見出し画像

左京区民の誇りの木、クスノキ

↑時計台側から見たクスノキ(京大大学文書館 1937年
 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の25日目の記事です。今年の熊野寮OPアドカレへの感謝 - 怪文書の残骸 (hatenablog.com)では12/13の記事にご感想を頂けて大変感謝しきりである。ありがとうございます。

 熊野寮にあるでっかい木について書きたい。合わせて、大学構内にある/あったさまざまな樹木と人間のかかわりから雑多な歴史を紐解いてみたい。
 
・今の時計台前クスノキは二代目
・熊野寮構内に左京区の区民誇りの木が2本もある
・多分1950年代からある
・京大陸上部の選手がオリンピックでの金メダル記念に農Gにオークを植樹してた

ご存じクスノキ

 京大のシンボルといえば時計台前のクスノキだ。1934年9月の室戸台風で折れ、1935年に植樹しなおしたので2023年現在は二代目になる。

初代クスノキ(京大大学文書館 1923年
二代目クスノキ(京大大学文書館 1936年

クスノキと比肩する寮の木

 では、熊野寮にある「区民の誇りの木」をご存じだろうか。熊野寮構内に時計台前のクスノキと並ぶ、左京区民が誇りとする樹木があるのだ。嘘ではない。俺たちの尾池元総長が言っていたのだ。

京都市は、「区民の誇りの木」というのを選んでいますが、その左京区編には、熊野寮のイチョウ(高さ14.0m、幹周1.45m)とクスノキ(高さ15.0m、幹周2.00m)、時計台前のクスノキ、グラウンドのクスノキとメタセコイアが指定されています。また、北部グラウンドの西北の角にはオリンピック・オークがあります。

新規採用職員研修開講式 挨拶 (2005年4月4日) | 京都大学 (kyoto-u.ac.jp)
俺たちの尾池元総長

 実際に京都市のサイトを見てみよう。

左京区・区民誇りの木

 2001年(平成13年)に左京区では推薦書などから101本選定されたものらしい。大学構内では、以下の5つの樹木が指定されている。

  • イチョウ 京都大学(熊野寮)丸太町通川端東入東丸太町樹高 14.0m  幹周 1.45m

  • クスノキ 京都大学(熊野寮)丸太町通川端東入東丸太町樹高15.0m  幹周 2.00m

  • クスノキ 京都大学(時計台前)吉田本町(東一条東大路東入)樹高10.0m  幹周 2.24m

  • クスノキ 京都大学(グラウンド)吉田二本松町(東一条東大路東入)樹高15.0m  幹周 3.10m

  • メタセコイア 京都大学(グラウンド)吉田二本松町(東一条東大路)樹高20.0m  幹周 2.45m

 そのうち、熊野寮内の木が2本も指定されている。

左京区の区民が誇りとする熊野寮構内の樹木

 ひとつは、寮の南側にある丸太町通りのバス停「熊野神社前」の裏側のイチョウがそれだ。ビッグテンとかファミマとかエル・ラティーノとかねじ式に行くとき通る道だ。
 もうひとつは北西の角、門から入ってすぐ右手のクスノキだ。時計台前ではない。私も在寮中はその辺によく自転車を止めていた。あのへん、複数の木があったはずだと思って画像検索すると、2018年4月ごろの写真があった。

白河北殿址 六勝寺跡巡り その9|ガイドブックに載らない京都
白河北殿址 六勝寺跡巡り その9|ガイドブックに載らない京都

 上のように丸太町通り側の塀と一体化してせり出してた木は2023年現在は伐採されたようだ。2018~2019年ごろの塀改修と同時期だろうか。

 他の区民の誇りの木はというと、鴨川左岸イロハモミジ、熊野神社のムクノキ、錦林小学校のケヤキ、疏水のソメイヨシノなど、風景に溶け込んでる木々が指定されている。高瀬川のシダレヤナギは中京区の誇りの木だ。確かに、京都に住んでると一度は見たことがある樹木だ。思い出せば、景観を作る存在感のある木々だ。

 在学中、寮の構内にある木が左京区民の誇りだとは全然知らなかった。看板とか目印くらいないのかな?と思い年末に調査しに行った際見つけたので次に記載する。

 京都市の資料写真は、寮側から撮影されているので、当時何かしら自治会もしくは大学に京都市から連絡があったろうし、寮に何か記録が残されてないかしら。誰か2001年前後の寮生でお詳しい方いたらお教えください。

いつからあるのか

 次に、いつから寮構内のイチョウとクスノキとが存在したのか調べてみよう。国土地理院には昔の航空写真がたくさん記録されており、熊野寮のある東竹屋町もばっちり、戦後から残されている。京大大学文書館の写真と合わせて、あの木々を探してみよう。

1961/05/01 京都東北部

 疏水の北、今の熊野寮の敷地にある建物は、百周年記念誌曰く1956年11月に開設した教育学部熊野校舎だ。よ~くみると、北側の丸太町側に街路樹らしき木々と、北西部に樹木が見えなくもない。これより前の時代である、戦後すぐの1946年に米軍が撮影したと思しき、同番地の敷地(新日國工業)にはこの樹木は見えなかった。おそらく、教育学部熊野校舎が開設した1956年に植樹され、その頃から存在する樹木ではなかろうか。
 大学文書館に保全されている、建物の写真も見てみよう。

教育学部熊野校舎(京大大学文書館)
西側から見た1958年の教育学部熊野校舎(京大大学文書館)

 写真右の丸太町通り側にはすでにイチョウが植樹されている。また、石材と金網からなる塀の形状に関しては、2018年ごろまで残っていた熊野寮の塀の形状と一致している。門もこの頃出来たのかもしれない。1958年の写真から、右側奥に何やら木があるのが見える。これらが、のちの区民の誇りの木なのかもしれない。1965年、熊野校舎は熊野寮建設の際に取り壊された。この時代とそれ以前の、東竹屋町にあった建物はこの記事と別にまとめた

農Gのオリンピック・オーク

 最初に引用した、尾池元総長のスピーチで言及されていたオリンピック・オークは、区民誇りの木ではないが歴史があるので紹介したい。京大出身の陸上選手である田島直人さんが記念して植樹したものらしい。田島選手は第十一回オリンピックベルリン大会(一九三六年)選手であり、この木は三段跳び世界記録及び金メダルを記念して植樹した。植樹の経緯として、田島選手ご本人がドイツから持ち帰ったものらしい。

農学部グラウンドの北西端に植栽されているドイツ柏(ヨー ロッパナラ)(Q.Robur)は昭和11年のベルリンオリンピックで三段跳びで優勝した本学の田島直人選手が持ち帰った苗木の一つで,理学部植物園で保管していたものを終戦後グラウンドへ移植したものである。その後虫害等で一時樹勢が衰えたが,演習林で診断,殺虫等の管理を行ったため樹勢が回復し,さらに増殖も試みられたと聞く。同選手は本論文執筆中の平成2年12月に亡くなられたが,オリンピックオークは現在なお旺盛な樹勢を示している。

ガチ調査報告 京都大学構内植生調査1
一大径木の樹種構成と管理状況の構内ブロック間の比較一

真鍋, 安藤, 川那 1991年2月

 一時期枯れかけたが何とか持ち直し、増殖もされた。

しかし、そうした努力もむなしく広報曰く、2008年に病気で急速に枯れてしまったそうだ。 

今後オリンピックオークを再生させるための方法について検討を開始したところですが、
1.現在、かろうじて青色の葉がまだ残っている枝を採取して、挿し木する方法
2.京大の陸上部OBや農学研究科において以前から保有しているオリンピックオークの苗木を植える方法
3.伐採後の根元からの発芽を待ち育てる方法
が提案されています。なお、現在のオリンピックオークは他の樹木の被害を防ぐため、近日中に伐採を行い、研究資料としてその一部を保管していく予定です。

農学部グランドのオリンピックオークについて(2008年9月25日)
枯れゆくオリンピック・オーク 2006.5.1京都大学新聞
農G北西部にあった在りし日のオリンピック・オーク
(年代不明、京大大学文書館)
北西から農Gを望む (年代不明、京大大学文書館

 そういえば1回生の頃、この木のすぐ近くでスポ実のサッカーしてたぞ。在学中、農学部グラウンドのスポーツ会館(略してスポ館)宿泊時に看板は見たような気がする。その頃には既に枯れていたようだ。2回生の夏に伐採されていたとは気づかなかった。
 この木は伐採されただけでなく、続きがある。陸上部OP会である蒼穹会によって、2015年に後継樹植樹がなされているのだ。

京大広報No.713 2015年7月

 かつて京都大学農学部演習林職員らの手により,グラウンドのオリンピックオークの萌芽から採取し,育てられたとされるヨーロッパナラが北部構内の北白川試験地に2個体あり,井鷺裕司農学研究科教授らによる遺伝子解析の結果,枯死した個体と同じ遺伝子を持つことが確認された。本年2月に1本を元の木が植えられていた場所に移植した他,もう一方の個体からの種子が発芽した実生も同地に移植した。

京大広報No.713 2015年7月
 

 増殖のため演習林職員がかつて残した若木を、わざわざ農学部教授の手によって遺伝子解析して同定しておる。しかも、種子から芽吹いた芽も植樹し、2本に増やしている。枯れた初代の木はコースターとして再利用されて配布された。陸上部OP会100名と田島選手の長女が参加した大規模なイベントになったようだ。理学部、農学部、陸上部の協力による、総合大学らしさが出た素敵なエピソードであった。

この木なんのき

 他にも、大学構内の歴史的樹木はたくさんある。2023年現代でいう吉田南キャンパスの、二本松学舎の前にあった2本の松のうち一本は、時計台前クスノキ同様、1934年9月の室戸台風で折れた。三高時代の話だ。吉田二本松の地名の由来でないかと個人的には想像している。

三高時代の二本松学舎 右側の松が折れている 
京大大学文書館 1936年6月


 熊野寮の設計相談役だった西山研の西山卯三さん曰く、今の吉田南グラウンドの南にあった三高の自由寮(旧)には、洗濯物をかける大きな松の木があったらしい。

新住宅 : brains & works for urban life 18(198)(11)新住宅社 1963-11

 どうやって後で回収するんですかね。
 他にも、京大病院構内に至っては植樹され過ぎてどれが何かわからない謎の植木エリアすら存在する。

「みんな勝手に作っちゃうから、もうねぇ、いくつあるのか、誰のものなのか、何の記念かわからないんですよぉ(笑)」

ザッツ京大さんぽvol.1 歴史マスターと巡る、京大の魅力満喫こってりツアー

 管理責任者や情報を時代を超えて伝える手法がないとそうなるよね。後述する、藤原道長の桜塚三高地蔵も、由来や伝承があいまいな部分がある。これはこれで、掘りがいのありそうな話だ。

 以上から、大学の樹木と人のかかわりを様々に見ることが出来た。

意外な感想

 最初は、京都市の施策を軽く揶揄したろうかと思って書き出した。なのだが、調べてくうちに植樹とそれを取り巻く方々のストーリーを知って馬鹿にできなくなった。熊野寮の木を、京都市に推薦された方もどこかにいらっしゃるのだろう。選定されているのは、構内の外からも見れる木々ばかりなので、実際に左京区民が選定されたのかもしれない。それに、大学からオリンピック選手が出てたことを知れてよかった。

 記念樹はいつしか枯れたり折れたりする。時計台前クスノキすら二代目だ。精神的な支柱ととらえた方々が、二代目の植樹を決めたんだろうなと想像を馳せることが出来る。樹木の年齢は一般的に人間より長いし、年代と季節によって異なる顔を見せてくれる。そして、たとえ折れても枯れても、植えなおしたり苗木から育てることも出来る。誰かを記念したり思い出を残したり、意思を託して次世代に引き継ぐには良いオブジェクトなのかもしれない。

 それから、個人的な経験だが植樹するにもスギはやめておいた方がいい。あれは成長が早すぎる。祖母の家にあったスギは、数年ほったらかしただけでグングン伸びすぎて建屋に穴を開けそうになった。

まとめ

 というわけで、熊野寮内にある二本の区民の誇りの木、お大事になすってください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?