尾池和夫元総長と寮のシャワー
↑2007年4月2日、15:14:52 京都の桜
この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の23日目の記事です。現役寮生からは、「このOPおじさん、クリスマスが近づくと毎年寮のシャワーのことばっかり書いてて不気味だよ」と思われるかもしれない。上等である。
熊野寮における風呂とシャワーの歴史をさらに探ろう。資料を漁ってるうちに見つかったいろんなエピソードを、在寮中の思い出とともに振り返ってみたい。当時は気づかなかったことばかりだが、見返すと色々な政治が生活に関わっていた。内部からは気づかなかったけど、時間を経てから見えてきたものも多い。
・寮の温水シャワーは大学との交渉で設置が決まった
・その頃に副学長および総長をされていたのが尾池さん
・尾池さんは寮に突入しに来たことがある
・対話をとても重視する人だった
シャワー設置をめぐる交渉
以前、寮の温水シャワーは自治会と大学の話し合いの末に設置が決まったらしいと書いた。このことは、恥ずかしながら学生の頃には知らなかった。設置後のメンテナンスにも価値があるが、学生による設置を促すための大学との交渉も、学内で予算をぶん捕ってくる大学の活動も、寮生活の基盤構築のために価値がある。2007年の温水シャワー設置に関わった、大学側の努力にも触れてみたい。
資料を色々漁ってわかったことのひとつとして、当時の尾池総長は凄い方であることを皆に伝えたい。そして、当時の大学と学生の関係が牧歌的だった時代が、現代と未来に訴えて来るものが見つかるかも。
ひげのカレーおじさん
尾池和夫さんは、総長在任期間2004~2008年である。筆者の在寮期間2007~2009年と被っており、総長と言えばこのヒゲのおじさんというイメージがある。大学の名物お土産の一つ、総長カレーの生みの親である。現役の時に持っていた、総長に関する知識は以上だ。
さすがに、総長を5年勤めた男への印象がひげのカレーおじさんというだけでは薄っぺらすぎる。もっと何か、寮とのかかわりとかがあるはずだ。ということで、尾池さんのブログや紅リポジトリや高等教育開発推進センターや生協の資料をあさってみよう。こういうとき、大学は資料記録と保全に関して本当にすごいと思う。また、個人運営されている尾池ブログは、かなり以前の記事やメルマガも記載されているので掘り甲斐がある。
例えば、ブログからこんな記事を見つけた。
カレーの作り方を言えなくて中学校のとき1時間立たされたというエピソードを発見した。理科の久保田先生、最低やんけ。これがのちの総長カレー開発にまでかかわってくるのだから、久保田先生にはむしろ感謝すべきかしら。カレー部の皆さんなら久保田先生にどう答えるのか気になる。
設備を充実化
尾池さんと寮のかかわりについての話に戻そう。退寮後の2010年くらいまで、友達が沢山居るのでよく遊びに行った。その頃は熊野寮では、色々な工事が進められていた。覚えている中では、シャワー室の設置、2008年の防犯カメラ設置、2010年頃のトイレ改修、そして耐震補強だ。耐震補強工事では、外壁も白くキレイに塗り直された。シャワー室設置工事は2007年の1回生の時分に、A棟奥側の廃墟と化していた風呂で行われたことは以前の記事で記載した。そういえば、自転車置き場に煌々とした照明もいつからか設置された。たまにおこしになる、やんちゃな外部闖入者の方への対策のため、玄関先防犯カメラも2008年頃、すぐに取り付けられた。当時は寮がほぼ初めてテレビに出演した直後くらいの時期で、たま~にそういうことがあった。そういえば「防犯カメラ監視中!」という黄色い立て看板もこのころからだ。ハッタリかと思ってた。
これらは、大学側が「やってあげましょうか」と進めたもんなのかと思ってた。実際は、大学への学生の交渉によって設置されたものだ。
温水シャワー設置の大学への要求が可決されたのは2006年の寮生大会(全寮生が参加するディスカッションの場)である。大学側にかけあって得られたものだ。まずは学生側の記録を見てみよう。
2002年の大学との交渉の項目に温水シャワーがある。費用負担区分に関しては以前の記事に軽く記載した。
もうひとつ、こんなビラも2015年のX(Twitter)で発見した。
2006年どころか2001年から大学に要求しとったのか。このころは50円10分という値段が項目に挙げられている。めっちゃ荒いけどレイアウト図もある。自治会さん、ありがとう。当時、運営にあんまり興味なくてごめんなさい。しっかり朝食だけは食べていたので許して欲しい(※1)。
交渉の高尚な思い出
上記要求に対する大学側の反応は以下を参照しよう。この当時、2001~2003年まで副学長をご担当されていたのが尾池さんだ。彼の当時のブログを見てみよう。
熊野寮五十周年記念誌(上)p. 73には「2002年10月の尾池副学長との団交では、引き継ぎ団交が遅れたことを指摘され、しっかりしてほしいと発破をかけられたことが印象に残っている。」と交渉された当時の学生が述懐されている。
2回目の引継ぎ交渉は9時間近く議論されとる。血圧もそりゃ上がる。尾池さんは1940年生まれなので当時で62歳だ。
しかも、日記タイトルにあるように、それ以前の1998年に、心筋梗塞を患われて入院している。そんなご老体と9時間も交渉してたのか。ひ、ひでえ奴らだ。しかし、このブログのおかげで、学生側と大学側の両面から同じ出来事の参照ができた。2月13日と10月30日に交渉があったことは確かなようだ。心筋梗塞でご入院された時の記録も詳細に残されている。ブログを読んでみよう。
上記の文章を読むだけで泣きそうになる。この後、ブログでは手術と入院からリハビリによる復帰まで克明に記録されている。私の父が昨年、脳梗塞で倒れて死にかけたので、こういう話に弱いのだ。本当にご無事でよかった。さらに、3年後には初孫さんもご誕生されている。寮との2回目の団体交渉の一か月前だ。
おめでとうございます!さらにこの後たくさんのお孫さんに恵まれたようだ。
このときの初孫さんも大きくなっていれば2023年現在22歳、すでに大学生になっていてもおかしくない。
2002年の交渉は、9時間もの長丁場でヘトヘトだったはずだ。この副学長時代を後年に振り返っていらっしゃるインタビュー記事を見つけた。なんと、悪い思い出にはとらえていらっしゃらないらしい。
心筋梗塞の予後から体重と血圧を気にしないといけない日々にもかかわらず、時間をかけた話し合いの大事さを説かれている。あんパンくらいでペイする労力か?割と良い関係を構築されていたのかもしれない。
しかも、この記事のメインは廃寮に揺れる吉田寮に関する取材で、ずっと一貫して対話が大事だと話されている。一方に肩入れするわけでもなく、所々大学と学生の両者に対して苦言も呈されつつ歩み寄る。これこそ対話と議論の一つの形なのだろう。
総長が突入
実は副学長時代、寮とこんなかかわりもあったらしい。
寮には餅つき大会用に臼と杵があると聞いたことがあるが、まさか当時副学長の尾池さんおよび学生部にも餅をふるまってたとは知らなかった。自治会とはバチバチにやりあう立場だとおもっていたので意外だ。俳句まで残されている。しかもこの時代から既に、寮の整備と増築について触れている。もうひとつ、こんな記事も見つけた。
総長が熊野寮のコンパに来ていた!?そう言われてみると、入寮してすぐに「総長が寮に遊びに来たことあるらしいよ」という真偽不明の噂は聞いたことあるかもしれない。本当だったのか。
もうひとつ、生協系の学内雑誌「らいふすてーじ」バックナンバーに、総長の尾池さんが表紙を飾った号も見つけた。私が入学する一年前だ。
やはり、寮の忘年会に参加されていたらしい。というか、寮側が呼んだとのことだ。この資料の前半には、総長の多忙な日々を記載していらっしゃる。寮の忘年会に参加するのもかなり大変だったろう。これは、ぜひ当時の寮生側の記録が見てみたい。写真とかないかしら。もしお持ちの方はぜひお教えください。
毎年恒例の熊野寮の祭りのイベント「総長室突入」では、私は直接参加しなかったが特段揉める事もなかった。単に、コスプレしてお祭りする平和なものだった。2008年はバカ殿のコスプレが主役だったかな?「君らみたいな学生が居たら日本の将来は安泰ですね」と余裕ある対応をされていたらしい。確か、それが尾池総長だったように思う。一方で、なかには「何だ君たち出ていきたまえ!」と怒る総長もいたらしい。うろ覚えだが。後者のリアクションのがそりゃまあそうなのだが、昔は総長ふくめ教職員の方々は、今よりノリが良かったと思う。
対話の精神
キャンパスミーティングというイベントは在学中も含め全15回あったらしいが初めて知った。各部局ごとに学生と総長が直接対話する場らしい。ほかに、教職員とは総長ランチミーティングなんて行事もあった。今はそれに代わる行事はあるだろうか。
らいふすてーじのインタビュー記事の最後にこうある。
総長のメールアドレスって今も送っていいんだろうか。ぜひお礼したい。以上から、2007年頃は学生と大学が話し合う場が丁寧に設置されていたことがわかる。
総長に至る道
尾池さんの学生時代にまで遡ろう。今はなき宇治寮のご出身でもある。熊野寮1期生には宇治寮最後の世代がやってきて、ルール作りなどを行った。
この宇治寮に関しては別に記載する。ちなみに、次の次の代の山極総長は熊野寮ご出身だ。
理学研究科長・理学部長時代には学生の門戸を広げる歴史的実績も残されている(※2)。
そして2003年、京大広報(2003年10月 No,583)曰く、総長選挙決選投票にて後のノーベル賞受賞者本庶佑さんに大差をつけて総長となった。
年代不詳だが、機動隊の方々が寮へご訪問に来る際、当時の寮担当学生部員の小林さんは総長時代の尾池さんにこんなことを言われたらしい。
これは多分、上記出来事より昔の尾池副学長時代、熊野寮enpedia記載のこのエピソードが影響してそうな気がする。
寮との確約を受けて立ち合いを強化したなら、約束を守る男だったのだ。機動隊と学生の間でもみくちゃになってくれた小林さん、大変な仕事をありがとうございます。
やはりひげのカレーおじさん
最後に、京都大学新聞にある、総長退任にあたってのインタビューみてみよう。
いろんな伏線改修みたいなものがあったが、要約すると、
・文科省とのパイプを切った
・新しい寮をつくりたかった
・日本で初めてカレーライスを食べたのは6代総長山川
とのことだ。
だ、誰ですか?ググったらめっちゃいろんな大学の総長を歴任した、会津藩出身の苦労人のようだ。総長カレーの真の祖と言えるかもしれない。
入学式式辞
尾池総長、面白い方だけど直接お会いしたことないな~と思いながら記事を書いていた。だが、よくよく考えたら一度だけ拝見している。2007年4月の入学式だ。当時の総長式辞が大学のサイトに全文残っていた。平和祈念、環境問題、霊長類学、自由の学風、地震学、南極探検、京都の地形や歴史を交えて非常に素敵な内容だ。体育館で生で聞いたはずだが、もう全く覚えていない。10年以上経過しているが、唯一、以下の部分だけはギリギリ記憶にある。
いいことおっしゃっている。全然実践できてなくてすいません。なんとなく、自ら動くほうがおもろいということだけは大学院の研究活動で学んだと思う。
まとめ
ご病気を乗り越え、対話を重視し、人に寄り添った素晴らしい学長であったことが資料から伝わった。
寮のシャワーは2002年から自治会より当時の副学長尾池さんに対して交渉が始まり、心筋梗塞のリハビリと初孫の誕生が並行しておられた。年末には寮でつかれた餡餅を食べ、2005年末には寮の忘年会に突入されている。2006年の、当時総長への設置要求が通って設置されるまで、いろいろなエピソードが折り重なっていたことが分かった。
もう一個追加で、要求と交渉の大事さについて。生活の場において、改善を主張し続けることは肝要だ。何かの主張が、わがままととらえられるムラに対して、本当にわがままか?と投げかける心意気は大事だ。
例えば企業で、限られた予算内で爪に火を点す苦労をして、目標達成しました!という話は一見は美談ぽい。だが、本来は適切な予算をぶんどってこなかったものが批判されるべきなのだ。だって、余裕があれば次の年度の新しいアイデアがわいたり、組織運営の面倒な部分を改善する余地が出てくるのだ。まあその前に、組織に所属する全員が方向性を共有している文化や風土が組織にないとダメなんだろうけど。
文句も言わずひっそりと生き、理不尽に低い賃金のまま高い税金をぼられるような人間だらけになったら世の中どうなっちゃうかしら。
補足
※1 寮の維持のためには食堂の喫食率を高く維持することで、食堂が必要な設備だと主張できる証拠になる。ただ、昼夜に比べて朝食は喫食率が特に低く、朝寝坊が多い寮生にとって鬼門だったし、いつも栄養士さんから課題に挙げられていた。なので、喫食率を明示し所属ごとに競争心を煽る、朝食ダービーという企画があった。私はほぼ毎朝、野菜サラダとソースとチーズを食パンに盛ってトーストし、ジョアと砂糖をどっさり入れた紅茶で頬張ったのちに1限もしくは2限に登校していた。朝ご飯をいっぱい食べて自治を支えようなんて、今思えば随分牧歌的な時代だった。美味しかったです、栄養士さんありがとう。
※2 尾池さんが所属されていた理学研究科は、自治と自由を最も重んずる。学問の発展には自由闊達な雰囲気の醸成が重要だと考えているからだ。1998年、これまで文科省が認めていなかった朝鮮大学出身の学生の理学研究科部の受験が認められ、見事合格者が出る。それまでは夜間高校卒業資格も必須など、様々なハードルがあった。約100年前の1913年、東北大学に初の女性入学者を認めた際、東北大総長は当時の文部省に詰問された。この時と同様、尾池さんも文科省の認めない入学に関して詰問された。この後、文科省は大学院受験に関して個別判断を認める。学生に門戸を押し広げたのだ。この件は各所に記載されており、地味に歴史的な出来事なんでは?と思ってる。心筋梗塞明けすぐの出来事だ。自治寮も、女性入寮の解禁など自らの手で決めてきた歴史がある。個人の勉学できる環境が、大きい組織の都合で制限されてはならぬ、という思いが共通している。
その後、理学研究科教授だった際に、「たとえ3歳であっても研究科が認めれば受験させる」という発言に法学研究科長から「法の前に常識というものがある」と議論している。おそらくだが、後者は当時の法務課長田中成明さんのセリフだ。
とにかく当時、議論の紛糾する出来事だったのだ。
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