ペリー提督のあだ名
アメリカの捕鯨船が水や薪をもとめ蝦夷地の近海にあらわれ、
露、英などの軍艦が通商を要求して鎖国の扉をたたいた。
が、扉はひらかれなかった。
ペリーの黒船が江戸城をのぞむ湾ふかくに侵入。
一発の砲弾を打たぬも威嚇され、
仰天した幕府は鎖国の扉をあけた。
1854(安政元)年、開港場となった箱館で、
ペリーは足跡をのこしている。
ペリーが来ると知った
箱館は、てんやわんやのおお騒ぎ。
お触書、「女と子供は外に出すな」「外出はするな」
「海に近寄るな」「居酒屋の営業は禁止」……
海からの玄関口、沖之口番所にペリーは上陸した。
ペリーと松前藩との会談は、
豪商の山田屋寿兵衛宅で行われた。
松前藩の応接係は、のちに家老となった松前勘解由(まつまえかげゆ)。
ペリーは藩主が来ないことに強い不満をあらわすが、
家老は、幕府から公式の通達が来ておらず、
藩主の来席は無理とつっぱねた。
さまざまな要求にものらりくらりと返答するばかり。
これが「勘解由のコンニャク問答」と評判となって
幕閣からごほうびの紋付を賜った、とか。
この間にも、箱館の街は大騒ぎであった。
禁止だらけのお触書もなんのその、
町民たちは物見高く海浜にでたり
異人の水兵に話しかけたりした。
ペリーは4回上陸したが、
沖之口番所に設けられた特設市場で
三段重ね漆塗りの重箱などを買い
大満足であった。
部下がつけたペリーのあだ名は「熊おやじ」とか「くま提督」。
熊のうなり声のような迫力満点の大声。
だが、語学に長け生物学などに関心をもち
幅ひろい教養とやわらか頭でもあった。
だからこそ、鎖国の扉を硬軟織りまぜてどんとたたき、
徳川の世は泰平の夢から覚めたのであった。