西山夘三とはどんな人か
西山夘三は京大建築学科の教授であり、1965年の熊野寮開寮における設計相談役でもある。生活空間という言葉を生んだ建築家であり、彼による「食寝分離の原則」の発見は、のちの日本住宅設計におけるnLDK(リビング、ダイニング、キッチン)という基本構造の大本になった。
西山はとんでもない量の資料を残されており、彼の業績や日記などの記録はいくら掘ってもきりがない。また、イラストの豊富なエッセイも出版されている。この記事では、2024年4月6日に歴彩館で開催されたシンポジウムでの直弟子たちの講演と西山の評伝(広原盛明 2024)から、彼の輪郭を追っていきたい。とくに、熊野寮の設計にどんな考え方が反映されているか知りたい。
青年時代
1911年3月に大阪の下町の西九条の西山鉄工所という町工場で生まれ、長屋で育つ。三男なので夘三だ。
イラストレータ、エッセイスト
もともと絵が好きで、漫画を描いてクラスに回すような漫画少年だった。
中学5年の西山は雑誌「キング」に 1 p 漫画を投稿して入賞している。ラジオを組み立てたり工作研究ノートと称する設計図を残したり、この頃から鋭い観察眼を持っていた。また、徹底した記録魔で、のちに生まれたエッセイ「住み方の記」は日本エッセイスト・クラブ賞を授賞し、NHKでドラマにもなる。
学生時代
三高時代は自由寮を満喫していたことは以前の記事で述べた。
水上部(ボート部)に入り、琵琶湖で漕ぎまくっていた。当時は一高(東大)とのスポーツ戦が盛んで、東京まで出向いて行われた墨田川でのレースでは負けたが、来日していた飛行船ツェッペリン号を偶然見れた(あゝ楼台の花に酔う p. 296)。
1930年、多くの級友と同様、東一条を隔てた南側の三高から北側の京都帝国大学へ入学する。西山の兄二人も同じ大学で、大阪西九条の家業につながる機械学科に進んだが、西山は家業が嫌だったうえに絵や工作が好きで、図学の授業があったので建築の道に進んだ。そこで、DEZM(デザム)という建築学生集団に入って研究会や読書会や論文読んだりコンペに応募したり、「鬼の西山」と呼ばれるほど建築の道へ没頭する。
デザムは思想から出身までバラバラな学生たちが一緒になって研究する熱い団体だ。自著ではそんなに勉強している様子は描かれていないが、本人にすると当たり前だったのかも。京都帝国大学一回生その頃の百万遍周辺の様子が書かれている。
進々堂、この頃からあったんか。公式サイトを見ると、確かに1930(昭和5)年3月に進々堂京大北門前が開店している。書かれているテーブルとイスは、のちの人間国宝黒田辰秋の作とみられる。西山は友人の表現では「バターにパンをつけ」るような食べ方によって安上がりの昼食をとっていた。店主は「日本の将来を担う愛する学生たちに、本当のパンらしいパンと、薫り高いコーヒーを提供したい」との願いを込めたらしい。西山は「私はそういうもの(注:コーヒー)にあまり眼もくれず、五銭のプチ、ライパン、ロシアパンに三銭のバターをつけ、タダのお茶をすすった」とのこと(住み方の記 p.82)。
戦時・戦後
応集と住宅営団時代
帝国大学卒業後、1937年に始まった日中戦争で応招され、今でいう宇治キャンパスのあたりに火薬庫建設に大学院生活の半分である3年を費やす。自由そのものだった学生生活から一変、非人間的な上下関係でガンジ絡めに拘束された社会は後に悪夢として出てくるくらい嫌な経験だったようだ。
1940年に結婚するが、食っていけないので国の住宅政策を進める住宅営団の設立時に調査技師として1941年から入る。驚くほどの高給だったそうだ。
ただ、住宅営団では主流派の同潤会は設立されたきっかけである関東大震災から続く設計原理である、中廊下型を推し進める。これが戦時下の狭い住宅には向いていなかった。しかし、傍流に属する西山の唱える新提案は無視されていた。
研究者として
西山の唱えた提案は食寝分離論という。食事室と就寝室を分離すべき、という一見当たり前の主張だ。しかし、戦時中のひっ迫する住宅事情に対し、厚生省と建築学会が提唱する国民住宅は、立って半畳寝て一畳、なんにでも転用できる一畳で事足りる、という転用論を用いることを主張した。これでは、居住水準はどんどん低下していく。西山は抵抗する。食寝分離論は転用論と戦う武器だった。
その観察眼でもって、大量に見てきた日本のすまいから得た共通点が食寝分離だったのだ。住宅営団で西山の提案は受け入れられなかったが、東大吉武研の51C型RC公営住宅がDK(ダイニングキッチン)とリビングを設えた構造によって食寝分離を後に可能にした。
戦後、公営住宅・公団住宅の建設とともに、西山の提唱していた規格設計が「標準設計」の形をとって実現され、住宅供給政策上に大きな役割を果たすと同時に、これを通じて都市生活者の居住方式を方向付けるうえに大きな影響を与えた(広原 p. 147)。初期の吉武研の研究に大きな影響を与え、また乗り越えるべき目標とされた(広原 p. 147)。
戦時中を振り返って西山曰く、住宅営団は役人上がりばかりで実務的に手を汚す仕事はしないし、建てる住宅はだんだんスケールの小さいものになり、研究も何もないので辞めて大学に戻った(広原 p. 159)。
1942年、京都帝国大学講師嘱託の辞令を貰い、同大学の仲良しな次兄である夘次郎から大学に戻るならと学位論文の執筆を奨められる。1944年、学位論文「庶民住宅の研究」により工学博士となる。この学位論文は日本建築学会で高い評価を受ける(広原 p. 144)。住まいに対する新たな概念を見つけたのだ。
綜合原爆展
1951年7月、京大同学会が中心に行った綜合原爆展は、米占領軍の報道規制と妨害に屈することなく、原爆被害を国内で最初に一般市民へ伝えた。京都大学で今に続く文化祭であるNFの起源の一つともされている(広原 p.175、11月祭の歴史ー序章:NFって何?どうやって生まれたの?2021年9月20日)。
このとき、西山はパネルや展示模型の作成に積極的に協力し、後に宣伝担当の一人小畑哲夫から謝辞を述べられている(広原 p. 176)。西山が三高時代の青春を退官後に描いた「あゝ楼台の花に酔う」の最終頁が、まさしく原爆だ。楽しく描かれていた学生時代とは打って変わっておどろおどろしい。学校や寮に対する官憲の弾圧の始まりから、たった25年でここにまで至った事に対する憤りがみてとれる。
教職員として
京大の営繕課長になった際は、物不足の時代に多くの資材を動かせたので強い権限を持った。この時代に、吉田山の北に防空壕を掘ったとある。戦後も、営繕課長の伝手で人とのつながりが増えた。その流れで初代教職員組合委員長となってしまう。祭り上げられたというニュアンスでシンポジウムでは説明されていた。
食糧難の当時、賃上げをはじめとした交渉は国民の切実な課題だったし、組合は重要な存在だった。いろいろな組合が生まれては泡のごとく合併したり消滅していたが、この教職員組合は今も活動されている。
教授時代
研究室での教育
出世が遅く、多大な功績の割には助教時代が長すぎたので「西山夘三助(うぞすけ)」教授ですか?と聞かれることもあった。これには理由があり、京大職員組合の活動や総長への交渉がたたり、上ににらまれためだ。封建的な工学部では助教授ごときが総長へ団交とは何事かと教授会が沸騰し、学内では冷や飯を食わされた(シンポジウム1:29:00)。ただ学外での評価は高く、学術会議の会員や学会の副会長にも選出されたが、当時、助教授で就くようなポストではないので「ありえないこと」だった。
1961年、ようやく教授になる。有名なので研究室に学生はたくさん集まってくる。例えば、建築家黒川紀章は学部生の頃、西山研究室に所属していた。
上記のnoteに記載があるが、黒川紀章は高校の時、西山の「これからの住まい」を読んで社会的リアリズムを探求するという西山研を志し京大に入り、宇治の教養部の頃から西山研に出入りする。しかし、ある日遊びに行った西山宅で、製図版にあるデザイン重視の図面を見て「えらくショックを受け」て西山から気持ちが離れ、東大の丹下健三に師事する。
西山研の話に戻る。西山研究室に入ると学生の面倒を全然見てくれないので就職できない、西山研は放し飼いだと周囲から悪口を言われていた。今でいう、いわゆる放置系研究室である。住宅論の授業は休講ばっかりで3回くらいしかしない。その間、全国の研究会に飛び回っているのだ。ちなみに、貴重な肉声での最終年度の講義がyoutubeに上がっている(西山夘三教授最終年度講義「住居論(初回のみ)」1973年4月14日 )。
初っ端から「休みます」と休講予告しとる。
指導はしないが、西山はどんどん論文や著作を出すから、学生たちは勝手に読んで勉強していた。全国から学生たちが西山研に集まってきたので、大学院生など中間層が充実し、各々で研究は進められた。西山はもともと個人研究者気質であり、全部自分で考えて動くスタイルだったので、学生にもそれを求めていたともいえる。
それこそ、学生が西山に論文を見てもらおうとしても「持ってくんな」と言わんばかりな迷惑顔をするので、論文添削をしっかりしてくれる他大の先生にお願いしていた。評伝にも「西山からは学位論文の書き方などついぞ教わったことがなかったので、研究室の面々は学位論文の書き方を鈴木から教わったともいえる」とある(広原 p. 135)。この鈴木とは、西山研と合同ゼミを毎年開いていた東大の鈴木成文だ。本当の師匠はこっちなのでは。
研究室の飲み会では、旧制三高時代に覚えた「琵琶湖周遊の歌」を歌うこともあった。1974年の退官時に西山は「地の果てに散りても咲けよ、タンポポの花」と書かれた色紙を学生に渡している。あとはどこへでも行けというメッセージか、困った人である。
熊野寮の設計
60年代の西山研は大忙しで、千里ニュータウンや大阪万博会場基本計画など委託研究が殺到する(広原 p. 316)。そんな大変そうな時期の1964年、京大熊野寮の設計相談役を寮闘争委員会から持ち込まれる。熊野寮五十周年記念誌には、寮建設に奮闘した当時の学生曰くこうある。
熊野寮は学生達と西山研が一緒に設計した。大学は学生が主体で作るものだという意識が、当時は学生と教職員に共通していたと言えそうだ。たとえば、東大では関東大震災で本郷からの移転を余儀なくされて誕生した、駒場キャンパスは学生らと相談して作られた。建物の多くは内田祥三教授設計である。東大駒場寮に関してこんな記述がある。
熊野寮も熊野寮も!
熊野寮五十周年記念誌には、開寮すぐのキラキラした鉄筋コンクリート造に入った学生たちの、驚愕と喜びが書かれている。
生活空間という言葉を生んだ西山(研)の設計した部屋に住んでいるとは思いもよらなかったのでは。
西山先生、学生たちめっちゃ喜んではりますよ。上述された当時の住環境は、まさに西山がフィールドワークで3000件近く見てきたものだ。
1965年の開寮の頃に関わった西山研の方々、ありがとうございました。もし私も設計しましたって方がいらしたら内容をお教えください。
熊野寮探検
いっぽうの西山は寮をみてどう思ったか。以前の記事に、西山が開寮三年後の熊野寮に来られていることを書いた。その時は正直いって記載を避けたが、西山は寮の不徹底な管理をしっかり批判している。
最初の設計通りに全然使われず、サロン風にしたはずが何もない玄関ロビー、雑然とした壁のハリガミ、張り替えられていない紙障子(そんなのあったの?)などを見てキレていらっしゃる。
設計が悪いんじゃないすか?というのは冗談で、なんじゃこの使い方はと思った部分は多少頷ける。いっぽうで、西山はこうも書かれている。
ご自身の研究室はおいといて、少なくともこの文からは住んでいる学生と真剣に向き合っている姿勢がわかる。設計に関して、学生側の視点を確認しよう。開寮後の大学との座談会でこう話している。
いっぽうの西山の主張はこうだ。
以前も書いたが、設計にあたって西山の過ごした三高時代の自由寮のイメージが根底にあった。
新しい寮をつくるときはぜひ参考にしてほしい。
自治とは
西山は自身が過ごした三高自由寮だけでなく、企業や大学など全国の寄宿舎を見て回り、そこで寮の意義を深堀する。
ええことをおっしゃっている。設計が悪いんじゃないすかとか生意気いってすいませんでした。自治に対する考えはこの人の文章が一番共感できる気がする。寮の未来がどうあるべきか考える手助けになる。
大阪万博と京都計画
西山研の研究活動の話に戻る。熊野寮設計と同年の1964年、京都計画という高密度住宅構想が西山研からが発表される。
ウケなかったらしい。丹下の東京計画1960を意識しすぎたのかしら。
1966年、大阪万博の原案作成責任者に、昨年から会場基本計画の研究委託を受けていた西山が手を挙げる。大阪万博のメイン会場である、お祭り広場などはもともと西山の構想だった。助教達が学内横断組織を作りコンセプト出して原案をまとめる。が、西山は途中でおろされて丹下が担当することになる。どんな気持ちだったかは想像するしかない。
市民活動
1971年、「市電をまもる会」を結成し、マイカー観光増加による渋滞の元凶、赤字垂れ流しと批判されていた市電の保全運動を進める。和子夫人は会の事務局員となり、西山が作詞した愛唱歌「市電はいいな」は、人気フォークシンガーのはしだのりひこ(フォーク・クルセダーズ)が作曲して市民の間に広まった(広原 p. 427)。
27万人もの署名もむなしく、1978年に日本最古の市電は撤廃される。市電は乗降しやすく福祉に向いており、環境によく、渋滞解消を目指すならむしろ市電を活用すべきという主張だったが、退けられた。ただ、熊本や広島など他地域の市電保全に少なからず影響を与えた。2024年6月、広島電鉄へ京都市交通局から1977年に贈られた15両の市電のうち「桃山」「舞妓」が引退した(お知らせ「京都市電からの移籍車両 初の引退をお見送りする「ありがとう1902号・1903号」企画の実施について」|広島電鉄)。残り13両は現在も運航しており、車両の堅牢さがうかがえる。
この活動はただの市電への哀愁からの行動でなく、モータリゼーション中心の街づくりへの疑問と、蓄積した理論の実践であった。西山は市電だけでなく京都駅ビル、京都タワー建築、文化財保護、ナショナル・トラストなど様々な社会問題に先頭でかかわっていく。
西山は弟子のひとりに対して「専門家は住宅運動の旗振り役になるな。住民主体のまちづくりに対しては、専門家として課題や矛盾に対して先見性のある目で理論展開することが求められる。自ら運動に飛び込んではならない」と話していた(シンポジウム動画2:07:00頃)。ご自身は色んな運動にめっちゃ飛び込んでへんかえ?
そのほかの建築物
西山の残した建築物は多くない。京都にある、もしくはあった建築を「西山夘三先生退官記念集録」 昭和49年7月 西山夘三先生退官記念事業会より抜粋する。
宇治火薬製造所(TNT合成工場) 京都府宇治市 昭和12年
無名戦士の墓 RC 京都市知恩院境内 昭和33年8月
京都教育文化センター RC(5階) 京都市 昭和39年7月
京都ゼミナールハウス RC(5階)、木造(平屋) 京都府京北町 昭和49年
残念ながら熊野寮の記載はない。西山研全体と住人らで設計し、西山はあくまで設計相談役という立場だからだろうか。無名戦士の墓は知恩院の駐車場から行けるので、京都にお住いの方はちらっと見てみて欲しい。赤旗が棺を覆った形を表しており、碑文は末川博によるものだ。
京都教育文化センターはHPに「京都府の公立学校の教職員が力を合わせて設立した施設」とある。また、直弟子である西村一郎のブログには定期的に西山建築をめぐっていた様子が書かれている。
建築年も場所も熊野寮と近い。言われてみれば武骨さも似ている。
京大附属病院の南にあり熊野寮のすぐ近くなので、学生さんはチラっとでも見てみて欲しい。寮と同時期に建てられた、兄弟のような建物である。あと、城崎温泉も西山が大きく関わった。
おじいちゃん時代
西山の長男
シンポジウム当日の話になる。西山のご長男西山勝夫さんがシンポジウムで登壇されると自然と拍手が生じた。西山のエッセイでよく見た赤ちゃんだ。確か、日中戦争の勝利を祈って勝の文字が付けられたのだ。
ご高齢になられているがしっかりされている。
妻と孫の死
1974年、悲しいことに、西山のお孫さんがベランダから転落する事故にあう(住み方の記 p.364)。きょうだい二人が落ち、姉は一命をとりとめたが弟は亡くなった。高層アパートでのすまいを息子に薦めたのは西山である。このことは他の方もまとめられている。
低層住宅からの高層化は、食糧不足の時代においては地方の田んぼを潰すことはならんので都市部を高密度高層化すべきという発想からきている。同年、奥さんもなくされており、葬式の会場のスケッチが残っている(同 p. 366)。西山にとって、長年続けたスケッチは悲しさや寂しさを見つめる一つの手段になっていたのかもしれない。
遺言
1994年、JR京都駅高層化に関する裁判所での陳述後、西山は脳出血で倒れた。その証言は後に「遺言」として残されている。
西村一郎のブログに、「今回は時間の関係で西山先生ご自身の設計の墓のある西昌寺に行くのは止めた」とある。墓も自分で設計されたようだ。子どもたちが通いやすいよう、本家の大阪天王寺から京都の東山二条の西昌寺に、西山の妻と孫の遺骨をうつしたとある(住み方の記 p. 375)。
タンポポのごとく全国へ散っていった弟子たちは西山が亡くなった際に再集結し、家に大量に残されていた資料の編纂や保全を行ってきた。2024年の没後三十年に至るまで、直弟子や孫弟子たちが彼の功績を掘り起こしている。全国で花が咲いたのだ。
未来
ところで今年、建築学科の学生が熊野寮の未来をテーマに作品を制作されていた。
2065年の100周年でもみんなが楽しく過ごせていれば、建物の設計に応じてくれた西山研の皆さんも喜んでくれるかもしれない。
まとめ
漫画家、研究者、人間として西山を多面的に見ることができた。振り返ると、思想や行動は一貫せず、言ってることとやってることが違ってばかりだ。社会的リアリズムの探求とか言ってるくせにデザイナーチックな図面を描くし、弟子には専門家は住宅運動の旗振りするなとか言っといて自身は思いっきり社会活動するし、寮は管理不徹底の放任だと批判しといて西山研は放し飼いだ。講義はいつも休講だし進々堂ではバターばっかり食べるし。
ただ、生涯に渡るその変遷が面白いと思う。戦時中は国策側の仕事をしたと思えば組合活動をしたり、地道なフィールドワークから大規模都市構想まで何でもやっている。どんなときも、よく観察し描くことが彼の行動に通底している。亡くなったのちも、彼の生き様が著作や作品を通じて私たちを鼓舞してくれている。熊野寮の設計相談役が面白い人で良かった。
アーカイブ活動の苦労
箸袋のメモに至るまで西山が自宅兼書斎にため込んだ資料は、段ボール600箱にぼのる。弟子たちは、まず選別して分類すべきか、すべて残すべきか議論した。弟子の中でも世代で意見が異なり、意外なことに若い世代ほどすべて残すことを主張し、若さとパワーで押し勝った。その結果、すべて残すことになった。結局、この選択が正しかったと述懐している。もし選別作業をしていたら、没後30年の今でも終わってなかった。
1段階目に西山の家から、新たに借りた郊外のアパートの一室にすべての資料を運び込んだ。この時、大量のホコリのせいで関わった人は皆気管支炎になった。笑い話にされていたが、文書整理のプロは必ずマスクをするものだと後で知ったとのこと。
2段階目に、積水ハウスの専務が西山と伝手があった関係で、木津川の積水ハウス住宅研究所に資料を移管できた。しかも地下の広い場所を借りれたおかげで、分類作業がはかどった。アパートの一室では資料を広げて分類するスペースが確保できなかった。積水ハウス住宅研究所に、弟子たちがNPO法人西山夘三記念すまい・まちづくり文庫を設立できた。これは2022年に「日本建築学会賞」(業績部門)の受賞という思わぬ功績につながった。2013~2014年に熊野寮五十周年記念誌編集委員の方がここを訪れ、寮の設計時の資料を見つけ出されている。この文庫設立のおかげで資料整理が進み、たとえば西山が日中国交正常化より前の1950年代、社会主義を目指す中国へ度々訪問し、建築の視察や建築関係者と交流を果たしていたこともまとめられている(「西山夘三による中華人民共和国との交流活動」市川紘司, 日本建築学会計画系論文集 第88巻 第805号, 1103-1112, 2023年3月)。
最終的に、2024年の現在、NPO法人が管理していた資料1万2800点が、府立京都学・歴彩館に寄贈された。ここは永く資料を保存できる施設であり、今日このシンポジウムを開くに至れたのは素晴らしい。
広原は京都府立大の学長になったが、師匠の西山はそのすぐ東に住んでいたので、生前はよく呼び出されていた。こうして近所の歴細館に西山の資料を保管できたことは縁があることだし、この縁は死んでも続いていくだろう、と笑っていらした。本当にそうだと思う。