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果実香る豊かな自然「カンコロ飯・ヒバ汁・高お膳」母の口ぐせ。人生に与えた幸せとは?

(あらすじ)幼い頃、家の周りや浜辺を歩き回り、食べられるものを探し求めていた。特に、甘いおやつを楽しみにしていた。家の裏手にある干し櫓(やぐら)の近くに、毎年「イタブ」と呼ばれる小さな実をつける一本の細い木があった。熟れると赤くなり、口に入れるとホロ甘い味がした。

幼い頃は他にも自然の中でたくさんの食べ物を楽しんだ。微かに甘い実やとても酸っぱい果実もあったが、どれも懐かしい思い出だ。戦争も経験したが、魅力的な疎開地での幸せは大きかった。そんな体験エッセイです。


休み休みながら、「評釈 猿蓑」幸田露伴・著の頁を繰っている。時に、訳のわからない俳句を眺め、難解な露伴の評釈に悩まされている。今回は、干菜で寄り道である。*2

一夜ひとよ 寒き姿や釣 干菜(ほしな) *1

伊賀 探丸(たんまる) 
猿簔  巻之一  冬

引用:幸田露伴・著「評釈 猿蓑」岩波文庫 第9刷

この句について、露伴は評釈を加えていない。
干葉は、ヒバと読むのかと思ったが、句の読みがから察すると「ほしな」であるらしい。野菜が夜の寒風にさらされている、それも毎夜の風景のようである。

干菜汁(ひばじる)とは何か

「干菜」から、母の幼い頃の食事に、「ヒバジル」なる物があったという話を思い出した。
「かんころめし、ヒバジル、たかお膳」が母の口癖であった。

そは、如何いかなる物か。

大正3年生まれの母の幼少時の話である。
食事は、いつも輪切りにして干した薩摩芋に、少量の麦を入れて炊いたものが 「カンコロめし」。日に三度、これであった。米粒は入っていなかった。
「ヒバジル」とは、大根の葉を干した 「ヒバ」が実として入った味噌汁で、カサカサになった茶色の大根葉が浮いていた。
「高お膳」とは、1人ひとりの銘々の箱膳で、瀬戸物の茶碗皿を使い、武家のような格式高い食事風景を意味する。

「ヒバジルを飲み下すのが辛かった」と、母は味噌汁を飲む度に、幼い頃の話を繰り返した。
話すときはいつも、思い出すかのように顔をしかめた。
それは、喉にガシガシとつかえるものらしかった。

私は、青々とした大根の葉はもとより、剥いた皮まで余すことなく使い切っているが、流石に、大根の葉を干してまで保存し食べることはしない。


食の探求の日々

続いて、今度は、私の幼い頃の話である。
1944年(昭和18年)、父の出征後、残された家族は、母の実家であるとみ爺の家*2  に疎開した。

*2   とみ爺の家:母の実家

このエッセイでよく登場する。初めてお読みになる方は下記に注釈あり

私が、干菜らしきものを食べたのは、とみ爺の家に移ってからである。ダイコン、カブ などの葉を干したものを干菜と称するらしいが、とみ爺の家での干し野菜の種類は何であったか記憶にない。
大根葉しか考えられないが、ハッキリしない。
母が、畑に大根を植えていたのを見たことがない。
とみ爺の家の畑は傾斜地が多く、薩摩芋作りに適したサラサラした土であった。大根にふさわしい畑ではなかった。
食事にタクワンが出た記憶もない。
タクワンを漬けた樽も見たことがない。
只、少量の大根を塩漬けにして、味噌樽の上に滲み出た汁に、それを漬けていたのを見掛けたことがある。
人差し指ぐらいの大きさで、飴色になっていた。
来客に出すお茶に、それが1切れ添えられていた。
母は、屋敷の周りの畑に、少しばかり大根を植えていたようだ。

1944年、疎開した頃の一家の食事は、母の子供の頃より、幾らかはよくなっていたかもしれないが、米の飯ではなかった。
主食は、麦の入ったカンコロ飯である。
椿の里周辺には、田んぼが殆どなく、集落の人びとは、主として麦と薩摩芋を作っていた。

疎開生活では、おやつは蒸かした薩摩芋であった。
「また、芋!」となる。
それは、ショウケに入れられて、風通しのいい土間の天井から、ぶら下がっていた。毎日、蒸かした薩摩芋である。
空腹でもうんざりした。

そこで、私は、屋敷の周辺、西の浜の磯などを回って、食べられる物を探し歩いた。
背戸にある干し櫓の向こうは、崖になっている。
その崖の取っかかりに、下に向かって枝を伸ばした一本の細い木があった。毎年、ラッキョのような形の実をつけた。
緑色の実は、少し膨らむと灰色が加わり、全体に細い筋状の縦模様が入った。やがて、天辺の中央が窪んで点状の赤色を見せた。
母は「イタブ」といった。
実が熟れた頃、逆さま状態になって手を伸ばし、実をもいだ。
2つに割ってみると、中は赤くざくざくしている。口に入れると、ホロ甘い。イチジクの実は、当時、見たことがなかった。
後で、無花果に出会い、形も味もイタブとそっくりだと知った。
ただ、そのイタブは極端に小さかった。
2つまとめて口に入れた。

とみ爺の家の東側は雑木林で、土砂崩れ防止のため石を高く積んでいた。幼い私の背丈ほどの石垣が南北に伸びていた。
春になるとその石垣に蔓草が伸びて這い回った。
花が咲き、やがて、透き通るような赤い実が付いた。房状の塊になって熟れた。母が、食べられると言うので、ちぎって口に入れた。甘ずっぱい味がした。ブドウは食べたことがなかったが、その草の実を 「ヤマブドウ」と名付けた。
後で、実際のブドウを食べた時、同じ味だと思った。

その蔓草の方も食べた。
その蔓草は伸びに伸びて、石垣を覆い尽くした。
若芽をつまみ取り、どんぶりに入れて塩を振りかけた。
噛むとシャリシャリと音がした。
蒸かした薩摩芋と交互に食べると、薩摩芋がいくらはうまくなった。

かける塩は西の浜の海水で遊びながら作った。
磯の崖のくぼみを利用して、浜の石を重ね小さなかまどを作った。焚き火をして鍋に海水を満たし煮つめていく。
磯に散らばる枯れ枝、流木を集めて薪にした。
マッチは当時、貴重品で、母は自由にさせてくれなかったので、レンズを使って枯れ草に太陽を当て、火をおこした。
そのような知恵を誰から習ったのか。全く覚えていない。

甘い実でいうともうひとつ楽しみなのがあった。
ヤマブドウの蔓が這い回る石垣の端に、スモモの大木が一本あった。
赤紫の丸い実がなった。
とみ爺の小さい時からあるという木で、見上げる程の高さで、私の背丈では実を取ることは難しい。
熟れて落ちてくるのを待った。
そのため、早起きをした。
寝坊すると、蟻が来ている。
競争でスモモが落ちるのを待ち受けた。赤紫の熟した実は甘酸っぱく、夢中になって食べた。皮ごと食べた。太い種をいつまでもしゃぶった。
母は 「いくり」と、言っていた。今日でいう 「プラム」であろう。
母は、スモモが熟れる頃になると、 「スモモもモモも桃のうち」と、呟いた。
母は、よく呟いた。

4歳の時、3ヶ月間、祖父母と暮らしたことがある。
わずか、3ヶ月のとみ爺とハツ婆との交流であった。
そして、6歳の時、とみ爺の家に疎開した。
出会いから2年の間に、とみ爺の家は空き家になっていた。
(人はいなくなる)
命のはかなさを、幼いなりに感じた。

たった3ヶ月の祖父母との交流と、その後、空き家になったとみ爺の家の暮らしは、私を豊かに支え、生きる知恵をたくさん伝授してくれた。椿の里の美しい自然は、美味しい食べ物に溢れていた。
西の浜は、ウニ、サザエ、海蜷うみにななど、最高の食べ物を提供してくれた。
屋敷まわりには他に、とみ爺が植えた堅い桃、堅い梨、超酸っぱい橙の木があった。どれも最高の果実をもたらした。

今、何にも食べ物に不満はない。
幼少時に、最高の食べ物に出会っている。
うんざりしたはずの薩摩芋も、今は懐かしい。
とみ爺の植えた堅い桃、微かに甘い梨の実、とびきり酸っぱい橙、どれもこれも懐かしい。
戦争という厭わしい体験もしたが、魅力溢れる椿の里で、とみ爺の家に住んだ幸せは大きい。

次章は、「なまこ」を取り上げる。漢字で書くと『海鼠』である。
そこから寄り道をする。



(田嶋のエッセイ)#9
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第6章「ヒバジル」

2024年5月5日
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。



(注釈 補足)

*1 一夜ひとよ 寒き姿や釣 干菜(ほしな)
軒端に吊るされている干し菜が、だんだんに痩せてくる。それを見ているだけでも寒くなる。
(補足)干菜は野菜を乾燥させたもの。その姿が寒々しく感じられ、この俳句では、夜の寒さの中、釣り下げられた干菜がより寒さを感じる様を表しています。

引用:山梨県立大学

*2
作者は、かな書道の自習中に手本としている露伴の言葉の意味を調べながら、母の里言葉を見つけるたびにふるさとの懐かしい記憶を思い出す。この過程を「寄り道」と呼び、さらに思い出を連想して楽しむことを「迷い道」として捉えている。

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エッセイ『猿蓑 ~迷い道・寄り道』 #0 はじめに




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#1 序章「蓑(みの)」(1)



*3 「とみ爺の家」 の補足

猿蓑 ~迷い道・寄り道 #4 第2章 「たたみ」




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