吉田南に存在した新旧の自由寮
↑西山夘三 あゝ楼台の花に酔う p. 73 代返を頼む寮生たち
この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の35日目の記事です。
旧制三高時代、自由寮という学生寮が存在した。熊野寮の設計担当である建築学科西山研の西山さんが三高時代に描かれたイラストを中心に、当時の生活をのぞいてみよう。西山さんは建築の道に進まれたが、元々漫画家志望であり、在学中からたくさんのイラストを描き貯めてきた。名誉教授となった1965年、「あゝ楼台の花に酔う」をご出版し、30年越しの夢をかなえた。
・現在の吉田南キャンパスに存在した
・1934年の室戸台風で自由寮(旧)は倒壊した
・1948年の火災で自由寮(新)は焼失した
自由寮誕生
結論から言うと、自由寮(旧)がいつできたかはっきりわからなかった。すいません。旧制第三高等学校の開設は1897年なので、吉田南にあった自由寮(旧)の開設もこの頃と推察される。京都帝国大学寄宿舎誌に記載の建物は、自由寮(旧)とほぼ同じ敷地にあるが、明らかに外観が自由寮(旧)と異なる。もっと瀟洒だ。
当時は、近衛通りに面した敷地は医科大学だったらしい。
写真集「京大吉田寮」の吉田寮小史と京都大学新聞を確認しよう。
なんだかややこしいが、元々あった瀟洒な建物は京都帝国大学寄宿舎であり、1913年に吉田寮現棟の建設に再利用された。1898年に完成した「三高の新しい校舎と寄宿舎」が、おそらく自由寮(旧)を指すのでないかと思われる。たぶん。
旧制三高への入学
いろんな方の受験から入学までのエピソードを見てみよう。当時の熊野神社周辺の様子が細かに記載されていた。
熊野神社の西、京大病院の南の聖護院川原町から東丸太町のあたりは、いわれてみれば今も宿屋が多い。入学して最初は延見式といわれる校長先生との面談がある。
のちに、滝川事件で映画のモデルにもなる方だ。鐘紡は熊野寮敷地にあった上京工場だけでなく、高野のあたりに大きな京都工場があった。滝川さんは父親を早くに亡くされており、叔父の定次さんに育てられた。
延見式は西山さんも受けられた。
旧制高校の一年生はだいたい17歳、今でいう高2にあたる。そう考えると可愛いもんかもしれない。自由寮に宿泊して最初の夜は手荒い「歓迎」が待っている。
裸で水をかけたり大声で歌ったりして、眠っている新入生をたたき起こすのだ。ストームとは、旧制高校にあったバンカラな風習であるお祭り騒ぎを意味する。
私が現役のころは、ストームとは特に吉田寮と熊野寮でお互い放送室のマイクをかけて騎馬戦のように闘うイベントを指した。お互い雨合羽と傘で防御しつつバリケードを破り、「この寮は占拠した!」みたいなことを放送で叫ぶか、守りきったら勝ちだ。そのあとは合同で飲み会をする。直接参加しなかったが、すぐ横で吉田寮のシャワーを借りたのを覚えている。ストーム直後は、投げられたであろう生卵やらで玄関が生臭かった。今でも寮の臭いといえばホコリとこのにおいが脳裏に焼き付いている。噂では機動隊との闘いの練習ともされていたが、それは後付けで単に騒ぎたいだけじゃないかな。この風習は杉本恭子さんの京大的文化辞典 p. 180 にも記載されている。
そういえば、二回生のときは新入生に向けて新歓(新入生歓迎)コンパの準備をした時の写真があった。
ひたすら肉を焼いてビールを飲んでたなあ。
自由寮(旧)での生活
大阪西九条ご出身の西山さんは、三高入学を機に実家を出て寮に入る。
西山さんの「住み方の記」にはこうある。
正式名称でないから、資料に残ってなくて設立の経緯がわかりにくいのかもしれない。
西山さんがご卒業されたのは1930年なので、この著作が出版された1965年と35年の隔たりがある。ご本人は自信がないと記載されているが、物凄い記憶力だ。
西山さんの入居された中一は、中寮のもっとも東の二階だ。
部屋の構造も記載されている。
部屋によってレイアウトも異なったようだ。
勉強部屋と寝室を分けるスタイルは今は無き東大駒場寮と近く、東京女子高等師範学校、東京商科大学専門部、東京帝大農学部の各寄宿舎も同様だったようだ。それぞれ、お茶の水、一ツ橋、東大農学部の前身である。勉強部屋の様子もイラストに残されている。
三高同窓会のサイトに、当時の寮の雰囲気を示す文章が多く残されている。この方は1926(大正15)年三高入学の方だ。西山さんは1927年ご入学なので一つ上だ。二階中寮十番だったので中寮一番で東端の西山さんとちょうど反対となる西端の部屋に同時代にいたらしい。
今の寮とよく似ており、特に上下のないタメ口文化は吉田寮に生きている。というか、この自由寮(旧)の時代にはすでに吉田寮の前身である京都帝国大学寄宿舎は存在していたので、ひょっとすると吉田寮のほうが先かもしれない。夜もにぎやかそうだ。
しれっと中寮東端二階の西山さんの部屋から「寮雨」が垂れている。「寒い夜中に寮棟の外にある便所まで出向くのが面倒だからというモノグサさが原因だが、小用などいたるところで処理してよかった農村的環境に住んでいる昔の日本人にとっては、あまり罪悪感はなかった。ただ少々の不潔、不快が伴うので、すべての人間が必ずしもいいことと思っていたわけではない(新住宅 : brains & works for urban life 23(251)(4) 出版者:新住宅社 出版年月日: 1968-04 p. 90)」。この雨がコソ泥に当たって成敗したエピソードも「あゝ楼台の花に酔う」にある。本当かしら。
風呂もしっかりあった。
由来は割愛する。多分、イラスト手前の人だ。
京都の街へ
自由寮の外、大正期の京都の様子も残されている。
今では東大路は南北の大通りだが、当時は商店街のある狭い道だったようだ。立命館の近代京都オーバレイマップから1912(大正元)年の百万遍以南の東大路の様子を見てみよう。
夷川ダムとなる琵琶湖疏水が工事中だ。「大学病院」という文字の南側に郵便局と熊野神社がある。確かに細い道だ。市電が走っていた大きな道路は、後に市バスの路線番号200番台が多いと現役寮生に教えてもらった。
西山さんが琵琶湖疏水にかかる田辺橋を南へ歩く様子。向こうに見えるのは東大路の市電か。
荒神橋周辺のイラストもある。
川の向こう右側に見えるのは、現存する京都織物本社の建物だ。後に東南アジア地域研究研究所図書室となる。
現在は新しい建物に隠れて見えないが、京都織物本社建物はその裏手に存在する。当時の京都は紡績工場が多く、薬学部の敷地全体が京都織物の工場だった。宿舎はのちに吉田西寮として活用される。
改めて西山さんの記憶力に驚かされる。
今に続く部活動
山岳部は「水上部があって山岳部がないとは怪しからぬ、と駄々をこねて」今西錦司が発足させた(今西錦司 三高八十年回顧 著:大浦八郎 出版者:関書院 出版年月日:1950 p. 289)。
三高エスペラント会の発足もこの頃だ(八木日出雄 三高八十年回顧 著:大浦八郎 出版者:関書院 出版年月日:1950 p. 253)し、西山さんのご所属されている水上部がつかっていた1912(大正元)年築の三高艇庫は現存する。
出身作家
この頃、織田作之助という、のちに作家になる男も自由寮(旧)に住まれていた。1931年入学だ。青空文庫で読める彼の自伝的小説「髪」にはこうある。
寮の自治委員会は学校の手先で学生にとってはスパイだ、と考えている。
満州事変直後、つまり1931年には長い髪の毛を丸坊主にされるのが嫌で退寮し、下宿したとある。
三高生でござい、なプライドの高い態度がお嫌いらしい。西山さん、イラストではいつも制服制帽でしたね。同時代に自由寮に所属されていた別の方からの視点もある。
織田さんは当時の三高で目立った存在だったらしい。
実際、長髪だったようだ。
クラスメイトがバーで織田さんの悪口を言った相手が、織田さんの彼女だったらしい。しかも美人。
学校にはめったに来ないし秀才を軽蔑していたとあるが、紀念祭では舞台の演出監督をされている。三高を結構楽しんでいたんじゃないかしら。他の文献では、自由寮に丸坊主という規則があったか見当たらず定かでない。西山さんのイラストだと、確かに坊主も多い気がする。この頃の恒例行事である、松茸狩りの写真を見てみよう。
みんな丸坊主って感じではなさそう。ただ、この「寄宿舎生」が自由寮生でなく吉田寮生を示している可能性はある。この自由な雰囲気の寮で丸坊主が規則だったか気になる。はたまた、目立っていた織田さんがバンカラな自治委員に目をつけられていたからか、本当のことはわからない。時代背景も含めいずれ調査してみたい。
楽しい食事
色々な側面から、私が在寮時の熊野寮と比較してみよう。自由寮食堂での食事に関しても、西山さんは詳細に記録されている。外の食事より安く、量が多めという点は熊野寮食堂と似ている。
熊野寮五十周年記念誌にあった栄養士さん長谷川さんのインタビューで、就任してまず最初に食器を寒々しいステンレスから温かみのあるものに変えたとある。食器も食欲に影響するのだろう。
自由寮の食堂では
という風に箸箱で食事が管理された。熊野寮では食券であった。
自由寮の食堂メニューはどんな感じだったのだろう。
みそ汁は赤白交互だったようだ。昼食の光景は熊野寮とよく似ている。だいたい、ブロックと呼ばれる、部屋が近い構成単位ごとに並んで食べた。献立の作成は炊事委員の役割だったようだ。
メニューも学生で決めていたらしい。名称が少し異なるが、熊野寮にも炊事部は存在したし、今もあるはずだ。食堂利用率向上のため、栄養士の長谷川さんと協力していた。
自由寮の話に戻ろう。朝食の様子も書かれている。
朝寝坊が多くて朝食を食べる人が少ない点も熊野寮とよく似ている。さらには、
「朝食の汁の実をゴッソリいただいている生徒の図」もある。先輩、80年後でも熊野寮で似たことしてました。三高同窓会のサイトにもほぼ同じ記載がある。
この「飯と朝寝と板挟み」のデカンショ(旧制高校のバンカラな歌)、今でも十分通じるんじゃないか。
賄征伐
ただ、熊野寮と大きく違う風習がある。「賄征伐」と呼ばれるものだ。
「まかなーいッ!」と飯を呼ばわる様子に主人公(ほぼ西山さん)が驚いている。こんな歌も残っている。
寮の食事への不満を、食事中に歌にのせたり、おひつを空にするまで食べまくることで表現したらしい。昔の熊野寮では豚肉のピカタが噛んでも切れないくらい固かったです、先輩。
このバンカラな風習は旧制高校全体に見られたらしく、wikipediaにも賄征伐の記事がある。
机をひっくり返したり茶碗や皿などを投げ付けたりやりたい放題だ。しかし、沢山食べる分には、むしろ食事に満足しているのでは?意味なくテンション上がっちゃっただけなのではないだろうか。旧制三高自由寮の場合、メニューの決定は炊事部員ら学生が行っていたのでまだ許されそうだが、栄養士さんが管理している現代の熊野寮の食堂でこれをやったら、普通に退寮処分もありうるんじゃないか。
熊野寮五十周年記念誌における栄養士長谷川さんへのインタビューでは、「昔は食事に文句を言ってくる学生が多かったが、今は黙って残す学生が多い。文句があるなら直接対話に来なさい」といった大意のことが書かれていた。私はほぼ残したことないですよ。
バンカラ気質
全寮生集まっての全寮コンパという言葉は、1930年頃にはすでに用いられていた。
資料によっては「コムパ」と表記されていた。これは今でも熊野寮で行われている、寮祭一大イベントである。他の寮でもこの言葉を使うんじゃないかな。私のように普段あまり積極的にイベントに関わっていない寮生でも、この日ばかりはどんぶり、コップ、箸のいわゆる三点セットを持って食堂で飲み明かした。
長机を移動させて畳を敷いた食堂で、白菜と人参と鶏肉とうどんからなる大鍋を皆で囲むのだ。「寮」の字は画数が多くて面倒なので、ウ冠にRと書いた略字を多用していた。色んなイベントが全寮コンパと同時開催される。
自由寮における全寮コンパでは、各地方出身者による民謡を歌うジンジロゲ祭りやお宮と貫一の劇が行われた。
一高(今の東大)とのスポーツ合戦が激しく、柏の葉ぶっとばせが合言葉だった。毎年5月1日には紀念祭という祭りがあった。
左奥に見える四角い建物は吉田旧物理教室の棟だろう。紀念祭ではグラウンドに売店がでて、仮装行列で街を練り歩き、地震のように裸の男たちが練り歩く。
三高生は祭りを通して京都の街に溶け込んでいたようだ。仮装していない普段の服装は学生服らしい。
伝統の散歩コースもあった。夕食後、そろって寮歌を歌いながら四条まで行き、新京極の「正宗ホール」で一杯やり、丸山から平安神宮を通って帰ってくる約7kmの「レギュラーコース」と言われる道のりだ。
1930年のご卒業まで、京都での三高生活を大いに楽しんだようだ。「住み方の記」曰く、西山さんはこの後、大学合格と同時にそれまで猶予されていた徴兵検査をうけ、1934年に大阪の歩兵第八連隊へ入営することになる。3年後、日中戦争が開戦する。
三高ストライキ
1930(昭和5)年には三高ストライキがあった。寮生が中心となり、寮に籠城して闘った。
だが、ストライキの責任者とみなされた学生は放校処分にあった。処分取り消しを学生たちが懇願したが聞き入れてもらえなかった。当の学生は三高卒業の検定試験をパスし、後に弁護士として活躍された。このことは三高私説 同窓会報 25 寮(北五)の想い出 山崎 李治(1964)に記されている。
室戸台風による倒壊
1934(昭和9)年、関西一円を台風が襲う。
初代クスノキの倒壊もこの台風によるものだ。自由寮はこの台風のため倒壊する。
倒壊しかけた自由寮(旧)に一か月住み続け、最後は学生らが壁に穴を貫通させたことは以前述べた。寮生たちは、吉田山のふもとに分宿させられることになり、寮を立ち退いたとある(三高私説 同窓会報 64 自由寮素描 藤安 義勝(1986))。
新築された自由寮
今でいう左京区の吉田キャンパスに新旧の自由寮は存在した。自由寮(旧)の取り壊し前と自由寮(新)の新築後の資料があった。それぞれの建物の位置を、西山夘三さん作住み方の記、京都大学大学文書館企画展「敗戦から廃校まで」、国土地理院の戦後の航空写真の三つを比較して確認してみよう。
まず、地図左側に描かれた南北の通りである東山通りに面する、今でいう吉田南グラウンドのすぐ南が自由寮(旧)だ。北中南の三棟が確認できる。つぎに、その南東すぐにある、これまた3つの棟からなる建物が自由寮(新)だ。そして、最も南にある東西の通り、近衛通りの北側中央に吉田寮が確認できる。これも北中南の三棟からなる。その南西には近衛通りに面する学友会館もある。西山さんは後年こう述懐されている。
1965年建築の熊野寮も南側からABCの三棟からなるし、東大駒場寮も北寮、中寮、明寮の三棟からなる。学生寮と言えばこの構造だったのだろうか。住んではいらっしゃらないが、自由寮(新)の構造も西山さんは記録されている。
食堂、浴室、病室、集会所も存在していた。航空写真で白い煙突が見える建物は食堂付近のようだ。集会所は航空写真から確認できないので、後から増築したのかもしれない。
1935(昭和10)年11月に自由寮(新)の落成式が行われている。
西側から撮影されたとみられる自由寮(新)。
大きな煙突が確認できる。左のほうにある山は大文字だろうか。集合写真にあるように、玄関の形状が旧と異なり、俯瞰図でいう所の凸状でなく平坦だ。
自由寮(新)の焼失
自由を謳歌していた自由寮(新)だが、1948年に焼失する。このとき、炊事部員が一名亡くなっている。
このことは京都大学大学文書館の資料にもある。
当時の京都新聞の記事を拡大すると、「これまで度々寮では漏電さわぎがあった」とある。いっぽう、西山さんの住み方の記 p. 47 には「四十八年の一月、電熱器の過熱が原因とかで、炊事委員一名の犠牲を出して焼けてしまった。」とある。山岸さんの三高八十年史の記載では「火が出たのは、昔病室だったとかで、外側に、数々の呪いの象徴の如く、厳めしい鉄格子の嵌められていた、中寮の一番東側の部屋からだった」とある。新しい資料では原因ははっきりしていないようだった。
京都大学七十年史には、三高と京大の合同による新制京都大学発足の議論のさなかにあった火災だったとある。
当時、東一条の南側が三高で北が京都大学だった。新制となる際に両者は合同した。第三高等中学校解散記念碑は吉田キャンパスに現存している。
進駐軍接収の学友会館
また、消火活動において「進駐軍大いに活躍、三高火事は進駐軍京都下士官クラブに近接していたので、第一軍体司令部附中隊から(後略)」と当時の京都新聞の記事にある。この下士官クラブとは近衛通りに面する学友会館のことだ。京都大学新聞にこんな記事があった。
近衛通りに面する学友会館は1945年から進駐軍により接収され、1952年に返還された。音楽やストリップに迷惑した舎生とは、おそらく一番近い吉田寮ではないだろうか。試験前にブチ切れて返還要求している。
火災後も、煙突は1961年頃まで存在していた。
現在の吉田南構内マップと見比べると、吉田南総合図書館や吉田南2号館の付近だ。
吉田寮の防火意識
私が熊野寮に在寮中の話になる。2008年頃に吉田寮の先輩の部屋にお誘い頂き、複数の友達と飲み会に行ったことがある。理学部に在籍するその先輩は、物腰が柔らかでメガネで色白で細身で、いつもチェックシャツだった。「さすがボロい建物っすね~」などど軽口を言いつつ、和やかに飲み会をしていた。最中、防火サイレンが突然けたたましく鳴った。さっきまで談笑していた理学部の先輩は、予備動作もなく消火器をもって速攻で火元と思しき場所に走り出た。他の吉田寮生も同様、一糸乱れぬ動きで消火体制に入った。困惑する我々寮外生をよそに、先輩は消火器片手に戻ってきて「サンマの煙かなんか誤作動だったみたいだわ、じゃあ飲み直そうか」と、事も無げに言い放ち、飲み会が再開された。度肝を抜かれた。自分も熊野寮に住んでいたくせに、「こ、これが自治寮・・・!」と驚いた。
過去、吉田寮の中寮において火災があり、こうした積み重ねが意識を高めたのだろう。ひょっとしたら、自由寮の焼失事件も、防災意識の向上に一役買った出来事の一つかもしれない。
自治の一高、自由の三高
一高(現在の東大)の自治に対し、三高(現在の京大)は自由を掲げていた。三高回顧にこうある。
自治に対する自由とはなんだろう。
本当に何度も繰り返されてきたし、今後も繰り返すと思う。最近X(ツイッター)で話題になった「オレの授業なら授業中に教室で鍋やっていいよ」と言い続けて実現した話は、大阪市立大での増田聡さんのエピソード。
「言われてやるのが自由か?」「まず常識を取っ払う必要がある」「楽しそう」などちょっとした議論を呼んだ。再び、三高回顧に戻ろう。自治と自由とは何ぞやと書かれている。
西山先生も自治と自由について記載されている。
いいことをおっしゃっている。とはいえ、自由寮では密入寮者をモグリとよび、学生補導の担当教官がときどき抜き打ちで入って名前と所属を確認されたと「あゝ楼台の花に酔う」には記載がある。管理と自由のバランスが成り立っていたことが伺い知れた。
当時の西山さんによるスケッチ。
まとめ
西山さんの過ごされた旧制三高自由寮(旧)での生活についてまとめた。バンカラな気風と京都の街を楽しんでいる様子がうかがえた。自由寮(旧)の最後は室戸台風で倒壊したが、寮生はたくましかった。自由寮(新)は火災による焼失という悲しいことがあった。全寮コンパなどの祭りだけでなく、防火意識といった生活に大切な習慣も現代に根付いていると感じられる。
補足
断りがない限り、便宜的に室戸台風で崩壊したほうを「自由寮(旧)」火災で消失したほうを「自由寮(新)」と記載した。おそらく正式な表記ではない。