長となってしまう。祭り上げられたというニュアンスでシンポジウムでは説明されていた。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日

 食糧難の当時、賃上げをはじめとした交渉は国民の切実な課題だったし、組合は重要な存在だった。いろいろな組合が生まれては泡のごとく合併したり消滅していたが、この教職員組合は今も活動されている。

教授時代

研究室での教育

 出世が遅く、多大な功績の割には助教時代が長すぎたので「西山夘三助(うぞすけ)」教授ですか?と聞かれることもあった。これには理由があり、京大職員組合の活動や総長への交渉がたたり、上ににらまれためだ。封建的な工学部では助教授ごときが総長へ団交とは何事かと教授会が沸騰し、学内では冷や飯を食わされた(シンポジウム1:29:00)。ただ学外での評価は高く、学術会議の会員や学会の副会長にも選出されたが、当時、助教授で就くようなポストではないので「ありえないこと」だった。
 1961年、ようやく教授になる。有名なので研究室に学生はたくさん集まってくる。例えば、建築家黒川紀章は学部生の頃、西山研究室に所属していた。

 上記のnoteに記載があるが、黒川紀章は高校の時、西山の「これからの住まい」を読んで社会的リアリズムを探求するという西山研を志し京大に入り、宇治の教養部の頃から西山研に出入りする。しかし、ある日遊びに行った西山宅で、製図版にあるデザイン重視の図面を見て「えらくショックを受け」て西山から気持ちが離れ、東大の丹下健三に師事する。

 西山研の話に戻る。西山研究室に入ると学生の面倒を全然見てくれないので就職できない、西山研は放し飼いだと周囲から悪口を言われていた。今でいう、いわゆる放置系研究室である。住宅論の授業は休講ばっかりで3回くらいしかしない。その間、全国の研究会に飛び回っているのだ。ちなみに、貴重な肉声での最終年度の講義がyoutubeに上がっている(西山夘三教授最終年度講義「住居論(初回のみ)」1973年4月14日 )。

 初っ端から「休みます」と休講予告しとる。
 指導はしないが、西山はどんどん論文や著作を出すから、学生たちは勝手に読んで勉強していた。全国から学生たちが西山研に集まってきたので、大学院生など中間層が充実し、各々で研究は進められた。西山はもともと個人研究者気質であり、全部自分で考えて動くスタイルだったので、学生にもそれを求めていたともいえる。
 それこそ、学生が西山に論文を見てもらおうとしても「持ってくんな」と言わんばかりな迷惑顔をするので、論文添削をしっかりしてくれる他大の先生にお願いしていた。評伝にも「西山からは学位論文の書き方などついぞ教わったことがなかったので、研究室の面々は学位論文の書き方を鈴木から教わったともいえる」とある(広原 p. 135)。この鈴木とは、西山研と合同ゼミを毎年開いていた東大の鈴木成文だ。本当の師匠はこっちなのでは。
 研究室の飲み会では、旧制三高時代に覚えた「琵琶湖周遊の歌」を歌うこともあった。1974年の退官時に西山は「地の果てに散りても咲けよ、タンポポの花」と書かれた色紙を学生に渡している。あとはどこへでも行けというメッセージか、困った人である。

熊野寮の設計

 60年代の西山研は大忙しで、千里ニュータウンや大阪万博会場基本計画など委託研究が殺到する(広原 p. 316)。そんな大変そうな時期の1964年、京大熊野寮の設計相談役を寮闘争委員会から持ち込まれる。熊野寮五十周年記念誌には、寮建設に奮闘した当時の学生曰くこうある。

また工学部建築学科の西山夘三研究室には、熊野寮の設計に関してお世話になりました。急な申し出にも拘わらずご快諾頂き、次々と変わる寮生の勝手な設計プランに応じて設計図を完成して頂き、有難とうございました

熊野寮五十周年記念誌(上) 山本駿一 (農学部)65年入寮 p.43

 熊野寮は学生達と西山研が一緒に設計した。大学は学生が主体で作るものだという意識が、当時は学生と教職員に共通していたと言えそうだ。たとえば、東大では関東大震災で本郷からの移転を余儀なくされて誕生した、駒場キャンパスは学生らと相談して作られた。建物の多くは内田祥三教授設計である。東大駒場寮に関してこんな記述がある。

そして、現代から見ても画期的なことであるが、寮の設計にあたっては、事前に一高の生徒側の意見が大いに尊重された。

東大駒場寮物語 松本博文 KADOKAWA 2015年 p.20

熊野寮も熊野寮も!

これをつくるについて吉田寮の学生たちが中心になって寮建設の学生側の組織が出来、学生の住む寮を学生たちが考えるのだと、色々研究をやり、案をたてていた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 西山夘三: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 81

熊野寮が建設されたのは、大学が薬学部を新設するために、吉田寮西寮の一部取り壊しを計画したのに対し、寮が新寮闘争委員会を組んで、立ち退き拒否を宣言したからである。

熊野寮五十周年記念誌(上) 湯浅康正(文学部)1965年入寮(A304) p. 44

 熊野寮五十周年記念誌には、開寮すぐのキラキラした鉄筋コンクリート造に入った学生たちの、驚愕と喜びが書かれている。

 熊野寮はモダンだった。なぜ私はモダンだと感じたのだろうか。昭和30年(1965年)代からの建設の進んだ公団住宅に住む人々はやがて団地族と呼ばれるようになった。高倍率の抽選を経て入居し、モダンな様式生活をするホワイトカラー(中流階層)のシンボルであった。鉄筋コンクリート建て、水洗トイレ、広いダイニングキッチン(DK)、風呂、和室2部屋が基本であったそうだ。DKではイスとテーブルの生活が営まれ、白黒テレビ、電気洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」が普及し始めていたのだ。
 そのため、私の家族6人は1階の6畳2部屋と台所、叔父一家7人は2階の8畳6畳と玄関わきの2畳で暮らしていた。一人当たり2畳の居住空間であったことになる。更には間借り人の学生が多い時には2部屋(6畳と4畳半)に4人いた。かなり大きい家ではあったが、一軒家に17人も暮らしていた時期もあったのである。
 そのような生活環境から、新築の鉄筋コンクリート4階建ての寮に入る事には大きな驚きがあった。木造の古い吉田寮の事務室か食堂で行われた寮生による面接後、初めて熊野寮の居室に入り新品の応接セットと木製ベッドと木製の書棚付き机を見た時、こんなに立派な部屋に住めるのかと信じがたい思いにとらわれた。応接セットは洋風の客間にあるものかと思っていた。いまなら子供部屋にベッドがあるのは特別ではないが、昭和30年代には珍しかった。茶色に変色した畳の上にせんべい布団の生活から一変したのだ。ベッドと自分の机の周囲には、現在の病院の大部屋のように、カーテンがあり、ささやかなプライヴェートな生活空間を生み出していた。これも嬉しい設計であった。
 なんといってももっとも感激したのは水洗トイレだ。今では思い出したくもないくらい臭気の漂う汲み取り便所から解放されるのは、私には大きな喜びであった。

熊野寮五十周年記念誌(上) 久保田忠利(文学部)1965年入寮 p. 34

 生活空間という言葉を生んだ西山(研)の設計した部屋に住んでいるとは思いもよらなかったのでは。

さあ入寮となり、熊野寮に来てみると、竣工したばかりのピカピカの建物であり、それもコンクリートつくりの4階建ての威容に、ある種のカルチャーショックに陥ったことを覚えている。
 地方の棟割り長屋が集まっていたような地域でこども時代を過ごし、自宅ではもちろん、隣近所でも、ちゃぶ台と畳と布団の生活が、まだ一般的な様式であった。団地スタイルの住宅が盛んに造成されたのは、オリンピック直後のちょうどこの時期であり、団地が高値の花と言われた時代であった。
 当然ちゃぶ台での生活が普通だと認識している地方出身の新入生にとって、コンクリート作り、二段式ベッド、団らん用のソファーとテーブル、テーブル式の食堂、という生活様式は、人生の価値観を変えるに十分のエポックメーキングな経験であった。

熊野寮五十周年記念誌(上) 寺西豊(工業化学科) 1965年入寮 p. 39 

 西山先生、学生たちめっちゃ喜んではりますよ。上述された当時の住環境は、まさに西山がフィールドワークで3000件近く見てきたものだ。

シンポジウム20世紀のすまいを作った建築家 パネル

 1965年の開寮の頃に関わった西山研の方々、ありがとうございました。もし私も設計しましたって方がいらしたら内容をお教えください。

熊野寮探検

 いっぽうの西山は寮をみてどう思ったか。以前の記事に、西山が開寮三年後の熊野寮に来られていることを書いた。その時は正直いって記載を避けたが、西山は寮の不徹底な管理をしっかり批判している。

日本のすまい3  西山夘三 著 1980年 在寮中に何度も使った流し

 最初の設計通りに全然使われず、サロン風にしたはずが何もない玄関ロビー、雑然とした壁のハリガミ、張り替えられていない紙障子(そんなのあったの?)などを見てキレていらっしゃる。

しかし、大学生の自負をそこなうおそれからくる消極性と、指導ないし助言する側の無知と意識の低さによって、それは全く放任され、いちじるしく寮生活の意義をひくめている側面を、みのがすことはできない。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p.86 

 ルーズなつかい方、アブノーマルなつかい方がされてもそれをチェックしたり、自制したり、恢復させる力やシステムがなく、知恵の蓄積もない。したがってちょっとした偶然の作用、個人的な逸脱した行動によるすみ方の破壊が修復されず、荒廃が膠着化していく。わるく見れば、そのような状況が寮のすみ方から感じられた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 出版者: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 87

民主主義の不徹底な追及の上に形づくられた悪しき「自主管理」の、幼稚な住み方の姿を見る思いがした。

日本のすまい3  西山夘三 著 1980年 

 設計が悪いんじゃないすか?というのは冗談で、なんじゃこの使い方はと思った部分は多少頷ける。いっぽうで、西山はこうも書かれている。

寮の運営はあくまででも「寮生の、寮生による、寮生のための運営」でなければならぬ。

日本のすまい3  西山夘三 著 1980年 p. 367

 ご自身の研究室はおいといて、少なくともこの文からは住んでいる学生と真剣に向き合っている姿勢がわかる。設計に関して、学生側の視点を確認しよう。開寮後の大学との座談会でこう話している。

三原 最初大きく分けて八人部屋と一人部屋があった。八人部屋は小集団としで八人が単位になって三室を使うわけです。(中略)それが結局四人部屋と二人部屋になった事については二つの問題があったと思います。その一つが一人と八人部屋との妥協点として二人と四人になったという事、もうひとつは、一人部屋について西山研究室では技術的に不可能であったということでした。ところが前者は、一人・八人と二人・四人という場合の完全な質の相違を考えに入れていないのであり、後者では、西山研究室の技術的に不可能であるというその技術は、文部省で決められた条件を前提とした技術だったと思います。以上二点について、僕個人としてはあまり満足いくものでありません。こんな事が起ったのも結局はイメージ不足のまま早急に作らざるを得なかったという点にあると思います。我々は、まず完全な自治寮はどんなものかというイメージをつくるべきであった。

熊野寮五十周年記念誌(上) p.121
吉田寮自治会『64去来 no.12』(1964年)より転載(鈴木)

 いっぽうの西山の主張はこうだ。

学生たちの希望は個室(1人室)が圧倒的だった。学生の交渉相手は大学当局であるが、その要求を建設的にまとめるのについて、私の研究室の若い連中が力をかしていた。私は彼らに、1人室などとんでもない、細長いうなぎの寝床のようなヘヤをならべるならいざしらず、1人当たり12~17㎡というような設計基準で最も住みよい住空間をつくるには、すくなくとも2人室、できれば4人ないし6人くらいの集団的なユニットにして、その中をうまく工夫することである。個室と共同空間という言った考え方もあるが、現状では寮を完全個室型のアパート形式のものとするのは無理である。集団的・共同的な様式を積極的に求めるよう努力すべきではないか――と委員たちに話しかけていた。

新住宅 : brains & works for urban life 23(253)(6) 西山夘三: 新住宅社 出版年月日:1968-06 p. 81

 以前も書いたが、設計にあたって西山の過ごした三高時代の自由寮のイメージが根底にあった。

三原 もちろんそれでも文部省の規定している寮よりは、スペースの点からも設備の点からもはるかに良い寮であるとは確信もっていえます。熊野の新寮の場合突然設計委員会ができ時間もなく完全なものは出来なかったけれど修学院の寮では、こういう経験を取り入れ、素晴らしいものを作ってもらいたいと思います。

熊野寮五十周年記念誌(上) p.121
吉田寮自治会『64去来 no.12』(1964年)より転載(鈴木)

 新しい寮をつくるときはぜひ参考にしてほしい。

自治とは

  西山は自身が過ごした三高自由寮だけでなく、企業や大学など全国の寄宿舎を見て回り、そこで寮の意義を深堀する。

「入居した日は何となく不安で、その日のうちに家に帰りたい気持に駆られた」。そのさみしさから「親しい友達がほしい」「みんなで一緒に何かやりたい」という友情と連帯がはぐくまれる。「新歓」(新入生歓迎コンパ)や寮祭といった共同生活の伝統的行事を通じて、新入生への温かい思いやりは先輩から後輩に受け継がれ、やがて力を合わせて一つのことに取り組む、情熱をこめて語り合う、悲喜を共にするといった人間関係が生まれ、下宿屋やアパートでは得られない、今まで経験しえなかった生活を体験する。

日本のすまい3  西山夘三 著 1980年 p. 401

 人間は集団生活の中でこそ成長する。核家族化や利己的個人主義の中で育てられ、空疎な小市民的プライドや甘え、ニヒリズムと文化的頽廃に毒され易かったそれまでの生活と違って、集団生活の中で健康な価値観が育てられる。青年たちは新しい集団生活の中で、自らの正体をかなりさらけ出した他人との接触で、多くのことを他から吸収し、自分のことをし考える人間になる。今まで思いもつかなかった社会的な問題にも目をむけ、自ら考え行動する全人的な成長をとげる機縁をうる。学寮はそういう場である。

日本のすまい3  西山夘三 著 1980年 p. 401

学生寄宿舎は、そうしたものとして、学生たちの交歓・交流、親密な人間関係を打ち立て、連帯感を育て、私的・利己的な意識から出て、大学に学ぶことの意義を自覚し、社会的・国民的責任を果たそうとする人間への全面的発展を保障する居住空間なのである。寮生活における自治と自由の大切さもそこにある。
 それは、青年たちに特有の政治的敏感さや強い行動力を自由に発揮できる場でなければならない。そのことが、青年たちを「負担区分」や「管理運営規則」と鋭く対立させている理由でもある。そうした運動を通じて、青年たちの自覚的な自己形成がすすみ、青年のもつエネルギーが掘り起こされる。時代の社会を担う青年が育っていく。そうではなくて、青年たちの要求をトラブルとしてとらえ、寮を紛争の根拠地とみ、行政的な体裁をつくろう管理運営を強化し、理にさとく従順な学生を住まわせる単なる宿舎=学生アパートにしていこうと考えるのならば、われわれは「学生寄宿舎」という輝かしい豊かな伝統と知恵を秘めた貴重な住居のタイプを自ら破壊し、捨ててしまうことになるであろう。

日本のすまい3  西山夘三 著 1980年 p. 402

 ええことをおっしゃっている。設計が悪いんじゃないすかとか生意気いってすいませんでした。自治に対する考えはこの人の文章が一番共感できる気がする。寮の未来がどうあるべきか考える手助けになる。

大阪万博と京都計画

 西山研の研究活動の話に戻る。熊野寮設計と同年の1964年、京都計画という高密度住宅構想が西山研からが発表される。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日

職住一体の歴史を軽視するかのような構想に市民の反応は芳しくなかったという。

京都新聞2024年3月21日(6)

 ウケなかったらしい。丹下の東京計画1960を意識しすぎたのかしら。
 1966年、大阪万博の原案作成責任者に、昨年から会場基本計画の研究委託を受けていた西山が手を挙げる。大阪万博のメイン会場である、お祭り広場などはもともと西山の構想だった。助教達が学内横断組織を作りコンセプト出して原案をまとめる。が、西山は途中でおろされて丹下が担当することになる。どんな気持ちだったかは想像するしかない。

市民活動

 1971年、「市電をまもる会」を結成し、マイカー観光増加による渋滞の元凶、赤字垂れ流しと批判されていた市電の保全運動を進める。和子夫人は会の事務局員となり、西山が作詞した愛唱歌「市電はいいな」は、人気フォークシンガーのはしだのりひこ(フォーク・クルセダーズ)が作曲して市民の間に広まった(広原 p. 427)。

市電はいいな チンチン走る
大きな窓から緑の並木
通りのにぎわい 行きかう人々
眺めを楽しむ観光客・・・・・・

燎原 2011年7月15日第195号

27万人もの署名もむなしく、1978年に日本最古の市電は撤廃される。市電は乗降しやすく福祉に向いており、環境によく、渋滞解消を目指すならむしろ市電を活用すべきという主張だったが、退けられた。ただ、熊本や広島など他地域の市電保全に少なからず影響を与えた。2024年6月、広島電鉄へ京都市交通局から1977年に贈られた15両の市電のうち「桃山」「舞妓」が引退した(お知らせ「京都市電からの移籍車両 初の引退をお見送りする「ありがとう1902号・1903号」企画の実施について」|広島電鉄)。残り13両は現在も運航しており、車両の堅牢さがうかがえる。
 この活動はただの市電への哀愁からの行動でなく、モータリゼーション中心の街づくりへの疑問と、蓄積した理論の実践であった。西山は市電だけでなく京都駅ビル、京都タワー建築、文化財保護、ナショナル・トラストなど様々な社会問題に先頭でかかわっていく。

シンポジウム 20世紀のすまいを創った建築家 パネル展示より

 西山は弟子のひとりに対して「専門家は住宅運動の旗振り役になるな。住民主体のまちづくりに対しては、専門家として課題や矛盾に対して先見性のある目で理論展開することが求められる。自ら運動に飛び込んではならない」と話していた(シンポジウム動画2:07:00頃)。ご自身は色んな運動にめっちゃ飛び込んでへんかえ?

そのほかの建築物

 西山の残した建築物は多くない。京都にある、もしくはあった建築を「西山夘三先生退官記念集録」 昭和49年7月 西山夘三先生退官記念事業会より抜粋する。

  • 宇治火薬製造所(TNT合成工場) 京都府宇治市 昭和12年

  • 無名戦士の墓 RC 京都市知恩院境内 昭和33年8月

  • 京都教育文化センター RC(5階) 京都市 昭和39年7月

  • 京都ゼミナールハウス RC(5階)、木造(平屋) 京都府京北町 昭和49年 

 残念ながら熊野寮の記載はない。西山研全体と住人らで設計し、西山はあくまで設計相談役という立場だからだろうか。無名戦士の墓は知恩院の駐車場から行けるので、京都にお住いの方はちらっと見てみて欲しい。赤旗が棺を覆った形を表しており、碑文は末川博によるものだ。

2024年4月7日知恩院の無名戦士の墓

 京都教育文化センターはHPに「京都府の公立学校の教職員が力を合わせて設立した施設」とある。また、直弟子である西村一郎のブログには定期的に西山建築をめぐっていた様子が書かれている。

・京都教育センターについては蓮仏 享さん(元京都建築事務所所長、80歳)が説明された。1960年ごろから話が起こり1964年竣工。(後で見る京都会館との「対比」は?、当時は「打ち放しコンクリート時代」で共に影響を受けている・・・)

西山夘三先生ゆかりの地ウオッチング2011-05-15」西村一郎の地域居住談義

建築年も場所も熊野寮と近い。言われてみれば武骨さも似ている。

2024年4月7日の京都教育文化センター

 京大附属病院の南にあり熊野寮のすぐ近くなので、学生さんはチラっとでも見てみて欲しい。寮と同時期に建てられた、兄弟のような建物である。あと、城崎温泉も西山が大きく関わった。

おじいちゃん時代

西山の長男

 シンポジウム当日の話になる。西山のご長男西山勝夫さんがシンポジウムで登壇されると自然と拍手が生じた。西山のエッセイでよく見た赤ちゃんだ。確か、日中戦争の勝利を祈って勝の文字が付けられたのだ。

シンポジウム西山夘三 -20世紀のすまいを創った建築家 2024年4月6日
西山の絵日記

ご高齢になられているがしっかりされている。

両親は初孫を可愛がってくれた。長女のベッドは、私の机に私が細工した木枠をはめて工作したものであった。父がアパートを訪ねてくるときにはスケッチブックを持参し、長女の寝顔を描いたり、新婚生活の住み方をメモしたりして帰った。

西山勝夫 p. 88

妻と孫の死

 1974年、悲しいことに、西山のお孫さんがベランダから転落する事故にあう(住み方の記 p.364)。きょうだい二人が落ち、姉は一命をとりとめたが弟は亡くなった。高層アパートでのすまいを息子に薦めたのは西山である。このことは他の方もまとめられている。

 低層住宅からの高層化は、食糧不足の時代においては地方の田んぼを潰すことはならんので都市部を高密度高層化すべきという発想からきている。同年、奥さんもなくされており、葬式の会場のスケッチが残っている(同 p. 366)。西山にとって、長年続けたスケッチは悲しさや寂しさを見つめる一つの手段になっていたのかもしれない。

妻が病院から帰ってきた正月、その恢復を祈ってまた新らしく紅梅を入れてもらった。半年たった葬儀の前夜、庭木戸の上にのびている枝をたわめて会葬者のための道をつくるとき、涙がポタポタと落ちた。

住み方の記 増補新版 西山夘三 筑摩叢書 1978年 p. 367

遺言

 1994年、JR京都駅高層化に関する裁判所での陳述後、西山は脳出血で倒れた。その証言は後に「遺言」として残されている。

父倒れる 父は、晩年「古都京都の町壊し」を憂慮し、慣れない裁判闘争の法廷証言に心血を注いでいた。法廷陳述の翌日1994年2月11日、自宅で入浴中に倒れ、救急車で京都大学病院の集中治療室に搬送されたが、危篤状態に。文字をノートに書く反応があって、「町づくり」という字などが読みとれたが、見通しは極めて悪かった。いのちとりになった陳述はのちに「西山夘三の遺言」とよばれている。私が米国留学中の4月2日、83年の生涯を閉じた。

西山勝夫 p. 88

 西村一郎のブログに、「今回は時間の関係で西山先生ご自身の設計の墓のある西昌寺に行くのは止めた」とある。墓も自分で設計されたようだ。子どもたちが通いやすいよう、本家の大阪天王寺から京都の東山二条の西昌寺に、西山の妻と孫の遺骨をうつしたとある(住み方の記 p. 375)。

私もやがて死ぬ。その時私のタマシイは消えてなくなり、その心のうちに私をイメージしうる遺族や知人たちによって、私の最後の物質的な残り滓がそこに投げ入れられるだろう。墓は私の魂のためのもの、私の魂のすみかではなくて、後にのこる人々の魂のためのもの、その人々が個人を思い出すよすがをしまっておく場所である。

住み方の記増補新版 西山夘三 筑摩叢書 1978年 p. 375

 タンポポのごとく全国へ散っていった弟子たちは西山が亡くなった際に再集結し、家に大量に残されていた資料の編纂や保全を行ってきた。2024年の没後三十年に至るまで、直弟子や孫弟子たちが彼の功績を掘り起こしている。全国で花が咲いたのだ。

未来

 ところで今年、建築学科の学生が熊野寮の未来をテーマに作品を制作されていた。

四十坊広大『人類の熊野寮-意図と誤読の物語-』

 2065年の100周年でもみんなが楽しく過ごせていれば、建物の設計に応じてくれた西山研の皆さんも喜んでくれるかもしれない。

まとめ

 漫画家、研究者、人間として西山を多面的に見ることができた。振り返ると、思想や行動は一貫せず、言ってることとやってることが違ってばかりだ。社会的リアリズムの探求とか言ってるくせにデザイナーチックな図面を描くし、弟子には専門家は住宅運動の旗振りするなとか言っといて自身は思いっきり社会活動するし、寮は管理不徹底の放任だと批判しといて西山研は放し飼いだ。講義はいつも休講だし進々堂ではバターばっかり食べるし。
 ただ、生涯に渡るその変遷が面白いと思う。戦時中は国策側の仕事をしたと思えば組合活動をしたり、地道なフィールドワークから大規模都市構想まで何でもやっている。どんなときも、よく観察し描くことが彼の行動に通底している。亡くなったのちも、彼の生き様が著作や作品を通じて私たちを鼓舞してくれている。熊野寮の設計相談役が面白い人で良かった。

アーカイブ活動の苦労

 箸袋のメモに至るまで西山が自宅兼書斎にため込んだ資料は、段ボール600箱にぼのる。弟子たちは、まず選別して分類すべきか、すべて残すべきか議論した。弟子の中でも世代で意見が異なり、意外なことに若い世代ほどすべて残すことを主張し、若さとパワーで押し勝った。その結果、すべて残すことになった。結局、この選択が正しかったと述懐している。もし選別作業をしていたら、没後30年の今でも終わってなかった。
 1段階目に西山の家から、新たに借りた郊外のアパートの一室にすべての資料を運び込んだ。この時、大量のホコリのせいで関わった人は皆気管支炎になった。笑い話にされていたが、文書整理のプロは必ずマスクをするものだと後で知ったとのこと。
 2段階目に、積水ハウスの専務が西山と伝手があった関係で、木津川の積水ハウス住宅研究所に資料を移管できた。しかも地下の広い場所を借りれたおかげで、分類作業がはかどった。アパートの一室では資料を広げて分類するスペースが確保できなかった。積水ハウス住宅研究所に、弟子たちがNPO法人西山夘三記念すまい・まちづくり文庫を設立できた。これは2022年に「日本建築学会賞」(業績部門)の受賞という思わぬ功績につながった。2013~2014年に熊野寮五十周年記念誌編集委員の方がここを訪れ、寮の設計時の資料を見つけ出されている。この文庫設立のおかげで資料整理が進み、たとえば西山が日中国交正常化より前の1950年代、社会主義を目指す中国へ度々訪問し、建築の視察や建築関係者と交流を果たしていたこともまとめられている(「西山夘三による中華人民共和国との交流活動」市川紘司, 日本建築学会計画系論文集 第88巻 第805号, 1103-1112, 2023年3月)。
 最終的に、2024年の現在、NPO法人が管理していた資料1万2800点が、府立京都学歴彩館に寄贈された。ここは永く資料を保存できる施設であり、今日このシンポジウムを開くに至れたのは素晴らしい。
 広原は京都府立大の学長になったが、師匠の西山はそのすぐ東に住んでいたので、生前はよく呼び出されていた。こうして近所の歴細館に西山の資料を保管できたことは縁があることだし、この縁は死んでも続いていくだろう、と笑っていらした。本当にそうだと思う。

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