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「へぐらし、へぐらし」〜黄昏時、母の記憶

(あらすじ)このエッセイでは、筆者が「きびしょ」(急須)という母の里言葉について調べるうちに、「唐音からおん」(漢字の音読みの一つ)や古い日本語の歴史に興味を持つ様子が描かれています。言葉の意味を探る過程で、母の里言葉や疎開生活の思い出が蘇り、言葉の奥深さとその魅力が明かされていきます。


(プロローグ)

発端は、きびすである。

「猿蓑 集之六 幻住庵記」(*1)の文中に、

「……北海の荒磯にきびすを破りて」(*2)とある。

「きびすを返す」と、いう言葉に出会っているので、辞書に当たる必要はないと思ったが、念のため辞書を取り出した。




きびす(踵)とは、かかとのこと。
(主に西日本での言い方)と、辞書に載っている。
成句として、
「きびすを返す。きびすをせっする」などが例示されている。
            

三省堂 スーパー辞典3.0

「きびす」が、西日本地方で使われている言葉と知り、母の使っていた言葉「きびしょ」という、似た、懐かしい言葉を連想した。
さらに、母の使っていた言葉が次々と広がって行った。


「きびしょ」

「きびしょ」とは、急須のことである。

長く、母の里言葉だと思っていたが、愛用の電子辞書に当たると、「きびしょ」が載っているので、びっくりした。


きびしょ
[「急焼」の唐音からおん(漢字の音読みの一つ)の転 ]、急須(きゅうす)

唐音

さあ大変、今度は「唐音からおん」が分らない。

唐音とは、漢字の読み方の一種らしい。
漢字には、「中国語の発音」である音読みがあり、音読みは、「いつの中国語の発音か?」によって、呉音・漢音・唐音(宋音)に分類されるようだ。(*3)

行灯

知らない言葉に出会い、その意味が分かると、何とも言い難い喜びが浮き上がってくる。
「唐音」、「漢音」、「宋音」、「呉音」と、調べていった。

(後欄に、参考として記載 *4. ) 


ゴチャゴチャと訳の分からない漢字の読みを追っていくうちに、

「唐音」(漢字の音読みの一つ)の例
「行灯」を「アンドン」、「普請」を「フシン」
と読む類。

三省堂 スーパー辞典3.0

まず、「行灯あんどん」のその音読みは「唐音」に当たるものだと知った。


そしてタクシーの屋根の上にのっている灯りを、「行灯あんどん」と言い、江戸時代の灯りとしか思っていない行灯が、今も生きていることに驚いた。

行灯に誘われて、その先へ、またその先へと寄り道、迷い道をしてしまうことになった。



タクシーの屋根にのっている「行灯」を見ると、馴染みの会社が一目で分かる。
各社のタクシーが数台並んでいるとき、お馴染のタクシー会社の行灯に行き当たるとホッとする。

私にとって、行灯は映画やテレビの時代劇に出てくる古い言葉で、家の内や軒先を照らす照明道具である。
私は、タクシーの屋根に乗っているそれを、自分勝手に「屋根灯」と呼んでいた。それで意味は通じた。

馴染になったタクシードライバーが、ある時、「あんどん」と呼んでいると教えてくれた。
(へー、行灯ね……)
と、私は、奇妙に思った。
江戸時代の言葉が、急に飛び出してきたような感じがしたのである。
実際の所、今もタクシーの屋根にあるそれを、行灯と呼ぶことには馴染んでいない。
(ハイテクの時代に、行灯とは……)
という思いである。


漢音とは、
「京」を「ケイ」と読む類。とある。

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「けい」もコンピューターの時代で活躍している。


呉音とは、
「男女」を「なんにょ」と読む類。とある。

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言いにくい言葉、「老若男女」も、時として話題になる。 





こうして漢字の音を調べていくと、時折漏らしていた母の言葉に、何やらそれに通ずる古い言葉があるのに気がついた。
いくつか紹介する。

母は、着物などを入れる蓋付きの入れ物のことを「フツ」と言った。


「フツ」とは何か。

母は、大正3年に、当時、孤島といわれた長崎県西彼杵郡の「椿の里」集落に生まれた。
小学校を卒業する12歳までそこで暮らした。
「椿の里」は交通の便が悪い所で、そのためか、新しい言葉が入ってくることが少なかったようだ。
さらに、集落の西側は、東シナ海に続く荒磯に面している。
そこで使われる言葉は、鋭く短い。
高齢の漁師達が声高に話をしているのを聞くと、何か揉め事かと思うことがあったそうだ。


母の言う「フツ」に戻る。

フツとは、上を開く大型の箱。唐櫃(からびつ)のことである。
母は、ご飯を入れるお櫃は「おひつ」と、発音していたが、衣装を入れる櫃は、「フツ」と、発音していた。


また、「御器ごき」、「おてしお」(小皿)という言葉もよく使った。

台所では、流司の横に、洗った「御器ごき」(茶碗や皿)が「御器目籠ごきめご」に伏せられていた。
母の言う「御器目籠ごきめご」は、竹などで編んだ粗い大きな笊のことである。
「手塩」(てしお)は、「手塩皿」(てしおざら)の略である。
母は、小皿のことを「おてしお」と、言っていた。


田辺聖子さんの作品の中には、「おてしょ」が出てくる。
これは、広く使われた言葉のようだ。


さらに、母の使う生活用品に「バラ」、「ショウケ」、「カガリ」などというものもあった。


「カガリ」

椿の里で使っていたカガリは、稲藁で作った縄を使い、粗く編んだ物入れである。下げられるように、しっかりした両耳が付いていた。薩摩芋の収穫時に活躍した。
重い収穫物を入れても大丈夫で、頑丈に作られていた。

愛用の電子辞書に当る。

カガリとは、

① かご、竹で組んでつくった荷かご。

② 木や竹を四角く組んで火をつける組み木

③ ふせご

と、出てくる。


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「ふせご」は、源氏物語、若紫に出てくる。
若紫が雀を捕まえようとして仕掛けをしていた場面である。

「ふせごの中に込めつるを、いぬきが逃がしつる」という、若紫がベソをかいている場面がある。
これは笊のような物であろうと想像している。


古語辞典で「かがり」を調べると、「篝」に行きついた。


「篝」
① かがり火をたく鉄製のかご。

② 篝火の略。篝火の絵が出ている。篝にたく火。


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これまた、源氏物語第27帖の巻の名である。


長良川の鵜飼い船に乗ったことがある。
舳先に掲げられた篝火で、水面がゆらゆらと揺れて光った。
その籠は、農作業に使った「カガリ」と格好がよく似ていた。



「きびす」で、寄り道して、「カガリ」まで、迷い道をした。
この「篝」と、とみ爺の家にあった「カガリ」が同じものか否かは分からないが、形は似ている。


「バラ」、「ショウケ」は遂に詳しく分からなかった。
「バラ」には蒸した薩摩芋が入っていて、台所の風通しのいい所にぶら下がっていた。取っ手の付いた籠である。

「ショウケ」は、丸い平たい竹製のざるである。
ざるそばを盛る笊と似たものであったように思う。
「バラ」も「ショウケ」も、今となっては、ゴチャゴチャで区別が付かない。

「へぐらし、へぐらし」

母の里言葉を浴びて育った私は、昔々の物語を読んでいて、ハッとすることがある。


疎開生活で母は、幼子2人を抱えて、朝早くから、山に畑にと出かけ、毎日、働き通しであった。
西の浜の沖に夕陽が沈むと、屋敷の庭には夕闇が忍び寄る。
家の中はランプを点けないと手元が見え難くなる。
特に、秋の釣瓶落としの夕方、仕事に追われて夕餉の仕度が遅くなると、母は
「へぐらし、へぐらし」
と呟いて、バタバタと動き回った。
私は何となく羽釜の底がススで黒くなっている様を想像した。
釜の底がススで汚れると、煮炊きの効率が悪くなるといって、母は、いつも丁寧に羽釜の底を擦って磨いていたからだ。
しかし、それは、私の勝手な思い込みであったと後にわかる。




70代に入ってすぐの頃。大学教授だった方を招いて、月に1回、2時間ばかり、みんなで源氏物語を読み、先生の解説を聞くという読書会に入った。
その会で、「胡蝶の巻」に入った時、「ヒクラシ」という言葉に出会った。
つまり「日暮らし」である。
蝉のヒグラシは、晩秋、夕暮れ時に「カナカナ」と鳴く。

私は、「日暗し」が訛って「ヘグラシ」という母の言葉にやっと、気づいた。


次の章は、「カンコロ」。
これまで作中に何度か出て来た、薩摩芋の加工品である。

(田嶋のエッセイ)#13
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第9章「きびしょ」

2024年7月1日
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。


参考


参考

(*1) 猿蓑 集之六は、
「評釈 猿蓑」 幸田露伴・著
(2001年2月22日 第9刷発行 岩波文庫)

(*2)
「……北海の荒磯にきびすを破りて」
(……北海の荒磯(荒れた海岸)で足を痛めて苦しんだ……)

(*3) 日本語の発音も時代によって変わってきたように、中国語の発音も変化してきた。
音読みは、「いつの中国語の発音か?」によって、呉音・漢音・唐音(宋音)に分類されます。
この「呉・漢・唐」は王朝名ではなく、いずれも中国自体のこと。

日本語教育ナビ

(*4)

唐音とは、

日本漢字音の一。
平安中期から江戸時代までに日本に伝来した音の総称。
平安中期の禅僧の伝えた唐末より宋、元初頃までの音。江戸初期の僧隠元の伝えた明末の音、長崎の通訳の伝えた清代の音などが含まれる。
「行灯」を「アンドン」「普請」を「フシン」と、読む類である。


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漢音とは、

奈良時代から平安初期にかけて、遣唐使・音博士や日本に渡来した中国人によって伝えられた、随・唐代の洛陽(今の河南)や長安(今の西安)などの中国の黄河中流地方の発音に基づく音。
「経」「京」を「ケイ」と読む類。
平安時代には、それ以前に伝えられていた漢字音に対して、正式な漢字音の意味で正音とも呼ばれ、多く官府や学者に用いられた。

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宋音(そうおん)とは、

「宋から元初期の頃までに日本に伝来した漢字音。
「行」を「アン」、「鈴」を「リン」と読む類。一般には、唐音と呼ばれる。


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呉音
とは、
「日本における漢字音の一。
漢音の渡来以前に朝鮮半島経由で伝来した。中国南方系の字音に基づくといわれる音。「男女」を「なんにょ」と読む類。
漢音を正音と呼ぶのに対して、なまった「南の音」の意で平安時代以後呼ばれるようになったもので、仏教関係や官職などに広く用いられた。

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