鴨川の飛び石は夷川橋の跡
↑2009年4月5日13:27 鴨川デルタ付近の飛び石
鴨川は複数個所に飛び石があり、丸太橋大橋と二条大橋の間に、高瀬舟を模したような飛び石もその一つだ。
これは昔あった橋の跡らしい。
・鴨川には夷川橋と呼ばれる橋が夷川通りあった
・昭和10年の洪水で流されて現在は飛び石
・夷川通りは冷泉通りより歴史が古い
・夷川は疏水の施設の名称にもなっている。よって、疏水の名前が「夷川」なのではない。
昔あった夷川橋
京都府土木課の方が日々の鴨川の様子や歴史を振り返るサイト「鴨川真発見記」には飛び石の立地が記載されている。
飛び石の機能も記載されている。
ここには昔、夷川橋という橋が架かっていた。wikipedia曰く、夷川通りは鴨川東地域にも伸びており、鴨川に橋があったと記載されている。
確かに、当時の地図にも橋がある。
いつからあり、いつなくなったのか調べてみよう。
いつからあるのか
大正天皇即位記念の頃に書かれた京都坊目誌には、鴨川西側に住んでいた京極宮家により、安政(1855 – 1860年)頃に架設されたとある。
京都府百年史には1910(明治43)年に架け替えたとある。
長さ66間は約100mに相当する。現代の荒神橋、丸太町橋、二条大橋の橋長はそれぞれ80m、92m、85mである。幅2間は3.6mくらいなので、細長い橋だったようだ。大学文書館の聞き取り記録にも、この東岸で生まれた先生のお話が残っていた。
金子さんは大学文書館の教授検索システム曰く1870(明治3)年11月23日のお生まれで、1891(明治24)年に京都第三高等中学校を卒業された。1910(明治43)年の架け替え前後の両方の橋をご覧になったと思われる。
いつまであったのか
1935(昭和10)年に京都を襲った大洪水で流された。時計台前の初代クスノキをなぎ倒した室戸台風が前年の1934(昭和9)年に襲来しており、上流の樹木類が流されていた影響で洪水が生じた。
五条大橋に至っては、淀川から瀬戸内海を超え、淡路島まで擬宝珠が流れている。土木系の雑誌にも、7時15分に完全流出とある。
ポジティブな博士だ。これ以降、夷川橋は鴨川にかけ直されることなく今に至る。
橋のない川
昭和9年の室戸台風と昭和10年の水害は京都に都市設計に大きな影響を与えた。
おそらく地元の小中学生はとっくに習っていると思うが、こんなに大きな被害があったのは恥ずかしながら知らなかった。そもそも、京都は平安の昔からこの暴れ川と治水で闘い、共存してきた歴史がある。
平安頃まではもっと浅く広い川だったし、今でいう河原町通りは文字通り河原だったのだ。
つまり、自然のままに放っておくと土砂が堆積して浅く広くなってしまう。実際、京極宮家によって木橋が架設された頃である1868年の古地図をみると、鴨川には大きな中洲が存在する。夷川橋も二条橋も、その左右に分かれて架橋されていたようだ。
浅くて広いと架橋が大変だ。交通のためには川を深く掘って橋長を短くする工夫が必要になる。
唐突に高三の頃の話になるが、2007年2月の2次試験最終日の帰り、ヘトヘトで乗ったMKタクシーで京都駅に向かった。途中、川端通を南に向かい、右手に見える鴨川を見てふと「川べりのギリギリまで建物あるんですね」と運転手さんにつぶやいた記憶がある。地元の川は左右に堤防があり、中洲や河川敷は人が立ち入るような雰囲気ではなかったので、ところ変われば川も違うんだな、と疲れた脳みそで気づいた。後に、鴨川をどりなどのイベントや、カップルが並んでたり川床などで使われていることを知ったが、この時は京都のことを何も知らず「大人しい川なんですね」とか言っていた気がする。
実際は、鴨川の川べりが公園のように公共の場として使えるようになるまで、川底を掘る浚渫工事などで歴史を重ねて調整されてきた。そういえば、在学中に友人に「鴨川の景色は庭のように人手をかけて作られている」と教えてもらった。調べてみると本当だった。川に重機が頻繁に入ってるな〜とは思っていたが。
夷川通りは鴨川東側にも
夷川通りの歴史についても記載する。夷川通りは江戸時代からある。1864年の禁門の変以降、幕末は家具屋さんが並んでいた通りらしい。堀川通りから伸びる東西の通りだ。二条城のすぐ西側、堀川通りも夷川橋と呼ばれる橋がある。今回対象にしている夷川橋は堀川でなく、鴨川にかかっていたほうだ。
明治期は、鴨川西岸に京大の祖となる組織の一つ、舎密局があった。
先ほど引用した八木さんのお話には続きがあり、昭和二十年の終戦時に戦争から京都の実家に戻ると、その家はなくなり看板だけがあった。
彼の父親が掲げたその看板には、川端夷川上ルに疎開したでことが記載されており、このあと無事に再開を果たす。
現在の通りの名前を確認しよう。京都市認定路線図提供システムを見ると、夷川通ー1は冷泉通と並行して旧二条新地を貫く東西の細い通りで、西端の熊野道から東端の川端通まで続く。
いったん鴨川で途切れるが、西側は夷川通(2)と記載された通りと同じ筋にある。その間にあるのが、冒頭記載した夷川橋跡の飛び石だ。
現代のgoogleストリートビューでも、ここが夷川通りであることが確認できる仁丹の琺瑯看板を見つけた。
この看板は明治から昭和初期まであちこちにかけらたものらしい。また、広報板にも夷川通りの名前が確認できる。
以上から、鴨川東側の通りも「夷川通り」であったことが確認できた。
冷泉通りと夷川通りの関係
ずっと勘違いしていたことがある。蹴上インクラインから西に向かい、鴨川にそそぐ琵琶湖疏水が「夷川」だと思っていた。夷川ダム(旧名夷川舟溜、もしくは鴨東舟溜)や夷川発電所という名前、よく考えたら冷泉ダムや冷泉発電所と名付けられていてもいい気がする。疏水のすぐ南の通りが冷泉通なのだから、その方が自然だ。
疏水の南側に並走している冷泉通りの旧名が、夷川通りとしている文献(少年必読日本文庫 第10編 著者 岸上操 編, 内藤耻叟 校訂 出版者博文館 明治25)やサイトもある。冷泉通りのと夷川通りはどちらも東西の通りなので、冷泉通りの旧名が夷川通りだとしたら、重複時期があることになる。同じ名前の通りが並んでたら混乱が生じるのでは。
1893(明治26)年の資料(電報配達丁程表 巻之1 出版者 逓信省電務局 明26.7 p. 269)には冷泉通りの記載がなく、夷川通り川端は記載があった。岡崎冷泉通の地名が現れるのは、国会図書館デジタルコレクションの一番古いものでも1913(大正2)年だ。歴彩館デジタルアーカイブでも同年大正2年の道路拡築竣工届(東山線三条上る孫橋冷泉通間)の記録が最も古い。よって、冷泉通りという名称が決定した時期は1890年の疏水完成よりあと、大正初期の市電敷設と同時期と類推される。
より詳細は、京都府公示252号を見ればわかるかもしれない。この公示、数多くの路地や地名が網羅されており、ぜひ見たいけどネットに公開されてないのよね。以上から、疏水完成当時は、冷泉通りはまだなく、夷川通りのほうが近くを並行していた通りだったので、「夷川ダム」や「夷川発電所」という名前になったと考えられる。
まとめ
鴨川には夷川橋と呼ばれる橋が夷川通りにあり、昭和10年の洪水で流された。現在、その夷川橋の跡地は飛び石となっている。鴨川は大昔から暴れ川であり、長年かけて治水されてきた。また、夷川通りは冷泉通りより歴史が古く、疏水の施設の名称にもなっている。よって、疏水の名前が「夷川」なのではない。
鴨川は吉田寮祭の鴨川レースや熊野寮祭のイカダレースなどで使われ、京都の住民にとって大事な公共空間として機能している。こうした利用を可能にする、先人たちの苦労に感謝したい。
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