椿の里の思い出と精霊流し〜遠い日の祈り
8月15日は、終戦記念日である
1945年、日本の国は戦いに敗れた。
私はその時、6歳、小学1年生(正確には、国民学校)でした。
思えば、長い年月が過ぎ去ったものだと感慨無量である。
日本の民は、太平洋戦争という国難によって、あったら*1 幾多の命を奪われた。
長崎では、8月の盆の行事は精霊流しで終わる。
迎え火を焚いてお迎えしていたご先祖様の御霊を、精霊船で、西方浄土にお送りする日である。
長崎の盆の伝統行事である。
さだまさしの歌『精霊流し』*2で、それを知った方も多いことでしょう。古くは、渡邊はま子の唄『長崎物語』*3 で、ジャガタラお春の悲しい逸話と共に、出島の沖を流れていく母の精霊船を知っている方もおられるでしょう。
精霊流しは、長崎市を中心に、古くから続いている。
長崎周辺の集落でも小規模の精霊流しが継続されている。
私は、1944年に父祖の地・椿の里に疎開して、その地の精霊流しを知った。
こども会の活動として、精霊船の飾りづくりに加わった。
椿の里で3年余り暮らした。
その後、長崎市の原爆焼跡の地に建てられた住宅へと移転した。そこでの暮らしは、混乱と目まぐるしい変化の連続で、無我夢中の明け暮れとなった。精霊流しとは無縁な年月を過ごした。
精霊流しが、戦後すぐに復活したことも知らないままであった。
私は、長崎の地で総ての学校教育を終えると故郷を離れた。
大阪で職を得て結婚した。
それからは、仕事と子育てに追われる長い日々が続いた。
長崎の精霊流しを見ることはおろか、思い出すこともなかった。
父が83歳で、難病を患い、病の床についた。
入院治療は、遅々として進まず、父はゆっくり弱っていった。
私は、同窓会だ、学会だと言いつくろって帰省し、父を見舞った。
「今年は、ようけ(たくさん)長崎で会合があるんだなあ」
父は、私の頻繁な面会を喜んでくれた。
最後は、8月のお盆に長崎へ行った。
父は長い入院生活の末、自力では起き上がれない状態になっていた。
8月15日の夕方、掛け布団を背もたれにして、ぐにゃぐにゃの父を起こして支えた。
病室の窓の向こうを、次々に精霊船が流れて行った。
父と共に無言で見送った。
父は、9月に入ってすぐに亡くなった。
それから幾星霜
つれづれなるままに、『評釈 猿蓑』*4 の頁を繰っていると、神を詠んだ俳句が目に留まった。
神も仏も特に信じてはいないが、何故か気になった。
神迎 水口たちか 馬の鈴
珍碩 「猿簔」 冬
10月は神々が出雲へ集まるとか
露伴の評釈には、
「10月は、神々が出雲の国に集結するので神無月という」
とある。
10月の出雲へ道は、神々で大渋滞、大混雑であろうと想像した。勝手に、神々は牛車で移動していると想い描いていた。
が、句によると、馬となっている。どうやら宿場(駅)で馬を替えての長旅であるらしい。
神々はさぞかしお疲れであったろう。
世の神々が、出雲ヘと集結するとなると、その間、出雲以外の国々の神社は神不在となる。
心細いことである。
1日2日ではない、ひと月ばかり神社は空となる。
上記の俳句について、露伴の評釈は次のとおりである。
「世間では10月朔日に、神々が出雲大社に出かけるという。これを送る意味で神送りといい、10月を神無月とする。その晦日に、神々が出雲より帰るという。これを迎える意味で神迎という。水口は駅である」
椿の里の西盛神社
神不在ということから、幼少時にお参りした西盛神社を思い出した。
そこには、神様がいる気配はなかった。というのは、神社と名がついているが、実態は、小さな祠がポツンと鎮座しているだけであった。
集落の人びとは親しみを込めて『にしもりさん』と呼んでいた。
神主も坊守もいたかどうか、定かではない。
祠の周辺と、そこへ至る石段とその周辺は、何時もきれいに掃き清められていた。誰かがまめに草刈りをし、清掃しているようであった。が、その人影をみかけたことがない。
にしもりさんは、とみ爺の家*5 の近くにあったので、記憶の底に残っていた。
6歳の時から3年間、父祖の地・椿の里で暮らした。
とみ爺の家は、集落の西の端にあった。
庭の先には数本の椿の木があり、浜から吹き上がる風が木々の間から屋敷全体に広がっていた。
崖の下は、西の浜である。その先は、遠くまで波がたゆたい、晴れた日には、遙か彼方に五島列島の島影が見えた。
椿の里は、八重本村から幹線道路をたどってきて、峠を登りあがる。そして、頂上から西の道を下る。
椿の里は、そこから西の浜へと扇状に広がっている。
集落の中央の、編み目状の小道を登りあがると、西の浜ヘの下り口に至る。
そこから左へ、崖沿いの道をあがると、とみ爺の家の庭に行きつく。
とみ爺の家の玄関に至る細道は、西の浜へ至る道の少し手前で、にしもりさんヘ行く道から入る。
神社へ行く石段がある。そこを数段上って、浜側へ伸びる細道を行くと、とみ爺の家の玄関に辿りつく。
石段を真っ直ぐ登ると、にしもりさんの祠が見えてくる。
母は、疎開してすぐに、私を連れて、にしもりさんにお参りをした。
森は、シンと鎮まっていた。
母は、キツイ顔をして言った。
「祠から奥へ、入ったらいかんぞ。イラズノ森、いうて、迷い込んだら出てこられん!」
私は、その後、おっかなびっくりで参拝することになった。
母に言いつけられて、何度も、お参りしたが、祠から奥は見ないようにした。
中国大陸で戦っているという父の無事を祈った。
同級生のセーちゃんの家は、にしもりさんの祠の下側にある屋敷である。
セーチャンの家に遊びに行く時は近道をした。
祠へ行く石段の途中で、東側のセーチャンの家の垣根をくぐった。
簡単な竹垣で、子供が通れる位の隙間があった。
潜った所に、風呂の焚口があった。そこを抜けると、セーチャンの家の庭に出る。
セーちゃんの家の庭は広い。
庭の先に、にしもりさんへ行く東側の石段が見えていたが、私は一度もその道を上ったことがない。
もしかしたら、そこが表の参道であるのかもしれない。
にしもりさんで、お祭りが行われた記憶はない。
セーちゃんの母様は、私の母と小学校の同級生である。
疎開で淋しい思いをしなかったのは、セーちゃんの家で歓迎されたことが大きい。セーチャンのご両親の名前は今も記憶している。
お二人ともすでに亡くなっているが、私の思い出の中では生き続けている。
にしもりさんから、精霊流しへ
長崎の精霊流しは、近頃、観光のようになっているが、盆の大事な伝統行事である。
初盆の家では、親戚一同が集まり、みんなで、大きな精霊船を作る。供物の包みを載せて、かねを叩き、爆竹を鳴らしながら町の中を進む。はるばる海岸まで運び、ご先祖の御霊を西方浄土に送るのである。私の思い出にある精霊流しは、父祖の地である椿の里の伝統の盆の行事である。
椿の里の精霊流し
盂蘭盆の終わりの日に、先祖の御霊を送る行事で、椿の里では、小さな地区ごとに精霊船を作った。
船は、集落の男衆が作る。数人で担げるほどの小さな木の船である。
女衆は船に乗せる供物の包みを用意する。
子供達は、精霊船の船飾りを作る。
子供達は、8月15日の朝から6年生の先導で赤い玉を採集に回る。
集落の秘密の場所を回り、飾りに使う赤い玉を探す。それは、細く長い葉っぱの中央に小指の先ほどの玉が固まっている植物である。上級生達がその赤玉を何と呼んでいたか記憶がない。
中心の玉の塊は盆が近づくと赤くなった。
次に、白い紙(多分、貴重な半紙)を折りたたんで、糸で中央を結び、丁寧に開いてふんわりした白い花を作る。
お手本は6年生である。
ワラスボ(麦わらを5㎝ぐらいの長さにカットしたもの)の間に、赤い玉、白い花、と糸を通し、花すだれを作る。
それを船の屋根の周囲にぶら下げる。
花すだれの間に盆提灯が取り付けられた。
日が暮れると、精霊船の提灯に、灯りが点る。
「チャンコン、チャンコン、ドーイドイ」
奥の地区から、最初のかけ声があがる。
それに呼応して、ツジグミ、センガトー、コミチ等の地区の精霊船
が動き出す。次々に、担ぎ手の男衆のデカイ声があがる。
集落の人々が、囃し返す。
「ドーイドイ」
精霊船は、次々と西の浜への下り口に集まってくる。
先ず、ツジグミの船が西の浜へ向かう。
途中の牛の放牧地に入って、精霊船は3回ばかり回転する。
提灯と白い花すだれが拡がって舞う。
センガトー、コミチと、地区の船が次々と下りて舞う。
集落の人々は浜への下り口に集まって、掛け声に唱和し先祖の御霊を送る。
船が西の浜の波打ち際に勢揃いすると、男衆は衣服を脱いで、軽装になる。精霊船の灯りは、提灯1個となる。
男衆は船を担ぎ、静かに海に入る。
沖へ沖へと船が揺れながら進む。
提灯の明かりが、次第に小さくなっていく。
精霊船流しが終わると椿の里に秋がきた。
(田嶋のエッセイ)#16
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第12章「精霊流し」
2024年8月6日
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。
次回は最終章、琵琶法師の話です。
「平家物語」の冒頭の言葉が登場します。
参考 注釈
長崎物語 歌詞
赤い花なら 曼珠沙華 和蘭屋敷に雨が降る
濡れて泣いてるジャガタラお春 未練な出船の
ああ 鐘がなる ララ 鐘がなる
うつす月影 色硝子
父は異国の 人故に 金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを ああ 曇りがち ララ 曇りがち
坂の長崎いしだたみ 南京花火に日がくれて
そぞろ恋しい 出島の沖に 母の精霊が ああ 流れゆく
ララ流れゆく
平戸離れて幾百里
綴る文さえ つくものを
何故に帰らぬ ジャガタラお春
セントクルスの ああ 鐘がなる
ララ 鐘がなる