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【デザイン思考の洞察】境界を創造的に暈かす社会デザイン

最近何かと「境界線」が気になっています。地域の近隣トラブルから人種、ジェンダーなど人権問題、国家間の紛争まで境界線が起因する課題も多く見られる。従って境界線の在り様は重要。分ける対象や目的に応じて境界線が適切にデザインされていないとそこには(負の意味での)混沌や摩擦、乖離や分断、争いが生まれる。逆に効果的にデザインされていれば(正の意味での)混沌や摩擦、そして創造的な協調や協働、共創が促される。そこで今回は社会に於ける境界の在り方について考えてみたいと思います。まずもって私が思う理想は「互いの違いを100%認め合った上で境界を暈かす努力をすること」だと思っています。

■ ボカしたくらいでちょうど良い境界

例えば、今住んでいる家で一番気に入っているのが裏庭(Backyard)。約20m四方の庭は3方を囲った壁を隣家と共有していますが、壁だけでなく、壁全体を覆った植物や互いの壁を大きく越えて伸びた草木、互いの庭の景観の一部を互いに借景として相互に楽しめるようになっている。別に細かな取り決めや相談をしている訳でもなく、植栽を手入れする際にもお互いに相手の家からの景観を配慮しながら全体最適なデザインを協力して創作している。家と家との境界線が豊かな緑や草花で暈かされた結果、我が家の庭は隣家とのコラボ作品に仕上がっている。

緑に覆われて壁面がほとんど見えない快適な我が家のBackyard


隣の木の落ち葉が積もろうが実が落ちて来ようが誰も気にしないし文句も言わない。むしろ季節の移ろいを一緒に楽しむ。通常良くある近隣トラブルは”明確な境界”を侵犯した設備や植栽によるものですが、相互の位置関係に価値観、ライフスタイルなどの違いを「違うもの」として尊重した上でそこに厳然と存在する境界を如何に“美しく暈かすか”に相互に知恵を出し合う。重要になるのは「権利主張」よりも「寛容性」。ロバート・キャパじゃないけど境界線は「Slightly out of focus」(ちょっとピンボケ)なくらいがちょうど良い。土地の境界をどうクリエイティブに暈かすかを皆で考えることは「小さな社会デザイン」とも言えます。


■ 厳格な境界で守る既得権は何も生まない

境界と言えば一つ思うのがカフェ。ベイエリアのカフェでは皆、ラップトップを開いてカフェの電源やWifiに繋いで何時間でも仕事しています。いつも思いますがこうしたカフェで作業するフリーランスのデザイナーやエンジニアが生み出す価値はベイエリア全体の生産性に相当貢献しているだろうと。ですからカフェは非常に重要な生産拠点です。一方、日本では電源差すだけで怒られたり滞在時間に制限があったりします。確かに厳密に言えば電源なども許可なく使えば窃盗罪に当たるらしいですが、その発想そのものが生産的でない。必要なのはここでも、寛容性や感謝に裏付けられた「創造的に暈かされた境界」であると。

ベイエリアのカフェは店と客との感謝と寛容性で創り出される創造的境界空間

お店と客が相互に快適なスイートスポットを探れるような空間。ベイエリアのカフェは地域全体のビジネスや創造性に活力を与える極めて重要な存在だと皆が認識している。だからカフェはひたすら上質なコーヒーにpastries、気持ちの良い空間、電源やWifiを提供する一方で、私の良く行くカフェでは常連の客たちがさり気無く掃除をしたり、食器を片づけたり、植物に水を遣ったり、もちろんチップを弾んだりしている。これによりお店の利益も客側の利益も共に満足される。電源の使用や長い滞在時間をお店が“損害”として拒否すれば客もチップを払わなくなる。こうして店側と客側の既得権を守るような厳格な境界を規定すればするほど創造性も生産性も失われ、ギスギスした空間だけが残るのではないでしょうか。

■ 自己責任と寛容性の尊重

ベイエリアにいると毎日色んなライド(乗り物)に乗って通勤、通学、移動している人を見掛ける。最近多く見る電動のスケボーやスクーター、一部の層に人気のあるリカンベント(寝そべって乗る車高の低い自転車)、歩くように漕ぐ、ボートのように漕ぐ自転車、はたまたベイエリアならではの、恐らくエンジニアと思しき人が自ら自作したと思われるモーターと配線剥き出しの電動一輪バイク(!)などなど。そんな日常の風景にふと「法規上はどうなってるんだろう」と不思議に思ったりする。ナンバープレートもヘルメットも無しに乗っている人も少なくない。

ベイエリアで見られるライドたち
「One Wheel」「Tredmill自転車」「ボート漕ぎ自転車」「手作り電動一輪バイク」

もっと言えばバンパーや保安部品が外れたままのクルマなんかも平気で街中を走っている。無論、法規制は当然あるものの(特にLAなどは)イチイチ取り締まっていられない現状もあるのでしょう。こうした状況では多くの場合「自己責任」が重宝される。当然、大事故にでもなれば大きな代償を払うことになる。でもそこに至るまでの営みにさえ一定の寛容性が働いている(違法性を寛容しろと言っている訳では無いので誤解無きようw)。そしてそれはベイエリアで多くのスタートアップが日々奇想天外なアイデアを臆することなく新たなビジネスに出来ている背景の一端であるようにも思える。アレもダメ、コレもダメとなればイノベーションは生まれ難い。互いに自己責任を尊重し、寛容性を働かせることは創造性の一部なんだと思います。

■ 違いを違いとして認め合うこと

国際的にジェンダーなどに対して平等を叫ぶ動きがあります。私も権利は完全に平等であるべきと思う一方で、違いは違いとして認め合う事も同じく重要と思います。女性と男性は決して同じではないし他もそうでしょう。違うからこそ機能が分担でき、組み合わさることで創造性や生産性を生み出せる。ジェンダーのみならず個性や価値観、思想、信条など個人の違いは全て相互に認められるべきと。

相互の違いを曖昧にしたまま平等ばかりを叫べば分断はむしろ加速する。矛盾したままの曖昧な平等意識は要らぬ同調意識を煽る結果、現下起きている様々な社会問題、国際問題の要因にさえなっている。むしろ互いの違いを違いとして尊重した上で、その境界線を暈かすよう努める。そのための寛容性や創造性を発揮してこそ輝かしい未来に近付けるのだと信じます。


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