震災の現実
ACIDMAN、LIVE IN FUKUSHIMAの翌日3月12日、早朝からいわきを出て富岡町に向かった。
富岡のICを降りたら、強い違和感に襲われた。
お店(飲食店)がない。
コンビニもない。
ガソリンスタンドもない。
あった!とお店の看板を見つけても、実際は営業どころか廃墟になったまま。
コンビニの跡地にも黒い塊(廃炉関係の廃棄物?)が山盛りにされている。
双葉町に近づくほど、人の気配がない。
双葉町もそうだった。双葉町を過ぎて浪江町に入ってからようやく営業しているコンビニやお店が出てきた。
最初、朝飯は富岡町のどこかで食べるか、と軽く考えていた自分が今となっては恥ずかしい。それくらい原発周辺の町のことを何一つ分かっていなかった。
原発に続く道は許可された車両しか入れない区域が延々と続く。
2011年3月11日、14:46で時間が止まったままの光景がいくつも飛び込んで来る。
帰宅困難地域、こんな言葉がまだ無くなっていない現実。
浪江町のコンビニでようやく軽くパンを食べて震災伝承館に向かった。
館内は詳細な資料が数多く展示されていて、数時間おきに語り部の方の話が聞けるということで展示を一部後回しにして話を聞いた。
さっき目の当たりにしたものとは違った現実を突きつけられることになった。
講話や別の資料館などの映像で特に心に刺さったことを。
語り部、富岡町出身Oさんの話(当時小学六年生)
隣の川内村に翌日避難したが、なぜ避難しなければならないのか理由は本人もご家族も知らなかった。原発の状況についてはOさんによると富岡町の中で情報が全く回ってこず、川内村から郡山市にまた避難することになった時に初めて水蒸気爆発のことを聞かされた。
震災当日は金曜日で、Oさんを含む児童たちは運動場に避難して親御さんが迎えに来た。当時は原発の事故なんて思いもしなかったから友達と「また来週ね」なんて挨拶を交わしてから最後、11年間会えていない(どこにいるか分からない)同級生もいる。
とみおかアーカイブミュージアムで映像で流れていた別の方のお話
岩手、宮城と福島の復興は根本的に違う。
岩手、宮城は町の再建が復興ではあるけど、福島は原発事故があるので、町にいた人達のつながりをどう取り戻すのか、そこから始めなきゃいけない。
お話の後、どうしてもOさんに聞きたかった。
僕のような外野の人間は震災で起こった原発事故から、どうしても原発反対!の一辺倒になりがちになる。今でもそう。
でも、実際に被災して、避難した郡山市で10代を過ごして成人後富岡に戻ってきて、震災から11年という長いのか短いのか分からない時間が経って、Oさんは被災者として今現在、原発に対して率直にどんな思いがあるのか。
Oさんが答えてくれたこと
もともと富岡町は原発があったことで、仕事もあったから富岡で生まれて原発関連で働いて富岡から出ずに人生を生きる人も多かった。だから震災前は若者も富岡町から出ずにずっと残る人も多かった。でも原発が無くなって富岡町で稼いで生きる術がほとんど無い現実から人が戻ってこない。
また、町に戻ってきても、今は震災前の町並みはほぼ無い。光景だけで言うなら別の町のよう。帰れるようになっても、町の景色が全く違うようになった町をふるさとと思えず、帰ってこない人もいるのではないか。
廃炉作業で作業にあたる人はほとんどが区域外から来ているから、夜はゴーストタウンのよう。
原発で町があったことを知っているから、原発については複雑な感情だとのこと。決定権のある(政治家のような)人達がしっかりと考えて欲しい。ただ良い悪いだけの議論や考えはできないというのが今のOさんの考えなのだと教えてくれた。
(語り部をしている)伝承館が日本のどこかにまたできるようなことはあってほしくない。でも一つ言えるのは震災と原発事故があったから今の自分があるというのも事実、だと言った。
震災がなければ富岡町にずっと住んで人生を全うしたかもしれない。でも震災で郡山市に避難してそこで繋がった人もたくさんいるし、こうやって語り部として活動する自分もいる。
「(震災があって)何だか別の人生を生かされているような気もすると思いますね。」
この一言は外にいる自分では絶対に想像することができなかったし、一番心に刺さった。
帰宅困難地域があることで、帰れる場所があるのに帰れない不条理に外野にいる自分としては勝手にずっと納得できなかった。でもOさんの話を聞いて、帰れる場所はある、でもそこが知ってる風景と全く違ってしまったという不条理も存在することに愕然とした。
避難して帰ってきたらふるさとの光景が全く変わってしまっていた時、それを自分は心からふるさととして想い、愛せるのだろうか…。
アーカイブミュージアムのお話とも相まって、ふるさととは一体なんだろう…。
この言葉の定義が自分の中で少し崩れた気がした。
ちなみに、Oさんはつーさんとも知り合いとのこと。
初めて福島の被災地をこの目で見て、話を聞いて報道だけが全てじゃないという当たり前に気付かされた。
ライブに対しての現場主義は貫いてるつもりだけど、物事を知ることにもちゃんと現場に行かなきゃいけないと思ったし、復興は道半ば、そういう安易な言葉では片付けられない現実を突きつけられた時、原発事故の深刻さを11年たった今、本当の意味で思い知らされた。
福島を応援する、確かに大事なんだけど、きっと福島産品を買うくらいしかできないんじゃないかと思う。でも、心のどこかでそれが本当に今この瞬間も復興に尽力している方々への応援に繋がるんだろうか…とも思った。
考えることが大事。
ライブ中、大木さんのMCでも聞いた言葉。
福島を直接目にしたら考えることをやめたくなってしまうくらいの現実があって。でも自分にできることは、
何ができるのかを考えるのをやめない。
そんなシンプルなことを思った。