2. いのちのきずな
「いのちのきずな」
少し昔、一冊の本に出会いました。ハーバード大のマイケル・サンデル教授の“これからの「正義」の話をしよう”です。氏は、冒頭次の問題を提起されます。
ある鉱山で走行中のトロッコが制御不能となったが、その先で5人が作業をしていた。
貴方は、たまたま分岐器の傍にいた。分岐器を動かせばトロッコは別の道へと向かうが、そこでは、1人が作業をしていた。
貴方が分岐器を動かせば5人は助かるが1人は確実に死ぬ。
このままだと5人は確実に死ぬ。
貴方ならどうしますか?
利益を合理的に最大化する考えであれば、貴方は分岐器を動かすでしょう。もし、如何なる命にも軽重は無いという考えであれば、貴方は放って置くでしょう。それとも自己犠牲の精神で、飛び込んでトロッコを止めますか?そのときの貴方の命はなぜ、他の6名より軽んじられるのでしょう?
人のいのちを助けるために、他の人のいのちを犠牲にすることは許されるのかという、功利的正義の矛盾に対する答えは私には分かりません。しかし、いのちの意味を考えさせられる問題として、頭から離れないのです。
私の祖父は、先の大戦では3度召集されました。3度目の招集では、昭和18年に呉からフィリピンへと出征しました。中隊長であった祖父の部下は総員187名。出征中に終戦を迎えましたが、祖父の中隊が帰還したのはそれから半年後、無事に還って来られたのはわずか18名でした。祖父は帰還後、戦争について、任地で食べた美味しい異国の料理の話をする以外、多くを語りませんでした。
祖父の葬儀に、清潔な身なりの一人の紳士がいらっしゃいました。祖父の部下の御子息とのことで、東大出身のお医者様でした。祖父は、戦争で焼け出され、全てを失ったこの方のお父様に対し、我がことの如く心を砕き、職探しから、結婚、出産、進学と、人生の節目の何から何まで親身に面倒を見たというのです。
この方は別れ際に、涙を湛えながら、
「今、私という人間が在るのは、専ら貴方の祖父様のお陰です。」
と仰って頂きました。戦争で多くの部下を失った祖父が、一人の部下のいのちを守るために奔走した、いのちのきずなが繋がっていることを実感でき、この瞬間ほど、祖父の、小さいけれどゴツゴツした背中を、誇りに思ったことはありませんでした。
上皇・明仁陛下の教育掛であった小泉信三は、戦地の御長男・信吉(しんきち)氏に沢山の手紙を綴られています。信吉氏は大正7年生まれ、産後日悪く、一度は医師から匙を投げられたものの奇跡的に回復し、無事に大学をご卒業されました。
昭和17年、海軍主計中尉として重巡洋艦「那智」にて出征され、南太平洋上の海戦にて戦死される迄の10ヶ月余りの間に、34通の手紙と数通の葉書をご家族へ送られました。信三や家族の返信も数多に及びますが、以下はその一番初め、出征する御長男の懐にそっと信三が託した手紙の冒頭です。
「君の出征に臨んで言っておく。我々両親は、君に完全に満足し、君をわが子とすることを何よりも誇りとしている。僕は若し生まれ変わって妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の親孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかもしれないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年間の間に、凡そ人としての親として享け得る限りの幸福を既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。」(海軍主計大尉小泉信吉・文春文庫)
与えられた境遇を無条件に受け容れ精一杯生きる、という当たり前のことが、如何に難しいことでしょうか。もし私が同じ場面に直面したとき、等しく毅然と振る舞えるとは到底思えません。
しかしながら、自らが置かれた環境を冷徹に理解し、人として何ができるかを十分吟味した上で、一所懸命に振る舞うことが大切であると思います。そして、祖父や諸先輩から賜った大切ないのちのきずなを、息子たちと未来ある若者たちに、真摯に且つ忠実に受け継ぐことこそ、私達の務めであると思います。
私は、フィリピンのミンダナオ島と仕事をし、幾度となく現地を訪れました。かつて祖父が、家族を守るために決死の覚悟で戦い、多くの仲間たちを失った彼の島に、私がビジネスで訪れることは、単なる偶然ではないと感じています。
ミンダナオ島は激戦地で有名ですが、現地に残った多くの日系人の方々が、戦後の凄まじい迫害にも屈することなくこの地で成功され、大学を設立し、国内の日本語コンテストでは何度も優勝するような偉業を達成しておられることでも有名です。ここでもいのちのきずなは立派に受け継がれています。私も先人たちの名に恥じぬよう、未熟ながらもしっかりと務めを全うしたいと考えています。