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【倫理で学び元と繋がり戻った原点】

皆さん、おはようございます!
本日は貴重なご講話の機会をいただきありがとうございます。

当会幹事ならびに株式会社M&I代表取締役の田島昭太と申します。
会社の事業としてはBARの共同経営、起業支援、販売支援、不動産業を主軸にしております。

本日は私が倫理に出会って気づいた人生の反省点、そして気づいた大切な原点についてお話しします。

朝の貴重なお時間に、ひとつでもお役に立てるお話しになりますよう、精一杯頑張らせていただきます。

よろしくお願いいたします。

①自己紹介

最初に私の経歴についてご紹介します。

1986年11月10日鹿児島県曽於郡大崎町に生まれ、現在は港区在住の37歳です。
大崎町と言っても、鹿児島に行ったことない方は地理がピンとこないと思います。
関東平野でいうと今いる港区が鹿児島市内、私の地元は千葉の九十九里あたりに位置しています。

はい、鹿児島の人でも知ってる人が少ない田舎の小さい町です。

経歴についてはお手元の資料の通りなのですが、順を追って説明させていただきます。

鹿屋市の高校を卒業後、18歳で千葉市にある製鉄メーカーJFEスチールさんの協力会社に就職し

5年半で3か所の事業所を経験させていただきました。

最初の1年は現場作業員としてスコップとハンマーを片手に溶高炉などのメンテナンス
、その後JFE電磁鋼板に出向して製造管理、物流管理を3年、最後はJFE鋼板で3人の部下を統率するチームリーダーとして1年半物流管理を担当させていただきました。

そして23歳で退職して鹿児島に戻りました。

その後学生として2年生の専門学校に通いなおして、新卒で三菱商事グループのジャパンファームに入社いたしました。
ジャパンファームは年間5300万羽のブロイラー、16万頭の豚を肥育、製造、販売する企業です。KFC認定工場第一号企業として、従業員2400名、売上530億円の規模を誇ります。

なぜ新卒?という疑問が浮かぶ人がいると思いますが、この話は別の機会でこっそり教えますね。

私は環境本部施設課という部署で8年半勤務させていただきました。
担当は鹿児島県地区の年間5億円以上の電気代を適正化するエネルギー管理、年間設備投資額30億円にて起因する、建設土木工事、新規設備導入、定期的な設備回収、保全業務を統括する部署です。

それ以外にも衛生管理責任者、広報などの仕事も経験させていただきました。

とても順風満帆な会社員人生でしたが、
入社6年目にナルコレプシーという病気を発症したことをきっかけに、現場の第一線から退くこととなりました。
それ以降はISO監査員、技術開発、技術指導が業務の主軸になりました。

その後東日本事業部(千葉、岩手地区の新設)に伴い部署の編成が大きく変わりました。
新しい上司との、衝突が絶えなくなり

加えて元妻の滞納した税金を返すために始めた動画事業の成長タイミングが重なりました。

そんな中夫婦の関係は冷めきり、離婚から2ヶ月後の2021年10月

お世話になった会社を退職し、独立起業の道に舵を切りました。

独立後約半年間は鹿児島で動画と地域創生事業を進めておりましたが、さらなる成長を求めて2022年の6月2日に東京へ再び上京いたしました。

東京に移住に伴い動画、地域創生の事業はメンバーにすべて譲渡しました。

そこから未経験の営業分野への挑戦です。

2022年6月から1年間は投資商材の営業代行業

2023年6月に現在の株主から出資を受けたことを期にして、契約を終了しました。

株主の総務、事務、秘書業務を半年ほど務め、2023年11月に出資先のひとつである、株式会社M&Iの代表に就任しました。

M&Iは創業者の頭文字を取った社名ですが、社名はそのままにメンテナンス&イノベーション

徹底した保守の先に革新あり

をスローガンに経営を行っております。
これは倫理の学びから出てきた企業のスタイルです。

現在の仕事、経歴を聞くと比較的、順風満帆に聞こえると思います。

自分で言うのは恥ずかしいのですが、誰にも負けないくらい努力して、道を切り開いてきた自信はありますが、

同時に多くの苦難と反省点があります。

幼少期から両親からの虐待、貧乏からくる劣等感に苦しんでいた記憶があります。

そんな姿を隠すように、小学生の頃は人を笑わせるのが好きで、自分の存在意義をムードメーカーとして見出していました

しかし中学生の頃から家庭のストレスを発散するために、暴力行為で権威を示すようになっていきました。

いま振り返るとグレていた仲間は、何かしら家庭に不安を抱える友達ばかりでした。

高校は地元から離れてグレていた友達と距離をとるものの、暴力で己の存在を誇示する癖は抜けず、それに加えて、優等生のブランドを悪用して見えない形で同級生、後輩に許しがたい行動を繰り返していました。

両親に認められないむなしさを、暴力という形で表現する非常に未熟な人間でした。

表向きは強がってオラオラしていましたが、ずっとむなしくて寂しかったのを覚えています。

しかし唯一の生き甲斐がありました。

それは

小学校6年生のときお菓子に釣られて始めた野球です。

最初はすごく嫌だったのですが、段々と野球が好きになっていきます。

ボールを追いかけているときだけは全てを忘れられて、仲間にも恵まれて野球は青春時代の最高の思い出です。

中学校の進路選択は野球がしたいだけの理由で簡単に合格できて、野球部もあった鹿屋農業高校に進学しました。

なぜ進学校への挑戦を諦めたかというと
親からの言葉が大きかっです、

もし落ちて私立になったら野球なんて出来ないからね
うちはお金ないんだから

生き甲斐野球でしたので、なら鹿屋農業でいいじゃんとなりました。

残念ながら、野球で飯を食えるほど、うまくはなかったので、学業も野球と同じくらい本気で頑張ろうと必死だったことを覚えています。

野球以外にやりたいことがなく、進路選択を迷っていたとき、またとない大チャンスがやってきました。

それは

鹿児島大学の推薦入試の話です。
ちなみに論文だけ書けば入れる特別枠でした。

普通は飛んで喜ぶ話しですが、私はとてもない喪失感に襲われました。

何故かというと昔から優秀で勤勉な妹の影響で、いつも母から「昭太はぶさいくで頭も悪いんだから人に迷惑かけなさんなね」「自分のことをもっと冷静にみて行動しなさいね、あんたはバカなんだから」などなどです。

腹立つわけです

それで言い返すと

父から体罰で粛清されるというのが日常でした。

高校1年のときに父親を殺してやろうと決心して羽交い絞めにしたことをきっかけに、暴力こそなくなりましたが。

母からの暴言はその後も続きます。

貧乏な家庭でも野球はさせていただいてはいましたので、我慢していつも聞き流す日々だったのを覚えています。

そんな母は事あるごとに
「あんたにはお金かかってるんだから、早く働いてお母さんたちを楽にさせなさいね」

「うちはお金ないんだから、これ以上何かしたいとかいいなさんなさんなね。
あんた現実を見なさいね」と

こんなことばっかり言われて育ってきました。

ずっと否定ばかりされていましたので
夢も希望も持てない青春時代でした。

もちろん大学進学なんて反対されると思い、担任の先生には即答で

「いや受けません」と言ったのですが

そこで先生が

「田島君、君の家庭の事情は先生もよく理解してるよ。だからこそ推薦を受けて欲しいんだ、先生にだまされたと思って大学に行って人生を変えてくれ、先生も大学に行ってから人生がいい方向に進んだんだよ、先生を信じなさい」

目頭を熱くする先生を男にしたいと

意を決して両親に推薦の話を伝えました。

でもかえってきた答えは案の定

「うちはお金ないから無理だよ、現実をみなさい、行くなら全部自分でお金だしなさいね」

大好きだった地元が大嫌いになった瞬間でした。
期待するだけ無駄だったと泣きたくるのを抑え

「あっそか、ごめんね」

と返したのが昨日のことのように蘇ってきます。

めちゃめちゃ悔しくて部屋で泣いてました

そこから抜け殻のようになり、担任の先生のアドバイスと熱意を無視する形で推薦を断りました。

その情報を聞きつけた野球部の監督が推薦してくれた千葉のJFEスチールの関連企業に就職することになりました。

上京してからは親から一切干渉されない寮生活が始まりました。

同期がホームシックになる中、私は喜びでいつもウキウキしている変わり者でした。

こんな親のすねをかじって大学に行ったヘタレなんかには絶対に負けない!

お金と権力こそすべてだ!絶対成功する!

絶対に親を見返してやる!

この一心でした。

でも人生とは欲深く、感謝のない人間には多くの試練がやってきます。

社会人1年目こそ自分勝手、傍若無人で過ごせていましたが、あまりの問題児ぶりに早くも2年目を待たずして、親会社への出向が決まりました。

そして入社2年目から親会社の先輩からの、そうぜつな暴力とモラハラに耐え忍ぶ日々が始まりました。

その期間は3年半、公私関係なく続くパワハラ、モラハラ、まさに地獄でした。

それでも父といるよりはマシでした

まるでGPSのようにプライベートまで干渉さらて、体は暴力によるあざだらけでした。

立場と会社間の取引的に
やり返すともできなかったので、とてつもない忍耐力を鍛えることができました

本当に

耐えて耐えて、たまにやり返して
やっと認められ親会社への転籍が2008年の終わりに決まりました。

でも、転籍予定3日前にリーマンショックの煽りをうけて昇格は白紙撤回となりました。

その後自分の会社に戻り、部下3人を抱えるチームリーダーとなったのです。

23歳になる年に久々に帰省したときに親友から、お前は帰ってこい、と諭されたことがきっかけで、2010年11月に鹿児島に帰省しました。

3.11の3ヶ月前の出来事です。

鹿児島に帰ってからは千葉での苦難が嘘のように何もかもが順調でした。

再び通った2年生の専門学校を主席で卒業してジャパンファームに転職

良い会社に入って、優しい先輩から懇切丁寧に仕事を教えをいただき、好きな場所に住んで、本当に素晴らしい会社員生活でした。

入社1年目から前職を超える収入をもらったことがきっかけで、

それまでの変な野心は消えてなくなり、利益向上と地域創生のためにサービス残業を喜んで進んで引き受け、ボーナスの半分は自己投資。

電気工学、マネジメントを学び、仕事も勉強も楽しくて幸せすぎる日々を過ごしていました。

そのバランスが崩れ出したのが30歳での結婚

です

唯一体に入れることのできなった家族の幸せをつかんだ時から、感謝が当たり前に変わってしまい。

それまでの積み重ねが崩れていきました。

職場での孤立、夫婦の不仲、両親との衝突などなど

でもそのときは

"俺はこんなに頑張ってるのに、何で誰も理解してくれないんだ"

こんなことばかり考えていました。

結婚して1人じゃなくなったはずなのに、高校生までの寂しくてツラい人生が戻ってきたのです。

1年半前に、倫理と出会うまで、その理由がずっとわかりませんでした。

②倫理との出会い

私が倫理法人会とご縁をいただいたのは独立2年目の2022年11月

倫親である緑川さんからの招待がきっかけでした。

参加1回目となるMSで衝撃を受け、その日のうちに入会を決めました。

それまでいろんなセミナーをきいていたので正直、期待はしていませんでした。

初参加の講師は御成門で中華料理屋のエイケイさんを経営する森園さんの講話でした。

本当に衝撃的でした。

これまでのセミナーでは成功談しか聞いたことなかったので、今日もいいノウハウもらっちゃおうかな。くらいのノリでした。

でも内容が本当に衝撃的でした。

それはコロナで売上がゼロになったときの経営者としての悩み苦しみ

そして倫理の実践を取り入れて

従業員と一致団結して会社を立て直したという話しでした。

その全てが衝撃でしたね。

中でも一番印象に残ったのは、一貫して感謝という言葉を使っておられたことです。

感謝かあ。。。

自分そんなを本心から思ってたのって、いつだろう。。。

正直その時は思い出せませんでした。

それまで私は人生を全部自分で切り開いて来たと勘違いして生きていることに気付かされ。

まことに自分が恥ずかしくなりました。

ずっと消えない心のわだかまりが倫理の教えで変わるのではと思い、すぐに入会をきめました。

③倫理の学びでの変化

初月こそ頑張って通いましたが、その後通わない日々が半年ほど続きました。

他会には気分でフラフラとはしてました。
学びでなく、遊び感覚です。

そんな不真面目な私に港区倫理法人会の先輩方はとても優しかったです

お金を儲けるためだけに、昼間からお客様とお酒を飲んで、お金持ちこそ正義だと、飲んで飲んでお金を儲けることばかり考える日々を

そんな簡単には変えられませんでした。

まさかこうやって講師を仰せつかるなんて夢のまた夢の自堕落な生活です。

お金には困らない生活でしたが、何故か心の中にあるむなしさは消えませんでした。

おれは何に悩んでんだ…

ずっとそんな私に気をかけてくださる、港区の先輩方、そして吉村さんからの毎週のモーニングコールは定番でした、

正直あの時は嫌でした笑
いまでは大感謝です!

そんなこんなで参加しない日が続いていたのですが、2023年の5月くらいから、だんだんと朝の電話がなくても起きられるようになってきました。
その頃に天の声を聞いた記憶があります。
いい歳して人に心配と手間をかけさせて恥ずかしくないか?

それは両親と先祖のルーツを調べたことがきっかけでした。
父は誰にも言わない苦難と、私より遥かに努力して這い上がってきたと知りました。
忌み嫌っていた地元と両親の誤解が徐々に解けていった頃でもあります。
まずは倫理に真面目に取り組んでみようと決心した瞬間でした。
2023年の5月あたりから他の単会にフラフラするのは辞めて、必ず水曜日の港区だけは行くぞ。
と自分に約束して、飲み接待は前日に極力入れないようにするところから始めました。

真面目に倫理を学び出してから営業成績が2倍、3倍になり、売掛は更に増えていきます。

普通腹を立てる事態ですが、今日は最良の一日!か、これは転機なのではと交友の幅を広げていくようになります。

そしてさらに倫理を学ぶようになりました。

特に

第4条 人は鏡、万象はわが師

第5条 夫婦は一対の反射鏡

この2つの言葉に影響を受けています

仕事においては、どこか根底の部分で、相手のせいにして逃げて、また違う場面でも逃げて、多くの人々を悲しませたこと。
夫婦生活においては、俺がお金を稼いでるんだから、文句をいうなと、心の底で思っていたこと。

そのどちらにも感謝と、相手の立場に立った行動が欠けていました。

いまは親に感謝、先祖に感謝、いつも一緒にいてくれる仲間に感謝するようになり。
どんなに悪い局面が訪れても前向きに、そして感謝をもって行動できるようになりました。

本当に魔法がかかったように

その気づきからすべて上手くいくようになっています。

同時に働き方を見直すきっかけにもなり、人のため、世のために、自分のできることは何だろうか

そしていまのスタイルにも繋がりました。

また前の妻には電話で、色々と辛抱させてごめんなさい

と電話もしました。

自分の愚かな部分を認めれば認めるほど、自分の生きている意義を見出すことができたのです。

いつの講話かは忘れたのですが、親を否定するということは自分の半分を否定し、自分の人生をも否定するのと同じこと、その言葉はいまでもずっと心に残っています。

④最後に

私は倫理と出会って、大好きだったジャパンファームでの8年半がいかに、幸せな時間だったかを改めて思い出すことができました。

ここが本日のテーマでもある原点です。

ジャパンファームの時は
会社のためはみんなのため、地域創生のお手伝いは富の再分配だと感じ、自分のことはさておいて、必死に頑張っていました。

こんな俺に多くのチャンスがあるなんて、感謝しかないと、心の底から思っていました

そして経済的に一番豊かだった頃です。

でも結婚を機にして幸せは当たり前になり、感謝の気持ちは薄まり、徐々に努力を水の泡にしていたのです。

産んでくれた両親への感謝、元気な体への感謝、毎日元気でいられる感謝、どんなときでも救ってくれる仲間の存在

本当に自分は幸せものです。

私の使命は日本創生だと思っています。

でもいま日本の若者の多くは、希望を見失っています。

私の目標は大実業家で大金持ちになることが夢ではなくなり、いまは政治家として弱者を救うことが人生の意義だと考えています。

まずはその前に、経営者として1人でも多くの社員を雇うことができる、人間力と経済力を身につけること

そして日本の政治と歴史をしっかりと学び、鹿児島の長として活躍する政治家になるため

利他の活動に勤しむこと

この2つが大切だと思っています。

小さなことからコツコツと、当たり前のことを当たり前に誰よりも必死に頑張る

そして感謝を忘れない

これからも自己革新を図り、1人でも多くの経営者にの力なりたいと考えています。

これからも益々頑張ってまいります。

そして倫理で一緒に学び高め合いたいと思います!

これにて講話を終了といたします。

ありがとうございました!

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