西東京とホストと肉塊
今から随分と前のことである。
私は西東京のフォトスタジオでカメラマン兼レタッチャーとして働いていた。この仕事に応募していなければ、恐らく私は西東京とは縁がなかったと思う。
フォトスタジオ…なんていうと七五三さんやウェディングフォトをイメージするかもしれないが、そんなことはなくキャバクラや風俗の夜職専門のフォトスタジオだ。
当時、西東京付近には所謂キャバクラや夜職専用のフォトスタジオが全然なかった。写真を撮るなら新宿の「Seek After」へ…といった時代だった。(そんな「Seek After」もまさかの閉店…)
またこの頃の西東京の水商売事情は都内でNo1になり、その後引退した人が独立してお店を構えることが多かった。本格的な「西東京のバブル」が来る前のことだ。(←名称少し変更してます。)風俗も主にデリヘルが主流だったが、当時はグループ店が新規でお店を出そうとしたり盛り上げようとしていた。
そんな「西東京をいっちょ盛り上げようぜ!」的な感じで出来たのがこのフォトスタジオである。西東京の「Seek After」のようになれれば…といったところだった。
どの媒体の仕事であれ、とにかくキャストが入店したらすぐ宣材写真が必要だった。
勿論、名刺や仕事用品など他にも必要なものがあるが何よりも都心部と同じくらいキャストの写真にこだわりたいところだったのだ。
知る人からすればびっくりするかもしれないが、当時このエリアでは風俗のキャストの写真も花鳥風月とかで撮ったようなプリクラ1枚とかのお店もあり、「写真」に関してはかなり自由だったのである。
ちょうど「小悪魔アゲハ」が人気になり、プリクラの延長のような感じでキャストが宣材写真にこだわり始めた頃だと思う。
店側に一方的に撮られたあまり気に入らない自分の写真を使うよりも、自分の意思で気に入る写真を撮りたい…!そんな意識がちょうどキャスト達に芽生えた頃なのではないだろうか。
そういう意味だと「小悪魔アゲハ」はとても革命的な雑誌だったと思う。私も他カメラマンもこの時は「小悪魔アゲハ」が主にレタッチの参考資料だった。
ちなみに当時の男性向け他キャバクラ雑誌と言えば、「ベストクラブ」、また風俗だと「夜遊び隊」などが健在でありまだ元気だった頃だ。
◇
そんな感じでいきなりボンッ!と西東京に出来たフォトスタジオだったが、このフォトスタジオはかなりの曲者が多かった。
当時の職場の人達を簡単にザッと紹介したいと思う。
▪社長…元◯◯◯。現役時代に覚醒剤取締法で捕まり、出所後にフォトスタジオを設立。社長の逮捕劇の話はまるで落語のような感じで耳にスッと入ってくる。その流暢な語り口からつい何度でも聞きたくなってしまう。
▪ボーズさん…本当は濃い熟女が好きなのにオネエキャラを貫き通している癖の強いヘアメイクさん。何故かいつも白タンクトップを愛用。でもとても面倒見が良かった。
▪不倫ちゃん…不倫沼でいつも自分語りのヘアメイクさん。いつの間にかいなくなっていた。
▪Team☆マリマン…デザインチーム。見た目はいかにもデザイン系にいそうで、なんか「ハナレグミ」とか聞いていそうな雰囲気だが、実は熱狂的なマリリン・マンソンの信者。
▪クッキングパパ…店の店長で何気に元カレ。クッキングパパによく似ている。サッカーと相撲が好き。他あんまり書く事がない。
▪美大ちゃん…夜職専門のフォトスタジオなのにも関わらず、空間デザインをもっと勉強したいっ!と言って間違って応募しちゃった人。間違って応募した割にはプライドが高かくいつの間にかいなくなっていた。
・金色疋殺地蔵…その名の通り、マユリ様の卍解、金色疋殺地蔵によく似たカメラマン。女好き。彼に関しては「BLEACH」を見る度にたまに思い出す。
・熊さん…今ではSNS炎上常連の人物になってしまった。とにかくよく火災が発生しているので、燃え盛る煙幕越しに度々目にする。ちなみに彼は音信不通になり、この職場をバックれた。
これ以上書くと、「おっと誰かが来たようだ」と言った状況になり兼ねないので登場人物紹介はこの辺にしておく。
正直このメンバーだけで何か1本記事が書けそうな気もしなくはないが、思いを込めて「文章を書く」ほど私は全く人間関係を構築しなかった為、今回切りの登場人物になってしまうだろう。残念なところである。
強いてこのメンバーと何かしら関わりがあったとすればせいぜい、クッキングパパと7年間くらい付き合ったくらいだ。
◇
勤務初日はいきなり警察が来て非常に驚いた。「すみません。警察です。ちょっとお時間宜しいですか?」というドラマでよく見るアレが目の前で起こっているのである。用件を聞くとこのフォトスタジオに〇〇さんという方が来店されていませんでしたか?とのことだ。
当然だが私は何も知らないため、この件に関しては金色疋殺地蔵が対応していた。
金色疋殺地蔵によると〇〇さんの行方が分からず失踪届けが出されたらしい。
私はドラマ以外で「失踪届け」のフレーズを聞いたことがなかったので目を丸くした。
彼はそのまま、「この辺はまぁ治安が悪いからさぁ〜」と続けて言い、治安の悪さをどこか自慢気に金色疋殺地蔵のような顔で笑っていた。
私はこの職場で上手くやっていけるのだろうか…そんな不安が頭によぎった。
◇
西東京には西東京ならではの独特な雰囲気があった。治安の悪さは池袋とどっこいどっこい、若しくは池袋の方がちょっと上かもしれない。だが、渋谷や新宿ほどクール過ぎる雰囲気もなく地元意識の強さや地元民にはやたら融通が利くところは少し池袋に似ていた。
あまり馴染みのない場所だと慣れるまで萎縮するかなと思いきや、私は意外とこのエリアに自分でもびっくりするほどスッと馴染んだ。
仕事に関してはく経験値が低い分、迷惑をかけないように頑張ったが、西東京ギャルはみんなとても気さくで優しかった。
私は金色疋殺地蔵や熊さんほどカメラマンっぽさがなく、また年齢もキャストと近かった為、少しでもキャストを不安にさせない為に撮った写真は都度仕上がりをみせてお互い確認しながら調整していった。
店全体の流れよりもとにかく「キャスト最優先卍」だったので、金色疋殺地蔵や熊さんに時間がかかり過ぎ!とよく叱られたが、その分レタッチの融通も「キャスト最優先卍」精神でかなり利かせた為、西東京ギャルの信用は割と早い段階で得られたと思う。
(私の暴走した「キャスト最優先卍」精神のせいで、度々金色疋殺地蔵と熊さんにご迷惑をおかけしたことはこの場を借りてお詫び申し上げます。そして西東京ギャルの皆さん、当時は本当にお世話になりました!)
◇
ある日、職場に行くとホストらしき人と社長が話をしていた。
そのホストはこのエリアでよく見かけるホストとは違い、ただ見た目がチャラいとかではない独特のオーラと貫禄があった。印象としては、稚拙な表現だがライオンのような強さだ。単純に見た目の派手さよりも「強さ」という「力」の印象の方が残った。
Team☆マリマンに聞くと店の看板と店内写真の打ち合わせで来店したらしい。クッキングパパも「今一番、西東京でイケイケの人だから…」と話かけてきた。
店内写真の仕事は熊さんと一緒に行った。夕方で開店の時間が迫っていたのもあり慌てて撮影をし、あれよあれよと言う間に仕事は終わった。かなり前のことの話だが、店内の煌びやかさとそのホストのライオンのような強さは今でもよく覚えている。そのホストと特に何も話さなかったが、私はなんだか場違いな自分に申し訳ないような感じで「お疲れ様です」と会釈をした。
◇
そんな感じでフォトスタジオは開店したばかりの頃は繁盛して頑張っていたが、一通りザッとエリア内の仕事を終えた後は徐々にポツポツと仕事は減っていき、暫くしてあっけなく潰れてしまった。
馬喰町などで仕入れた高級志向のドレス販売にも手を広げてみたが、あまり上手くいかなかった。
理由も色々あったかもしれないが、後にやってくる「西東京バブル」のことを考えると都心のような真似事をしてもこのエリアとはなかなかマッチしない部分がたくさんあったのだろう。
店が閉店した後も私はクッキングパパと付き合っていた為、よく西東京には訪れていた。これと言って目新しいものがこの場所にあるわけではないが、西東京は私にとって居心地が良かった。
当時は池袋から遠い!とよく文句を言っていたが、もう西東京に訪れる目的がなくなった今ではあの場所がとても懐かしく感じる。
ある日、クッキングパパとテレビを観ていたらとんでもないニュースが目に飛び込んで来た。あのライオンのような強さを持ったホストが殺害されたというニュースだった。
それも、ただ殺害されたのではなくバラバラにされ、さらに薬剤で溶かされ、残ったのはインプラントと顔の骨の一部だけだったらしい。
クッキングパパも私も彼が失踪したことは知っていたが、まさかこんな結末になっているとは予想もしなかった。
クッキングパパは事件の内容の酷さに若干興奮していたが、それよりも私は不思議な気持ちになった。
会話はせずとも、自分の会ったことがある人間が薬剤で溶かされ、肉体もろとも溶かされなくなるということが初めてだったのある。
あんなにライオンのような強さのオーラを放つ人がインプラントと顔の骨の一部だけなのだ。
想像がつかないし、とにかく「実感」が沸かない。
私はこの事件のニュースを見て、ただ騒ぐというよりも人が亡くなっているのにも関わらず、あまりにも実感が沸かない自分に戸惑いを感じていた。
◆
◆
ちょうどこのフォトスタジオに勤めた頃の前後辺りは、父が亡くなり、祖父が亡くなり、立て続けに不幸があり「人の死」についてよく考えていた時だった。
また「人の死」と自分の感情の折り合いに「不気味さ」を感じていた時だった。
感情と実感がどこかちぐはぐなのは子供の頃から感じていたが、大人になったらいつか「普通」になるだろうと思っていた。
私は父の死の時も祖父の死の時も実感が沸かなかったのだ。子供の頃からの「ちぐはぐ」なままだった。
だからお葬式の時も泣けず、周囲の親族に良く思われなかった。
泣きたい…いや泣けなかった。
ドラマや映画のような号泣が出来なかったのである。それよりも実感がない。ブワッと感情が沸き上がる感じがないのだ。
父と祖父と過ごした時間の少なさもあるが、そうは言ってもなんだかそれがとても「人として非常識」で、私がとても「人として欠落」しているのではないかと当時は凄く不安になった。
私がこの事件を今でもちゃんと覚えているのはこの時ふと決意したのである。
この時期に考えた「人が死ぬこと」の実感のなさ、また私の欠けた感情の代わりとしてせめてちゃんと自分の周りで起こった「人の死」は記憶して覚えておこう。そう思ったのである。
それがなんの意味を持たず、ただの自己満足だとしても私は忘れない。
人の死の実感にしても生きてる実感にしても「実感」そのものに重点を置きすぎて考えてしまうと、なかなか「感情」が追い付かない。だが、この2つがいつかピタッと重なれば当時の自分の感情に折り合いがつく気がするのだ。
私が少しでも世間の感覚と調和出来るように、忘れぬよう「記憶する」という掟を私は私に課した。
そう思うと、私にとって「記憶」や「思い出」といった類いのものはある意味では一つの試練であり、もしかしたら永遠のテーマなのかもしれない。
美味しい肉を頬張る時、そんな西東京のフォトスタジオのことをほんのりと思いだす。
そして、食の実感だけはいとも容易く感じるのが悔しい。
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