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【脳を彫塑するデザイン】創造的幸福脳をつくるために②

アッと言う間にひと月が過ぎ2月。今月も大学、企業とのデザイン思考のワークショップを毎週実施していきます。その内2回は今回初めて実施する新プログラムですから自然とワクワクしてきます。また最近は現地の大学はもちろん、日本の大学なども留学生を対象にした全編英語でのワークショップも増えておりオンラインの恩恵を感じる日々です。そんな活動を通じ、教員や学生の皆様とお話しする中から感じる日米の違いや最近の学生さんに共通する傾向などについて、先週に続きますが書いてみたいと思います。

不完全でも突出した何か

一つ目に、最近よく教員の方から聞かれる日本の大学のワークショップでの傾向として、アウトプットの纏まり感や完成度、体裁を気にし過ぎるという話があります。私が行うワークショップでも議論する上での7つのルールの中に「Go for Quantity(質より量に拘れ!)」という項目があります。とかく人間が集まって議論したり発表し合ったりすると(特に日本人は)自分のアウトプットに一定の品質を求めがちになる。 “菊と刀”的に言えば日本人的美意識がそうさせるのかもしれません。

しかし、特に物事の初期段階に於いては後々の価値を最大に導いてくれるDriving forceとしての「突出した何か」を見出す事が最も重要になります。最初から体裁を気にしているとアウトプットは全て予定調和的で妥協的なレベルに落ち着いていく。全体で見ると提案性の粒度が揃ってくるけれど求めているのはそんなことじゃない。未来を、世界を、変えてしまうくらい強烈なインパクトを持った「不完全な突出」をこそ目指すように常にアドバイスしています。

プロセスや文脈に秘められた価値

またこれも最近よく聞かれるのが「途中まで良かった議論が一気に安直な結論に収束する」「何でもロボットやAIで解決(笑)する結論になる」という話。たしかに今は、必要なモノはAmazonで、食べたいものはUberで、と昔は難儀だった多くの課題が今や既存のプラットフォームで容易に解決してしまう。同じように「それならロボットで、それはAIで」と考えてしまうのも無理は無い。便利になり過ぎた現代社会ならではの思考と言えるかもしれません。

一方でプロセスより結果ばかり重要視することの弊害もありそうです。我が家の子供たちの学校の話を聞いてみると、例えば歴史の授業では日本の様に歴史上の事件の年代を記憶するのではなく、その事件がどう引き起こされたのかをチームで議論し、その議論の過程を評価されると言います。デザイン思考の議論でも結果よりも議論のプロセスや文脈にこそ黄金に化け得る価値が秘められている。過剰な便利さから「安直」や「短絡」が蔓延る現代では、プロセスや文脈にこそ目を向ける必要があります。

“正しさ”でなく“可能性を模索する探求心と勇気”を!

さらに最も大きな問題は「正しさ」や「誤り」への認識。教員の方々が異口同音に仰るのが特に日本の若い学生さんたちが「正しい答えを言おうとする」「間違うことを異常に嫌うし、恐れる」という話。これまでの日本の教育が「正しさ」ばかりを求めがちだったからなのかもしれません。世の中にあるほぼすべての事物は正誤の二元論に支配されずに存在している。にも関わらず何故にそこまで“正しくあろう”とするのでしょうか。

最初からピアノを弾ける人は居ない。むしろトライとエラーの数だけが上達を後押しする。増してデザイン思考のようにゼロからの創造が求められ赦される場では、むしろ常識で言う“間違い”にこそ解が隠されている可能性を疑うべきです。この問題は従って教える側の責任が重い。教える側が学生に正しさばかり求めてはいけない。むしろ求め、伝えるべきなのは「可能性を模索する探求心と勇気」だと思っています。そしてこれは、もしかすると教育の世界のみならず、年長者が若い世代に対して執るべき基本的姿勢なのではないかと思います。

視覚化することの意義と喜び

最近私が行うワークショップでは弊社POV社のWSならではの“目玉”として提案の“視覚化”(Visualization)についても必ず併せて教えます。視覚化は、映像化することで提案の経験価値や機能や仕様を具体化するのみならず、チーム内でも実は個々にバラつきのあるイメージを共通認識化させる効果や、あるいは「そうか!そこまでは考えていなかった~」というような潜在的な価値やヒントさえも顕在化できるという効果も発揮します。

また表現力についてもかなり具体的に伝えます。情景の描き方や再現すべきユースケースのストーリーなど。表現力を決定するものとは「創造に対する欲求と戦略性」だと考えています。朧げに浮かんだイメージの解像度をもっと上げたいという欲求。見え隠れする未来志向の提案の発露に世界を変え得る確かなロジックと構造を与える戦略。視覚化することで一人ひとりの創造に対する欲求と戦略性が強化されていく。最近私がワークショップを通じて最も喜びを感じるポイントです。

ナッジ理論的な同調圧にはユーモアで対抗を!

最後に「真面目すぎる、おとなしすぎる学生をどう導いたら良いか?」という先生方からの相談も。そこまで先生方に言わしめるほど日本の若者たちは真面目すぎ、おとなしすぎるようです。私は「そこは自分(ファシリテータ)のキャラを駆使して場の空気を壊す、悪ふざけや嘘さえ許容するくらいのユーモア」と答えています。最近話題になっているナッジ理論ですが、確かに今という時代は、群集心理や集団心理を巧く操るような何かに支配された世界と言えなくもない。従って、ただでさえ真面目な日本人が、見えざる何かによって「正しくあること」「間違わないこと」「真面目で謙虚であること」を過剰な同調圧によってさらに強要されがちなのかもしれません。

これに対抗できるのはユーモアではないかと思っています。例えば、私の行う「拡大解釈(Extended Interpretation」のワークでは、参加者に指定されたカテゴリのアイテムを自宅内で探してきて貰いますが、その際、実際には家に無いモノでも「こんなのありました~」と平気で持ってくることさえOKにしています(笑)。つまり“図々しく周りを楽しくさせるウソをつく”ことを推奨する。アンケートでも多くの参加者が「嘘でも良いから発想を飛躍させろと言われたのが目から鱗だった」とコメントしてくれています。経験上、ユーモアは硬直した空気を一瞬で破砕し、人の創造性を飛躍的に拡張させ得る。だからこそ私はユーモアを人間の叡智の頂点に位置付けている。そんなユーモアが少しでも現代のオカシナ群衆理論を粉砕していくことを願いますし、私も斬り込み隊長wを担っていきますよ!

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