北西角にある謎石碑
↑2008年4月6日13:15の疏水の桜
この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の27日目の記事です。
熊野寮構内でもっとも古いものは何か。おそらく北西角の石碑だ。
・このあたりは崇徳上皇の住まいだった
・保元の乱で平清盛に焼かれた
・大正天皇即位記念に建立された石碑の一つ
・京都は発掘調査が凄い
1939年建立の石碑
石碑の北面は「 此附近 白河北殿跡」(※1)とあり、西面は「昭和十四年三月建之 京都市教育会」と刻まれてる。京都市のサイトでも紹介されているとおり、京都市教育会により1939年3月に建立されたらしい。北に面する丸太町通りと踏水会側の通りからよく見えるが、寮の自転車置き場側からは区民の誇りのクスノキなどがあるので見えにくい。2018年頃の木々の伐採前はもっと鬱蒼としており、すぐ近くを何百回も通ったけど気づかなかった。今でも歴史ファンが時々訪れ、ブログに挙げられてたりする。
白河北殿とは
「しらかわきたどのあと」と読む。元は白河上皇や崇徳上皇が住んでいた(※2)。1156年に起きた保元の乱で平清盛に火をつけられ焼失。ここに立てこもった崇徳上皇は、いっとき大文字山を抜けて如意ヶ嶽に逃げるも、仁和寺に出頭し讃岐へ流され、8年後その地で没す(※3)。その後、なんか都で悪いことが続いたので崇徳上皇を祀り、粟田宮が現在でいう京大病院の敷地に建てられた。白河北殿の炎上後は鳥羽上皇追善のため千体阿弥陀堂が1159年に建立された(都市空間の変遷に関する考察, 濱崎,1994)。保元の乱で上皇政治は終わり、次の平治の乱で源平の闘いが始まる。貴族から侍の時代への転換期だった。
グラウンドと合同庁舎での発掘調査
開寮の1965年から13年後、1978年に遺跡の試掘調査が京都大学埋蔵文化財研究センターにより行われた。
そのときは、北東のグラウンド(昔はフットサルコートと呼ばれてた)を掘っており、弥生土器や瓦や陶器が出土したようだが、白河北殿の直接証拠は見つからなかった。
時代は下って1995年、寮の北西向かいにいおて、消防署の新庁舎建設に合わせた京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われた。2023年現在でいう京都第二地方合同庁舎あたりだ。
白河北殿の庭の池跡が発見され、平安時代の瓦、土器、陶器、磁器も見つかったとのことだ。
江戸時代には耕作地であったことも推定されている。
立ち合い調査からガス水道電気、あらゆる事前協力が成り立たないと困難だったろう。京都の住民の皆様がこういう発掘調査に協力的なのも、大規模に行える理由の一つかもしれない。
熊野職員宿舎跡での発掘調査
大学は構内でいつも何かしら発掘調査があり、寮東側の職員宿舎建て替えの2015年頃も調査があった。このことは俺たちの尾池元総長のブログでも触れられている。
こちらでは白河北殿に関する遺物は発掘されただろうか。あの宿舎、窓から一回すげ~お怒りでらっしゃったおじ様がいらっしゃったなあ。お元気だろうか。
絶妙な表現だが、白河北殿と関連の高そうな遺物が見つかったようだ。
また、この職員宿舎は幕末頃は阿波徳島藩邸の敷地の一部だった。幕末頃の地図に記載されている。
ココでの発掘の様子はザッツ京大のサイトが分かりやすいい。発掘された阿波藩邸の鬼瓦が付属図書館隣の尊攘堂にある。
そういえば現役の頃、西部講堂あたりで発掘バイトしてる友達がいた。結構大変だったようだが、なかなか体験できないレアバイトだ。土の種類の同定によって時代を見極めたり、古い文書や地図と照らし合わせる地道な作業だろう。
建立のいきさつ
1948年出版の京都細見にはこうある。
1915(大正4)年の11月、京都で大正天皇の即位式が行われた。その記念事業として京都市教育会が1916(大正5)年から建てはじめ、1948年以降も建て続けているらしい。
建立時期の謎
ただ、1915(大正4)年から建立が始まったにしては、1939(昭和14)年での建立は時間かかり過ぎでないか。国会図書館で調べると、その年以前から存在を伺わせる記述がいくつか見つかった。後述するが、当時の熊野寮の敷地にあったのは鐘紡上京工場だ。
壊れたか汚れたから新しく作り直したのが1939年だったのかな?我こそは石碑に詳しいって方いらしたらお教えください。
見つけられなかった人
1980年の四国新聞社の歴史本にはこんな記述もあった。讃岐ゆかりの人物の歴をたどりに、四国から京都まで取材に来られた。
1970年頃は見つけられなかったらしい。草木に埋もれてたのだろうか。当時、開寮5年目頃になる熊野寮の住人に尋ねてみたらしい。
と嘆かれている。大変っすね・・。
まとめ
今後の調査で、より直接的な白河北殿の証拠、例えば建物の焼け跡なんかが発見される可能性がある。大学構内で建物建て替えの際に発掘調査が行われるようになったのは1970年頃からなので、1965年に建てられた寮の建物直下はおそらく手付かずのままだ。地下室があるのでどれくらい保全されているか謎だが、棟と棟の間ならまだ何か出てくるかも。
石碑は構内の北西角にあり、文字の刻印が北面と西面にあることから、通行人に見えるように建立されたと推察される。そういえば西側の柵、石碑の周囲だけ視認性がいい。保元の乱はじめ京都に歴史の跡を楽しみに来られた方や、地元の方々へ見えやすいようにという配慮かも。お大事になすってください。
補足
※1「白河北殿址」という記述がより正確だが、できるだけ旧字体は使わない
※2 北殿だけでなく南殿もある。こちらは疏水南側にばっちり由来が掲げられている。が、2023年末には看板が抜け落ちてしまっていた。こちらの北面に「昭和五十一年建立 京都市」とある。割と新しいので、時々建て替えているのかも。
鳥羽上皇が住まれてた頃、花見の御幸で金葉和歌集に和歌を残している。 尋ねつる我をや花も待ちつらむ今ぞさやかに匂ひましける 当時は花見と言えば桜でなく梅だし疏水も当然なかったはずだけど、近い場所が今も花見スポットなのは不思議。
※3 清水克行「喧嘩両成敗の誕生」には、流罪は死罪と「ほぼ」同義、という項がある(p. 95)。流罪、島流しは単なる左遷でなく、中央権力と主従関係の切れたお前をもう守らないよ、郎党に襲われても見殺しにするよ、という意味が強いらしい。実際、島流しの最中か後に殺された例がたくさんある。室町時代に、金閣寺と北野天満宮との間で人死にの出る大乱闘があったが、きっかけは金閣寺の坊さんが立ち小便を笑われた事だったなど、中世日本のハードボイルドさを伝えてくれるエピソードも(p. 12)。当時の京都に点在していた大名の屋形は、最大権力である幕府でも侵犯の及ばない聖域(アジール)であり、今でいう大使館や領事館のように独立した領域だったらしい(p. 52)。柔和で穏やかな日本人像などほんの一面でしかなく、本書で描かれているのは侍だけでなく町民もみんな喧嘩っ早くて激情的で執念深くてプライドが高く、だからこそ各大名の代紋が大事だったアナーキーでヒャッハーな側面だ。この時代背景を知ると、喧嘩両成敗が「自力救済(仇討ち)から裁判へ」大衆を向かわせた点で画期的だったことがわかる(p. 185)。まあ、保元の乱は平安末期だから室町時代と200年くらいあいてるんだけど。崇徳上皇が讃岐の地で暗殺されたのかはよくわからない。
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