熊野寮と鴨東地域の交わり
↑2012年8月4日、18:32の鴨川
この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の31日目の記事です。
熊野寮ができる前は同じ敷地に何があったのか?平安時代からさかのぼってみよう。
白河北殿
1118~1129年 保元の乱で焼失。謎の石碑が寮構内北西部にあることは以前の記事に書いた。
平清盛達による白河北殿焼き討ち後は、崇徳上皇を祀る千体阿弥陀堂が1159年に建立された。2024年現在はヤギが闊歩し、道行く人達の二度見を誘っている。歴史上もっとも石碑に注目が集まっている気がする。崇徳上皇や藤原頼長も草葉の陰で喜んでいらっしゃるかもしれない。前述したように、1787年ごろには藤原頼長の墓(というか塚)があったと拾遺都名所図会には記載されている。
畑
日文研のサイトには中世から幕末に至るまで京都の古地図が複数ある。熊野寮を含める鴨東地区を眺めてみたが、聖護院から鴨川の付近は幕末に近いころまで何もなかった。小さく熊野社(熊野神社)が書かれているがほぼ畑だった。1778年の京圖名所鑑でも畑、畑、聖護院の森、畑、畑…。
1812年の京都指掌圖 : 文化改正には熊野権現(熊野神社)と二条新地の名が地図にある。1826年に中島棕隠らによって描かれた「鴨東四時雜詞」に安政ごろの鴨東が描かれており、京都大学貴重資料デジタルアーカイブで見れる。この付近で料亭銅駄余霞楼(どうだよかろう)を営んでいた人だ。
大の字と鴨川が見えると安心する。しかし、左側の「壇王」、今の三条にある檀王法林寺より北側は何も描かれていない。藤原頼長を祀る桜塚も川から離れるように東側に移設されたらしいので、中世から近世は鴨川の氾濫が激しい地域だったのかもしれない。そう考えて、こんな資料も見てみた。京大防災研の京都水害歴史(1)中島では歴史文献から、平安遷都から現代まで50年ごとの鴨川の大雨・洪水の頻度を調査している。
1400年代は高頻度に洪水が発生し、1800年代後半は減少傾向にある。原因として、100年単位での地球規模の温度変動を挙げており、寒い時代ほど洪水頻度が高いという相関を指摘している。1800年代後半までは小氷期と言われる寒い時代だったが、それが終わり温暖になり始めた江戸中期から幕末頃から、鴨川の洪水は減り、鴨東地域も二条新地や聖護院村などの開発が進んだのかもしれない。
熊野神社西門前
幕末頃は栄えている。立命館近代京都オーバレイマップを見る限り、大正時代に入って丸太町通りが整備されるまで、熊野寮の前の丸太町通りは、熊野神社の参道だった。
1862年頃に聖護院村に住んでいた富岡鉄斎によって、鴨川~熊野神社周辺が聖護院村略図として記録されている(「史料京都の歴史 第8巻 (左京区)」 著者:京都市 出版者:平凡社 出版年月日:1985.11)。
このころは、熊野神社が現在よりも南東側、東大路丸太町交差点にあった(京都大学新聞2023.5.16)。画家や文筆家など、多くの文化人が住んでいたことがわかる。今の寮と重なる敷地に住んでいたのは、歌人高畠式部と画家中島華陽だ。富岡鉄斎は中島華陽の娘である達(たつ)と結婚する。今のグラウンド周辺が南梅林茶店、B棟とC棟の間は桜塚だったようだ。また、丸太町通り鴨川ぞいの西側には漢詩人の梁川星巌の住まいが、その対岸東側には歴史家である頼山陽の住まい山紫水明処があった。
1897年、京大を誘致し西園寺家の土地も提供した、当時の文部大臣西園寺公望が若いころに開いた私塾に富岡鉄斎も塾長として参加している。この私塾は後の立命館となる(立命館史資料センター)。
橋のすぐ東の鳥居が熊野神社に向かう道だったと思われる。
第一絹糸紡績会社
1888年、第一絹糸紡績会社が今の熊野寮敷地に誕生する。
この頃は区分が左京区ではなく上京区だった。疏水記念館のデジタルアーカイブには工事の様子が絵で残されている。
工事はもっこやトロッコなどを使った手作業だったようだ。「左奥には第一絹糸紡績会社の工場が既に建っています。」とサイトにはある。こちらの俯瞰図からも見える。
東竹屋町で開発されたわけでないが、蚕繭の繭糸を洗う工業用薬剤開発者の一人がここの工場長だった。
現在も続く第一工業製薬公式サイトの沿革の最も最初の項は、1909年の蚕繭解舒液販売だ。上京区の法輪寺にはゆかりの達磨が納められている。
京都工芸繊維大学の始祖である京都蚕業講習所の創設も1899(明治32)年であり、この頃だ。発祥の地の石碑が北区大将軍にある。
絹糸紡績株式会社
1902(明治35)年、第一絹糸は絹糸紡績会社となる。
国立国会図書利用者サービス部設営のサイト「写真の中の明治・大正」にも工場の写真がある。
丸太町通りから琵琶湖疏水の夷川ダムまで工場の建屋となっている。以前の記事にも記載したが、保元の乱で負けた藤原頼長を祀った塚の、工場拡張に伴う相国寺への移転が1907年なのでこの頃だ。副碑には絹糸紡績と刻まれている。
鐘淵紡績上京工場
絹糸紡績株式会社は、1911(明治44)年に鐘淵紡績に合併される。
The社史というサイト曰く、1933年には鐘淵紡績が日本企業で売上高1位となる。今でいうトヨタのような会社だったのだ。鐘淵紡績は後の化粧品会社カネボウであり、2007年にクラシエに社名変更する。鐘紡百年史の年表にも上京工場の存在が確認できる。
1911(明治44)年3月に絹糸紡績買収とあり、1942(昭和17)年3月閉鎖とある。( 同 p. 93 , p. 369 )。また、1944(昭和19)年には、上京工場より大きい京都工場も航空機に転換とある。
2000年にまとめられた経済学の博士論文を引用しよう。
左から、土地(坪)建物(坪)紡機(錘)織機(台)従業員(人) 生産品目
鐘紡の中では上京工場は小さ目の規模だったようだ。スパンレーヨン・人造生糸が生産品目にある。西京区の日文研には、早大教授間さんが寄贈した間文庫がある。その「特殊文献」という項目には当時の鐘淵紡績上京工場の就業案内などが眠っている。桂キャンパスから少し西にあるので、工学部の学生さん、お時間があったらぜひ見つけてみて欲しい。当時の写真など見つかるかも。
日本国際航空工業
太平洋戦争中の1942(昭和17)年12月、鐘紡上京工場は飛行機の部品工場に借用され、2年後の1944(昭和19)年1月に買収される(社史を記載したブログ大日本者神國也より引用)。紡績のイメージが強い鐘紡だが、直系子会社で飛行機の部品工場を経営している。文献にはこうある。
1942年、鐘淵紡績株式会社上京工場は敷地5,411坪、建屋5,111坪とある。1937年は土地9,558坪とあるので、この頃に区画整理があったと考えられる。東西を貫く竹屋町通りの上下に分割分譲されたのかもしれない。社史に当時の上京工場正門の写真があった。
社史によると、メインの京都工場より上京工場は扱いが小さい。
一日の流れ、休日の過ごし方、日記や親からの手紙なども記載されている。戦時中の軍需工場であり、メインの京都工場では寄宿舎も備え、当時は工場と学校を兼ねた施設だったようだ。
1953(昭和28)年の地図でも鐘淵上京工場が二重線で消され、新日国京都工場とされている。
1943(昭和18)年4月7日、京都市勧業館(現在のみやこめっせ)を京都市より借用し、機体と部品製造の上京工場を設置、従来の京都工場上京分工場は上京工場の分工場として移管されたとある。国土地理院から、終戦直後の1946年での米軍撮影の航空写真を見てみよう。
琵琶湖疏水の夷川ダム北部に、建屋がみっちり並んでいる。また、現在ではみやこめっせのある場所も、確かに建屋が並んでおり、これも日本国際航空工業とみられる。
1977年の京都大学農学部構内遺跡調査会の報告にも、熊野寮の敷地にあったことが確認できる。
熊野寮のご近所の方が寮祭パンフレットに寄稿された文章に、興味深い記述がある。
ニッコク!1969年のころに寮の東側のスペースはニッコクと呼ばれていたらしい。店主さん、ありがとう。その飛行機工場、実在してましたよ。
その後、ブログ曰く1949(昭和24)年4月1日、新日国工業株式会社を設立し事業を継承。ウトロ地区平和祈念館の年表にも記載されている会社だ。
京大教育学部熊野校舎
熊野寮の完成する一つ前の時期、1956年から1965年までの9年間は教育学部校舎だった。
毎年教育学部から発行される京都大学教育学部紀要(二号まで教育紀要)の奥付からも確認しよう。教育学部の所在地は、1956年3月30日の第二号では左京区吉田本町とあるが、1957年3月30日の第三号では左京区熊野とある。やはりこの年に引っ越し終わったようだ。編集後記に引っ越しに関する記載がないか探ったが、なかった。以前の記事でも引用したが、京大文学館には当時の写真が残っている。
大学百年史にも「旧鐘紡上京工場跡地」と記載されている。
1965年以降、教育学部は吉田キャンパスに移転する。
京大熊野寮
1965年4月、団体交渉の結果、熊野寮が開設される。村上さんの記事にある「結果として、京都新聞の一面に『不夜城京大熊野寮。連夜の大宴会。近隣住民、大迷惑。』の活字が踊ることになった」というお話が本当か、京都府立図書館に問い合わせたが「昭和40年4月1日から4月10日の京都新聞マイクロフィルムについて、1面を含めて全面通覧し、併せて、5月31日までの1面を通覧しましたが、該当する記事を確認することはできませんでした」とのことだった。う~ん、何かのご記憶違いなのかしら。府立図書館さん、ご調査いただきありがとうございました。自身でも国会図書館で探してみたが見当たらなかった。当時多かったベトナム北爆のニュースを押しのけて一面に載せるかな?
まとめ
平安時代から幕末、明治大正昭和に至るまで、現在は熊野寮のある敷地の歴史を調べた。グラウンドは近隣のお子さんからニッコクと呼ばれており、同敷地にあった日本国際航空工業のことだった。この時代まで名前が残っていたとは驚きだった。
白河北殿 1118~1129年
畑 中世~近世
熊野神社西門前 幕末頃
第一絹糸紡績会社 1888年~
絹糸紡績株式会社 1902年~
鐘淵紡績上京工場 1911年~
日本国際航空工業 1942年~
京大教育学部熊野校舎 1956年~
京大熊野寮 1965年~
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