4.「敦盛」
4.「敦盛」
昨年私は、50歳を迎えました。
「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。」
織田信長が愛した舞の中で、特に有名なのはこの、「敦盛(あつもり)」でしょう。
「敦盛」は、源氏の猛将・熊谷直実と、平清盛の甥っ子で、当時数えで若干16歳で絶世の美男子と言われた平敦盛の、二人の御家人の物語です。
1184年(寿永3年)の一ノ谷の戦いで、功を急ぐ熊谷直実は義経率いる鵯越えの奇襲部隊に所属し、敗走する平家の主力部隊を背後から追走しました。その時、波打際を走る一際凛々しい若武者を見つけて追い詰めました。それが、平敦盛でした。
うら若き少年の姿を見て止めた直実は、名乗りを挙げつつ、こう思ったに違いありません。
「私の息子と、ほとんど変わらない。まだ未来ある若者ではないか。」
百戦錬磨の直実には、直家という、歳の頃が敦盛とほぼ同じ長男がおりました。直実は恐らく、あっという間に敦盛を組み伏せたに違いありません。敦盛の凛々しい面差しを組み敷いた腕の中に収めつつ、その先に可愛い我が子の姿を見つけてしまった直実は、頸を獲るのをためらいました。
ですが、後からきた味方から、いつまで経ってもトドメを刺さないことを咎められ、最後は泣く泣く成敗したと言われています。
合戦後、実直で真面目な性格であった直実は、敦盛はじめ、多くの未来ある者たちを殺めてきた罪に苦しみます。そして浄土教の開祖・法然上人と出会い、家督を息子の直家に譲り、合戦から9年後の1193年(建久4年)に出家、法力房・蓮生(れんせい)と名乗りました。以後、1207年(建永2年)に66歳で亡くなるまでの約14年間に、日本全国に約10のお寺を開基されました。
私の息子たちは今年で各々、21歳と18歳になります。彼らが16歳の頃、どれ程幼かったか、そして、未来への希望に満ち溢れていたか、今でもあの時の彼らの溌剌とした表情を、容易に思い出すことができます。
戦場で敦盛を組み敷いた直実は当時、43歳。今の私と同年代ですが、私がもし直実だったならば、敦盛と可愛い我が子の姿が重なってしまい、敦盛の未来を奪うことをためらったでしょう。
ですが、殺さなければ殺されてしまうのが戦国の世の常です。事実直実はその後、敦盛の一件で躊躇ったことで、謀反の心ありと咎められ、近隣の御家人とのいざこざもあって、所領の多くを没収されています。それでも家族・郎党と我が子を守るために、直実は敦盛を討ちました。そのことで彼はその後一生悩み、苦しむことになりました。
もし私が直実だったら、家族や子供たちを守るために、たとえその後一生、敦盛の影に怯えることになろうとも、迷わず同じことをしたと思います。
「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。」
実はこれ、人生は50年と短くて儚い(ので、一瞬一瞬を大切に生きよう!)、という意味ではなくて、人間の世の50年は、下天=化天(天界の時間)と比べたら夢幻のように一瞬に過ぎない(ので、何かやらかしたとしても大したことではないから、あまりクヨクヨするな!)、と私は捉えています。
自らが殺めた多くの亡霊と、一体どんな恐ろしい後生(死後の世界)を迎えるのか、その恐怖に苛まれた直実。そんな彼が法然上人と出会い、衆生は全て念仏を唱えさえすれば成仏し、極楽浄土へ行けるのだと説かれ、救いを得ることができました。
Non Sibi.
人の世は儚(はかな)く、虚(うつろ)です。だからこそ、一人一人が異なる光で輝いていて素晴らしいのだと、私には思えます。今年から51年目、半世紀を超えて、私の新たな人生の1ページが始まります。どんな光を放つのか、今から楽しみです。