鹿鳴館の華 大山捨松 Ⅱ
北海道開拓使次官・黒田清隆は
欧米を視察し
女子教育の必要を痛感し
幼い女子の官費留学生を募集した
旧幕臣や賊軍の娘5人が
名乗りをあげ
そのなかに山川さきの名があった
のちに陸軍少将となった
斗南藩の兄・浩の計らいであった
1871年(明治4)秋
浩は函館に出向き
アメリカで10年間
官費で学ぶことを
妹さきに告げた
さきの理解を超えていたが
会津のしつけに否はないと
津軽海峡をわたり
対岸の斗南に住む母に
別れのあいさつに向かった
動転した母は
幼名さきを
「捨てたつもりで待つ」 と
「捨松」の名を
懐剣とともに
11歳の末娘にさずけた
アメリカでの捨松は
牧師宅で英語を身につけ
名門校・ヴァッサー大学の成績は
優秀で
仏独語もあやつり
人望があり長身にめぐまれ
洗練された美しさと
知性をもつ人気者
卒業のときには、総代に選ばれている
そのあと
看護婦の資格をとり
11年間の留学生活を終えた
23歳で帰国後
ある男から
縁談の熱烈な申し入れがあった
会津戦争のとき
敵軍の砲兵隊長であった
薩摩の大山巌
大山はフランス留学の経験もあり
捨松のセンスに惹かれたのだ
家族は敵に嫁ぐなんてと
猛反対するが
巌の熱意にほだされ
できたばかりの
鹿鳴館で式をあげた
そのころの日本女性にない
アメリカナイズされた
立ち居振る舞いと美しさで
鹿鳴館の華とよばれる
また、アメリカ暮らしの
経験と知見を生かし
チャリティーバザーで
看護学校の開校資金をあつめ
開設者を感激させた
さらに、留学仲間
津田梅子が
津田塾を設立する際にも
その運営に力を尽くしている
二男一女にめぐまれた
夫婦仲は円満そのもの
新聞記者から
閣下(巌)は
奥さんのことを
一番好きでしょうねと尋ねられた
捨松は「いいえ
一番好きなのは児玉(源太郎・参謀総長)さん
次に私で
三番目はビーフステーキ」
ステーキには勝てますけど
児玉さんには勝てませんの と
ユーモアたっぷりに応えている
1919年(大正8)
波乱万丈の58年を
スペイン風邪により終えた