![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/96272991/rectangle_large_type_2_88ed15681287ad4772e2845c0547d52d.jpeg?width=1200)
今宵最後、中島三郎助の宴
幕末、ペリー提督が
上陸した沖之口番所跡を背に、
弥生坂の急な坂を登りつめた坂上で
振りかえると、
眼下に港がひろがる。
ここが幕末箱館随一の名園
といわれた咬菜園の跡。
旧幕府軍が本陣をおいた
基坂上の旧箱館奉行所からほど近い
この名園は、榎本武揚政権が生まれ、
官軍が攻めのぼるまでは、
戦闘もなく平穏な日々で、
つかの間の清遊の場であった。
箱館市中取締役の土方歳三も
句会に参じている。
![](https://assets.st-note.com/img/1675457852302-lFZduIdD46.jpg?width=1200)
1869(明治2)年3月4日。
新政府による旧幕府軍への追討令が下って
官軍の軍艦が品川を出航したとの
急報あり。
そこで榎本は、
大鳥圭介、中島三郎助、高松凌雲らの幹部と
今宵は最後と咬菜園で夜通し
酒を酌みかわし
詩を吟じた。
そのおり、咬菜園の主のもとめで、
「木鶏」の俳号をもつ中島三郎助が
句を詠んだ。
「せわしさの これやまことの 花こころ」
官軍が迫ってくるなかでの心境をあらわしている。
![](https://assets.st-note.com/img/1675034111661-HaRZCzNaEy.jpg?width=1200)
ペリー艦隊が
浦賀沖に来航したとき、
浦賀奉行与力の中島は
いち早く米艦に乗りこみ
米国と応接するなど、
外交に大きな足跡をのこしている。
そのあと、旧幕府軍に加わり
蝦夷地に上陸し、
榎本武揚のもとで
箱館奉行並をつとめた。
![](https://assets.st-note.com/img/1675034159709-Mq0wJfBx1e.jpg?width=1200)
宴から二ヶ月あと、
官軍による箱館総攻撃で
市街地はすでに官軍の手に落ち、
五稜郭にこもる榎本から
千代ヶ岡陣屋を
退去するよう使者がきた。
が、陣屋の守備隊長中島は、
最後まで壮絶な戦闘をつづけ
息子二人とともに
北の地に散った。
![](https://assets.st-note.com/img/1675552998132-m7p4Q3mSGo.jpg?width=1200)
今もこの地は中島町と呼ばれている。