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逆襲の飯山あかり(7)「百田尚樹はケチか?」
本当の愛は、もはや
何一つ見返りを望まないところに始まるのだ。
サン・テグジュペリ
前回の記事では・・・
百田氏の行き過ぎた吝嗇(ケチ)が
寄附金控除の問題や、飯山さんからの不信感を
招いてしまったのではないか?
という、私なりの考察を述べさせて頂いた。
しかし・・・
「百田氏が吝嗇である」という前提が
そもそも正しいと言えるのか?
という反論をされたい熱烈な支持者の方々も
多くおられるではないかと思う。
百田氏はこれまでに
私が知るだけでも
「拉致被害者を救う会」
「能登地震の被災地」
「京都大学の研究室」など
方々に多額の寄付をされている。
恐らく、これらだけでも
合計で3千万円近い額になるだろう。
だが、だからと言って
多額の寄付をしたその事実だけで
その人を「気前のいい人間」と
断定することは正しいのだろうか?
私には、人間の心というものが
それほど単純なものとは思えない。
■□■ 「与えること」の本質
ところで・・・
私には、兼ねてから「心の師」として仰ぎ
私淑している、お師匠がいる。
いずれ、どこかで詳しくお話しようと思うが
今、ここで詳しく語ることは
蛇足にしかならないであろうと思うので
ここでは「インドのとある高僧」と言うに留めておきたい。
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そのお師匠が、ある講話の中で
とても示唆に富んだお話をされており
そこに含まれる教訓がこのテーマにぴったりなので
ここで、皆様にご紹介させて頂こうと思う。
それは、こんなお話だ。
■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■
ある一人の男が、私に会いにきた時の事だ。
大変な金持ちで、あちこちの施設や福祉計画
寺院などに寄附をしてきた男だった。
彼は私に会いにきて
自分が寄付したものについて話し始めた。
どの位、どこへ寄付したかを話すことで
自己紹介をした訳だ。
そして一緒にきた妻が、彼の足りない部分を補った。
彼女は言った。
「わたくしの主人は10万ルピーほども寄付したんですのよ」
すると男は、いささか怒気を含んだ目で妻を見て訂正した。
「10万ルピーじゃない。
11万ルピーだ!」
自分の与えたものを数える。
帳簿をつける・・・。
帳簿をつけたら、何も与えないのと同じだ。
それは分かち合いではない。
それは贈り物ではなかった。
数えるのだったら
それは「取り引き」だったのだ。
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単に数えただけで
「もはや、それは与える事ではない」
と喝破してしまうのは
少々、厳しすぎるように感じるかもしれない・・・。
けれども、このお話は
真の意味での「与えることの本質」を
見事に言い表していると思う。
例えば、身近な例で
こんなシチュエーションを
考えてみたらどうだろう?
ある男性が、意中の女性を何度も食事に誘って
その度に、その食事代をご馳走した。
男として、それは極々、当然のことではあるが
もしもその男性が、ご馳走した金額の全てを
帳簿につけて記録していたとしたら・・・
女性の側からすれば、とても気味が悪いだろう・・・。
もし、その男性が、自らの支払った金額を
事細かに覚えているのだとしたら
それは、本当の意味でご馳走した訳ではなく
「私はあなたに、これだけ貸しを作りましたよ」という
身勝手な取引をした事にしかならない。
それは本当の意味で
「ご馳走した」ことにも
「与えた」ことにもならないのだ・・・。
私は、このお師匠のお話を聞いた時に
チャック・スペザーノ博士の
「傷つくならば、それは愛ではない」
という本の中の言葉を思い出した。
そこに、私が大好きな一節があるので
ここでご紹介したい。
与えているのに傷つくとしたら
それは何かを相手からもらおう
うばおうとして与えていたのです。
つまり、相手があなたの望みどおりのかたちで
何かを返してくれること、という契約を
勝手にあなたが結んでいたのです。
あなたが自由に与えるなら、押しやられることはありません。
何も手に入れようとせず、何も必要としていないときは
拒絶されることはないからです。
ただ純粋な愛情から与えていれば
傷つくという反応は起こりえないのです。
与えることで満ち足りているときは
自分も十分に受けとることができます。
そのときは相手からどんな反応が返ってきても
まったく問題にはなりません。
なぜなら、与えることそのものがすでに十分な報いだからです。
私のお師匠が講話の中で語ったお話にしても
チャック・スペザーノ博士が述べている事にしても
「与えることの本質」とは何か?
という事を、如実に語ってくれていると思う。
人間のエゴというものは、非常に巧妙だ・・・。
だからこそ、ただ「お金を出しているから」
「寄付をしているから」という理由で
それを、真の意味において
「与えている」と判断する事はできない。
■□■ 「与えること」と「奪うこと」
釈迦仏教における悟りの過程というのは
よく、「玉ねぎの皮剥き」に例えられる。
なぜかと言うと、人間のエゴというものは
まるで玉ねぎの皮のように、剥いても剥いても
その中にまた、新たなエゴが出てくるからだ・・・。
自らのエゴを拭い去ったと思った瞬間
そこには、「自らのエゴを拭い去ったエゴ」
という新たなエゴが現れる・・・。
ここでもう一つ
私のお師匠のお話を
ご紹介させて頂きたい。
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「謙虚」な人たちを見に行ってごらん。
「人民の下僕」だとか、その手の人たちだ。
そして彼らの目を覗き込んでごらん。
彼らは自分たちが謙虚であるかのように見せかける。
彼らは自分たちが謙虚であると信じ込みさえする。
しかし、彼らの目の中には
微妙なエゴが輝いているのが見えるものだ。
あるとき、一人の男がソクラテスに会いにきた。
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その男はファキール(托鉢僧)だった。
とても謙虚な人間だ。
彼は新しい服を着ようとしないほど謙虚だった。
彼は、もし新しい服をもらっても、まずそれを
ぼろぼろに汚くしてから身につけるほど謙虚だった。
その彼がソクラテスの所へやってきた。
そして、彼の着物にはたくさんの穴が開いている。
ソクラテスは、しげしげと彼を見るとこう言った。
「あんたは自分が謙虚だと思うのかい?
あんたのその穴を通して
わしにはあんたのエゴが丸見えじゃ」
エゴというものは
謙虚であるかのように見せかけることもできる。
「自己を拭い去った人たち」というのは
本当には謙虚じゃない。
「自己を拭い去った人たち」というのは
ただ単に、とても巧妙でずる賢いだけだ。
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これは一つの例えであるが
日本維新の会はこれまで
「議員報酬を下げる」という
いわゆる「身を切る改革」を行ってきた。
その点だけに焦点を当てれば
維新は日本の政治を良くする為に
献身的な努力をしているようにも
見えるのだが・・・。
もう一方では、法の目をかいくぐって
中国の国営企業である上海電力を
電力事業に参入させてしまったのも
他ならぬ、維新の会だ。
さらに維新は、中国を利する事にしかならない
メガソーラー事業を妄信的に推し進め
日本の国益を損なうような政策を進めている。
彼らは、片方の手で国民に与えながら
もう片方の手で、国民から国益を取り上げているのだ・・・。
それが維新の本当の目的であるならば
最終的に国民から国益を搾取する為にこそ
議員歳費を削減するという
「人気取り政策」をしているだけでしかない。
有権者である我々は
常に、物事の表面的な部分だけを見るのではなく
その奥にある本質を見極めなければ
簡単に騙されてしまう・・・。
■□■ 答えは心の中に
今回のテーマの結論として・・・
百田氏が鷹揚(気前がいい)なのか?
それとも吝嗇(ケチ)なのか?
私はこの問題の本質的な部分については
百田氏本人にしか分からない事だと思う。
そもそもこの問題は
他人が客観的に判断できる問題ではなく
一人ひとりが、自分の心に内省すべき問題だ。
だから、私自身は百田氏の多額の寄付について
素直に素晴らしいことだとも思っている。
「やらぬ善より、やる偽善」とよく言われるが
仮にそれが偽善だったとしても
百田氏の多額の寄付によって
助けられている人たちがいるのは事実であり
その貢献に対する評価はあって然るべきだ。
私がここで申し上げたいのは
多額の寄付そのものは素晴らしい事だが
だからと言って、それが即ち
「百田氏は気前がいい」という判断には
直接的に結びつかない、という事だ。
そして、これはただのお節介でしかないが
私は百田氏に助言をしておきたい。
少なくとも、自分の真心が疑われるような事は
軽々にすべきではない。
もしも、百田氏が心から与えるつもりで
多額の寄付をしていたのだとしたら
自らの功績を誇示するようなポストを
わざわざ自分でリポストするだろうか?
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自分が人から受けた恩については
決して忘れてはならないが
自分が人に施したことは
すぐに忘れるくらいで丁度いい・・・。
そして、12月1日に配信されたライブでも
百田氏はこのような発言をしている。
「今まで寄付してきた総額で言うと
6000万円は下りません」
それだけ多額の寄付をしてこられた事は
素直に素晴らしい事だと、私は思う。
ただ・・・
私のお師匠がその言葉を聞いたとしたら
きっと、このように喝破するだろう。
「自分の与えたものを数える。
帳簿をつける・・・。
帳簿をつけたら
何も与えないのと同じだ。
それは分かち合いではない。
それは贈り物ではなかった。
数えるのだったら
それは、『取り引き』だったのだ」
今回は、百田氏の寄付がどのような意味を持つのか
その事に関して、私なりの考察をしてみた。
そしてこの問題は
飯山さんの裁判へのカンパの問題とも
表裏一体ではないかと、私は考えている。
次回は、「飯山さんが集めた裁判のカンパに関して
組み戻しに応じなくていい理由」を
述べさせて頂きたい。