1.「がんばれ」ということ
「がんばれ」
有り勝ちなこの一言の中に、実に様々な意味があるなと、私は思います。
時には、誰かに全ての想いを託す時、そう例えば、甲子園のマウンドで孤軍奮闘のエース、9回裏、1点差で勝利は目前、だが2アウト満塁、カウント2-3、ベンチから監督が徐に手を挙げタイム、マウンドに内野陣と共に歩み寄って、「がんばれ」。美しい青春の1ページを飾る、最も相応しい場面といえるでしょう。
はたまた、陰鬱な空気の中で、早くこの瞬間が過ぎ去って欲しい時、そう例えば、上司が、優秀だが気に入らない部下に、左遷を言い渡す場面。重苦しい雰囲気の下、上司の部屋にノックの音が響き、下を向いたまま部下が歩みを進めた、その時、「がんばれ」。ほろ苦い現実ですが、お互いにとって、これほどまでに無味乾燥な、空虚な一言は、無いでしょう。
私は、二人の“超”健康優良男児に恵まれるという僥倖に浴して以来、彼らに幾度となく「がんばれ」を投げかけて参りました。ヨチヨチ歩きで転んだときに、一所懸命にボールを追いかける姿に、あと少しで自転車に乗れる瞬間に、もう少しで工作が出来上がるときに。
彼らが、はじめて・あと少し・もうちょっと・一所懸命、に、果敢に挑戦している、その小さな背中に、手を出したいのをグッと堪えて、支える積もりで、そっと渡して参りました。
私の「がんばれ」は、果たして心の通った、熱くたぎる想いとして、彼らに伝わっているのか。それともただ、虚しさだけの、つまらない「がんばれ」になっていないか、日々、自問自答しています。
学生時代、私はアイスホッケー部に所属し、憧れのユニフォームに身を包み、学校の代表としてリンクに上がる恩恵に浴しました。あの頃、実に多くの先輩方、同期・後輩の皆様、応援に来て下さった方々、そして何よりも家族の「がんばれ」で、後ろから暖かく支えて戴いたことを思い出します。
あの「がんばれ」は、勝利という共通の目標のために、あらゆることを犠牲にしてきた者達の、かけがえのない、ピュアなものでありました。そして又、一人では大事を成し得ない、自分は一人ではない、人間は一人では生きられない、という、当たり前のことを、身を以って知り得た瞬間でもありました。
Be a hard fighter, and a good looser.
グローバル化の波は更に、強く、激しく、押し寄せて来ます。想定を遥かに超えた未曾有の事態を、絵空事と笑っていられた時期は、とうに過ぎたのではないでしょうか。
激動の時代を迎え撃つ宿命の息子達には、今、世界の荒波の中で、モノ言わず戦う父の背中を見て、強く、温かく、大きく育って欲しいと思います。
日本の未来を担う若者達に、私からとっておきのエールを送りたいと思います。
日本の若者よ、息子達よ、がんばれ。