【”我慢”と”妥協”から自分を守る】「不可能」とは信じ込まされた幻影?
独立後の生活はそれまでとは一変しました。企業に属していれば組織としての動きに合わせる部分が多く、自分の力だけで全てを動かすことは難しいですが今は自分のビジネスを100%自分で制御している実感がある。だから上手く行くことも行かないことも全て100%自分に返ってくる。これは曖昧さがなく実にシンプルで気持ちの良い環境です。それを怖がる人も居るかもしれませんが、自分という存在が大きな何かの一部となっていることで自分の手応えさえ曖昧になるよりも、私には何百倍も生きがいが感じられます。それによって目に見える世界、空気の匂い、食べるものの味など全てに鮮やかな彩りを感じるようになりました。それまでとは全く異なる景色がそこにはある。自分を縛り付けていた何かから自分を解き放つことができた。ただこれは結果論であり、少し前の自分から見ても、それはある種「不可能」と映っていたことなのかもしれません。不可能を可能にするにはどうしたら良いか。今日はそんなことを考えてみます。
自分の居場所は自分でつくる
よく「一度しかない人生」という言葉を耳にします。一度しかない人生だから悔いが残らないように生きる、やりたいことをやる。一般的にはそんな使われ方をしますが、ならば「一度しかない人生だから失敗できない」という考えも成り立ちます。私は人生が一度しかないかどうかは気にしていない。そんなことは誰にも分からないし、どうだって良い。自分の意志で生まれてきた訳ですらない人生。であれば、せめて誰かが敷いたレールや、外的要因で決定される環境ではなく、自分が気持ち良いと思える場所に常に自分を置いておきたい。
東京生まれで東京育ちの自分にとって、東京は住み慣れた便利な都市でしたが、慣れれば慣れるほど違和感を覚えるようになった。例えるなら、右手で箸を持って食べていて、ふとそれが容易過ぎて気持ち悪く感じることがあり左手で食べてみたりする。私にとって簡単とか便利とか安心というのは過度に進むと不快に感じられるようになるらしく、常に一定の不便さや不容易さが感じられる環境を求める傾向がある。だからわざわざ海外に住み、起業もした。自分にとって最高に快適な居場所を作ることは不可能を可能にするための初歩の動機になる。自分が快適で無いのにその場所に居続ける理由など全く無いと単純に思います。
楽と交換条件の我慢と妥協
大きな会社というところも私にとっては似て見える。中にいると福利厚生や税務処理など色々なメリットもあります。ただその一方でそれと交換条件で強いられる我慢や妥協もある。長い会社生活でこのメリットゆえの我慢や妥協に慣らされると、自分の中に日々新たな制約条件が積み上げられ、大して難しくも無いチャレンジがあたかも難しいことや実現不可能なことに見えるようになる。つまりこの「不可能」の一般的な定義である「可能でないこと」をデザイン思考的に疑うなら「不可能」というのは、自分の中で勝手にインプリントされた制約条件の集積であると再定義することができます。
翻って、では「不可能」を可能にするにはどうしたら良いか。一つにはその要因である“我慢”や“妥協”から距離を置くということだと思います。楽を優先させることで我慢や妥協を野放しにしておくことで自分にとっての「不可能な事項」が毎日増え続けていく、自分で自分の人生の可能性を日々狭めていく行為。そんな情景をイメージしてみれば怖くなるはずです。
専門性は自分で証明する
一つの事例として専門家というものがあります。専門家とは単純化すれば専門的技術や知識を持った人。しかし日本ではとかく証明書や肩書など何らかの確証を求められることが多い。それが無いと専門家と呼ばれない。しかし本来は自分なりに突き詰め、極めた知見や見識、技術があれば証明など必要ない。10000時間の法則なんていうことも言われる昨今、能力の極め方は様々あって良い。(一方で学歴さえも詐称される昨今は証明書の方が信用できなかったり…。)
もっと言えば自分だけの専門領域を創っても良い。私は今、複数の大学でWSを行っていますがイノベーションメソッドの民間研究者/専門家という立場で契約しています。自分の専門性とは、自らの意思と探求による実績で規定(Establish)し裏付ける(Endorse)ものであり、誰かに証明(Certify)して貰うものではない。自分の専門性を証明する術すら外の誰かに明け渡してしまえば、もはや一体誰のための人生なのさえか分からなくなってきます。
「やってみる⇒やり続ける」の先に「可能になる不可能」がある
結局のところ、不可能とは、いつも私が説いている「常識」と似ていて、信用に足りるものではないということだと思います。長い時間をかけて暗示に掛けられ、そう信じ込まされている実体のない幻影。どんな時もデザイン思考的に、何でも拡大して解釈する私は(笑)例えば並行宇宙(Parallel World)の存在なども、その分野の専門家以外でも広く議論される今、実は不可能なことなど存在しないのではないかとさえ思います。全ては「やる」か「やらない」かの違いでしかない。
例えば起業というものが日本では広く一般に難しいことのように刷り込まれているがゆえに「不可能」に思えても、その常識を疑ってまずは「やってみる」こと。この「やってみる」をクリアしたら、次は「続ける」。一見難しいと思えたことが実行され、やり続けられたなら、それは何年か後には「可能になった不可能」として見えるかもしれない。「やってみる⇒やり続ける」の先に「可能になった不可能」があるということ。これを信じて毎日が創造のStreak Challengeになれば、いつでも「不可能」を楽しく可能にしていけるのではないでしょうか。