見出し画像

逆襲の飯山あかり(8)「飯山氏が寄付金の組戻に応じなくていい理由」

静まれ、呪われた狼
お前は自分の怒りで
自分を内から焼き尽くすがいい。

   ダンテ 「神曲」 地獄篇7歌8−9

 


前回の記事では
百田氏が行ってきた多額の寄付について
それを「鷹揚さ」と判断して良いのか?
というテーマで、考えを述べさせて頂いた。

今回のテーマは
飯山さんへの裁判の寄付金に関して
私自身が考える
「組み戻しに応じなくていい理由」
について、述べさせて頂きたいと思う。

ただ、今回は本題に入る前に少しだけ
「話の枕」を聞いて頂きたい。


■□■ 「百年の孤独」


これは数ヶ月ほど前のニュースだった。

ガルシア・マルケスの名作「百年の孤独」
長い年月を経て、遂に文庫化し
普段はあまり本を読まない層の方々にも
とてもよく読まれているらしい。

スマホやパソコンが実生活に欠かせなくなり
ネットやSNSが全盛となったこの時代に
紙媒体の名作に世間の耳目が集まるというのは
素直に喜ばしい事だと思う。

ただ、私には少しばかりの心配もあった。
と言うのは、この「百年の孤独」という作品は
読破するのに、なかなか難儀する代物だからだ・・・。

この本の読みにくさというのは
重厚長大なドフトエフスキーなどとは
また異質で、まるで「嫌がらせか?」と
思うような仕掛けがなされている。

ある一族を巡る百年の物語の中に
同じ名前の人物が何人も出て来てくるのだ・・・。

アルカディオさんはいっぱい出てくるし
アウレリャノさんもいっぱい出てくるしで

「えーっと・・・おたくは・・・
どちらのアルカディオさんでしたっけ??」


みたいなことが頻発し
行きつ戻りつしながら読まないと
頭の中がこんがらがって
訳が分からなくなってしまう・・・。

しかしながら、実はその設定の中にこそ
重要な含意があるのではないかと
私自身は感じているのだが・・・
そういった読みにくさの故に
ブームに乗って読んでみた方の中には
途中で挫折してしまう方もおられるのではないかと思う。

もしも、その様な方がおられたとしたら
私は少しだけ、その謎を紐解くお手伝いをしたい。

「百年の孤独」の紹介文には
正に核心をついた、このような文章が添えられている。

「蜃気楼の村マコンドを開墾しながら
愛なき世界を生きる孤独な一族、その百年の物語」

なぜ?
それは百年の「孤独」なのか?


それは、そこに「本当の愛」が存在しないからだ。

なぜ?
百年という長きに渡る
「愛なき世界」を描いたのか?


それは、そのコントラストの中にこそ
「愛ある世界」とは何か?
という「問いかけ」を浮かび上がらせようとしたからだ。

「百年の孤独」には様々なメタファー(隠喩)や
アナロジー(相似)が含まれているが
その中を通奏低音として流れる
大きなテーマの一つ・・・それは
「本当の愛とは何か?」
という事ではないかと、私は感じた。

だからこそ、真に理解すべきは
「本当の愛とは何か?」という事なのだ。

これは隠れた名作だと思うのだが
ガルシア=マルケスの晩年に
この「愛」をテーマにした別の作品があり
私はそちらの方が、断然、読みやすいと思う。

もしも「百年の孤独」に挑戦して
「結局、何が言いたいのか分からん!」と
挫折してしまった方がおられたとしたら
まずは、こちらを読まれる事をお勧めしたい。

「愛その他の悪霊について」


■□■ 「愛」という名の悪霊


私がこの作品を読んだのは
まだ右も左も分からぬ
20代のピチピチしていた頃のこと。

「愛その他の悪霊について」


これは、なんと謎めいたタイトルであろうか・・・
そう感じた私の心にあったのは
「そこにどんな意味が込められているのか?」
という純粋な好奇心と
「ノーベル文学賞作家の作品なのだから
ハズレることはないだろう」という
単純な期待だけだった。

■ 物語のあらすじ ■

舞台となるのは
18世紀中南米の女子修道院。

少女シエルバ・マリアは侯爵の娘で
ある日、犬に噛まれてしまい
後に、その犬が狂犬病で死んでしまう。

当然、シエルバ・マリアも
狂犬病の罹患が疑われ
治療を余儀なくされたのだが
一方で、教会の司教らは
彼女に悪魔憑きの疑いをかけ
修道院に監禁したのだった。

そこに、悪魔祓いの命を受けた
カエターノ・デラウラ神父が派遣されるも
娘と神父は、やがて強く惹かれ合うようになっていく・・・。

■□■

この物語の中には様々な人物が登場するが
その誰もが、ことごと「その他の悪霊」
取り憑かれてしまっている。

そして、この物語の中心人物である
少女、シエルバ・マリアと
カエターノ・デラウラ神父もまた
厄介な悪霊に取り憑かれてしまう・・・。

その悪霊こそが・・・
「愛」という悪霊なのであった。

この作品を読み終えて
ようやく、私は「なるほど」と得心した。

この謎めいたタイトルには
意図的に省略されている部分があったのだ。

もし、この「愛その他の悪霊について」
というタイトルを正確に表記するならば・・・

「愛(という悪霊と)その他の悪霊について」

ということになる。

つまり、「愛」もまた悪霊の一種なのだと
ガルシア=マルケスは
暗に言わんとしていたのだろう。

そしてこれは・・・
およそ8年ほど前のこと。

ある凄惨な事件により
私はこの「愛という悪霊」
いかにおぞましいものであるか
という事を、まざまざと
思い知らされることとなった・・・。


■□■ 福岡市西区予備校生殺害事件


晴れて念願の志望校に入学した後には
彼女に、どんな華々しい青春が待っていたのだろうか・・・。

そう思うと
あんな酷い事件が起こってしまったことが
私には悔しくてならない・・・。

2016年2月27日
当時、19歳だった予備校生の北川ひかるさんが
同じ予備校に通っていた19歳の男に
あまりに酷い形で惨殺されてしまった。


事件の詳細を耳にした時
戦慄が走ると共に感じた
背筋が凍りつくような感覚を
今でもよく覚えている・・・。

ニュースの声は
淡々とこの様に報じた。

「使用された凶器は
全長20数センチのナイフ2本と・・・手斧1本

「てっ・・・手斧!?」



私は思わず、我が耳を疑った・・・。

犯人は予備校に通う、まだ19歳の学生だ。


男は闇夜に乗じて、帰宅途中のひかるさんに
背後から襲い掛かり、馬乗りになった状態で
顔や首など20カ所以上を刺したうえ
手斧で頭部を多数回殴打・・・。


防御創を含め全身の傷は59カ所にも上り
死因は出血性ショック死だったという。

なぜ・・・
こんな惨たらしい事ができるのか・・・。

犯人の男は、ひかるさんに好意を伝えたが
無下にされたと勝手に解釈し
一転して、殺意を持ったのだと言う。

犯人の心情が明らかになった時
私の脳裏には、件の作品が思い浮かんだ。

「愛その他の悪霊について」

これは明らかに・・・
「愛」という名の悪霊の仕業だ・・・。



ひかるさんは全く救いのない
残酷極まる事件に巻き込まれてしまったが
ただ・・・この事件が起こった約一週間後
唯一の希望のひかりでもあり
しかし、それが故に、この事件をより一層
悲しみ深いものにする出来事が起こる・・・。

それまで
北川ひかるさんが懸命に勉強し
入学を夢見て受験した大学から
ご遺族の元に、合格通知が届いたのだ。



その時、お父様の北川洋二さんは
新聞の記事にこのような言葉を寄せておられる。

ひかるは見事に大阪大法学部に合格しました。

他にも、ひかるは明治大法学部
同志社大法学部、立命館大法学部の
3校にも合格することができました。

本当によくやってくれました。

ひかるは、とっても親思いの優しい子でした。
ひかるもきっと喜んでくれていると思います。

今回、ひかるが無事に大学に合格できたのも
ひとえに、これまでひかるを支え続けてくれた
学校関係者の皆様、地域の皆様、ひかるのお友達
恩師など、多数の皆様のおかげだと感謝しております。

本当にありがとうございました。


私は、このお父様もまた
本当に、立派な方だと思う・・・。


「愛その他の悪霊について」には
このような帯文が添えられている。

「愛は成就されず
成就されるのは愛でないものばかり」

    ガブリエル・ガルシア=マルケス 「愛その他の悪霊について」帯文より


合格通知は届いても
ひかるさんは、もういない・・・。

愛が成就されることは
本当に、難しい・・・。

ただ、その合格を心から祝福された
その、お父様の言葉の中に
私は唯一、本当の愛を感じた。

■□■ 「本当の愛」とは何か?


今回取り上げた事件は
あまりに悲しく、極端な例ではあるが
世間には、男女の恋愛感情の縺れから
揉め事に発展する、というような事は
山のように起きている。

なぜ、そうした揉め事が起こってしまうのか・・・
その理由はただ一つしかない。

それは、「本当の愛とは何か?」
ということを知らないからだ。

ではその、「本当の愛」とは何なのか・・・。

このような重大なテーマについて
私のような未熟者が賢しらに語るのは
あまりに滑稽でしかなく
何より、私には荷が重すぎる・・・。

という訳で、ここでは以前にお話した
私の「お師匠」の言葉をお借りして
少しでも、理解を深めていきたい。

今日は、お師匠の講話の中から
3つのお話を取り上げさせて頂こうと思う。

■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■

■□■ 「愛について」その1 ■□■

自分の子供を愛するのはいい。
だが、彼らを所有・・しないこと。
自分の奥さんや旦那さんを愛するがいい。
ただし、彼らを所有しないこと。

あなたが所有したその瞬間
奥深いところで
あなたも所有されてしまっている。

あなたが所有したその瞬間
あなたも所有されてしまっているのだ。
所有者が、同時に被所有者なのだ。

所有しないこと。
なぜならば、所有というのは
他人の中心センターをぶち壊そうとするもの
だからだ。

それに、その他人もあなたを許すまい。
そして、他人のセンターをぶち壊しにしたら
まさにその行為において
あなたのセンターもぶち壊されるに違いない。

■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■


お師匠の講話は、原文が英語で話されており
それを日本語に翻訳しているので
少し、とっつきにくい表現もあると思う。

特に、ここで言われる「所有」という表現が
少し堅苦しく、理解しにくいかもしれない。

ここでの意味は
「自らの支配下に置いて
意のままにコントロールしようとすること」
というくらいに捉えて頂けたら
納得しやすいのではないだろうか。

それは「間違った意味での所有」であり
厳に忌避しなくてはならない。

そして、もう一つ理解しにくいのは
「自分が所有した時に
同時に自分も相手に所有されている」

という文言だろう。

その辺りについて
理解の一助となりそうな別の講話があるので
その部分について、ご紹介したい。

ただ、次の話の中では
「所有」という言葉が肯定的に表現されている。
つまり、前述の「間違った所有」ではなく
正しい「真の所有」について語られているので
そこは、ご注意頂きたい。


■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■

■□■ 「愛について」その2 ■□■

まだ、自分のものに
しがみついているとしたら
あなたは大人ではない。
あなたはまだまだ未成年だ。
なぜか?
それは、分かち合って初めて
人は(真に)「所有する」事ができる
からだ。

他に所有はあり得ない。
もしあなたがある一つの
「もの」に執着するとしたら
その「もの」は
あなたよりも大きいことを示す

あなたの愛よりも
あなたの存在よりも大きいことになる。
だからこそ、それに執着する。

あなたの魂が所有の虜になっているのだ。
あなたには分かち合う事ができない。
寛大になる事ができない。

■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■


自らが手放したものだけを
人は真に所有することができる
・・・
というのは、非常に謎めいたパラドックスだが
私はそこに、真理の光を感じる。

私は、このお師匠の言葉の中に
作家、三浦綾子氏の
この名言に通じるものがあると思うのだ。

一生を終えてのちに残るのは
われわれが集めたものではなく
われわれが与えたものである。

分かち合うことによって
人は豊かになり
執着することによって
人は貧しくなって行く・・・。

これは、身近な例えの一つであるが
お酒好きの間では
「酒は呑んでも、呑まれるな」という
よく知られた警句がある。

自らの主体的な意思において
お酒の量をコントロールできているならば
それは「お酒を呑んでいる状態」と言っていい。

しかし、欲求が過ぎて中毒の状態になり
自分をコントロールできなくなってしまえば
それは、「お酒を呑んでいる」状態ではなく
もはや「お酒に呑まれている」
もしくは「お酒に溺れている」
そのような状態に陥ってしまっていると
人は判断する。

人は何かに執着した瞬間
自らの中心センターを失ってしまう
というのは、その様な状態だろう。

古代ギリシャの哲人、ディオゲネスにも
このような言葉がある。

ディオゲネス

「かの金持ちは財産を所有するにあらず。
奴の財産が、奴を所有しているのだ」

日本には古来より
「人を呪わば穴二つ」
という言葉があるが
私はこの言葉も同様に
全く同じ真理を語っているのではないか
と感じている。

他人を破壊しようとすることは
即ち、自分自身を破壊することなのだ・・・。

執着や中毒の恐ろしいところは
そこにあるのだと思う。

そして、そういった「囚われ」は
恋愛や、お酒以外にも
薬物やギャンブルやショッピングなど
この世に数限りなく存在する。

人の欲望に際限はない・・・。

「所有者が、同時に被所有者なのだ」
という言葉の意味を推し量るとすれば
何かに執着してしまった瞬間に
自分自身も、その対象の魅力に囚われ
我を失ってしまう
という意味なのではないか。

そして、逆の視点から言えば
「真の所有」は「真の愛」と
同義である、とも言える

■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■

■□■ 「愛について」その3 ■□■

あなたは世界一の美女を
奥さんに持っているかもしれない。
が、もしそこに何の愛もなければ
彼女を奥さんとして持つ事はできても
彼女を所有する事はできない。

あたかも彼女を所有しているかに
見せかけることはできる。
あなたが彼女を使うことはできる。
彼女を街中連れて回ることはできる。
クラブ回りをし、あちらへ、こちらへと・・・。

その意味では、彼女はあなたの所有物だ。
彼女はあなたの富の、あなたの成功の
あなたの豊かさの見せ物ではある。

しかし、あなたは彼女を所有してはいない。
(真の)所有というのは愛だけにしかできない。

そして、そこにパラドックスがある。
一人の女性を所有していないと
あなたは所有性を剥き出しにする。

しかし、その女性を所有している時には
あなたは所有などということは忘れ去ってしまう
所有性など出る幕がない。

あなたは彼女を所有する
などという問題がないほど
あまりに多くを所有している。

愛が所有性のものではないのはそのためだ。
愛に所有性がないというのじゃない。
愛があまりにも全面的に所有するために
そんな問題が起きてこないのだ。

恋人というのは、あまりにもトータルに信じ
相手の女性をあまりにトータルに知っているので
そこに所有などという問題は出てこない。
その女性は完全に自由だ。

というのも
愛は自由を与えられるものだから・・・。
愛は自由を通して所有するのだ。

■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■


「愛は自由を通して所有する」
とは、なんと美しい表現であろう。

真の愛は、相手を束縛するのではなく
相手を自由にする。

ここで、お師匠が伝えようとしている事を
私なりの言葉に変換するならば・・・

それが本当の愛であるのかどうか
相手の全てを受け入れられるかどうか
関わっている、ということなのだと思う。

本当の愛は、もはや
何一つ見返りを望まないところに始まるのだ。

           サン・テグジュペリ

仮に、相手が自分自身に背を向けて
手の届かぬ所へ去っていったとしても
それでも、笑顔であることを願い
その幸せを祈ることができるかどうか
相手を束縛しようとするのではなく
自由にできるかどうか
相手がどのような選択をしようとも
その全てを認め、その全ての結果を
丸ごと抱きしめる事ができるかどうか
それこそが、本物の愛であるか
それとも、「愛という悪霊」でしかないのか
という事の違いではないだろうか。

私は兼ねてより、芸術家の
岡本太郎さんを敬愛しているのだが
彼にも、こんな言葉がある。

「好きな女性が、他の男と結婚しようが
こちらが他の女性と結婚しようが
それはそれだ。
本当の出会いは、約束ごとじゃない。
恋愛というものさえ超えたものなんだ」
              岡本太郎

本当に、そういう事なのだと思う。

やはり、岡本太郎さんは
素晴らしい慧眼を持っておられると
改めて感服させられる言葉だ。

ただ、ここまでの境地に至る事は
凡人には、なかなか難しい・・・
というのもまた、事実だろう。

私自身も未熟者であるが故に
ただ単に、頭で理解しているだけ
なのかもしれないが・・・
それでも、そんな自分であっても
確かに分かる事はある。

愛が憎しみに反転するのだとしたら
それは「本当の愛」ではなく
「愛」という悪霊の仕業でしかないのだ・・・。

■□■ 「愛という悪霊」に取り憑かれた者たち


さてさて・・・
ちょっとした「話の枕」のつもりが
ベッドからはみ出すくらいの
巨大な「抱き枕」になってしまったかもしれない・・・。;。;

ここで、遂に本題となるのだが・・・
今回の主題は、前述していたように
飯山さんが訴えられた裁判への寄付金についてである。

この記事を読まれる方は
既にご存知の方が大半と思われるが
一応、事の経緯を説明させて頂きたい。

イスラム研究家の飯山あかりさんは
意見の食い違う東大教授の池内恵氏から
名誉毀損により、1100万円の支払いを求めて訴えられた。

所謂、「スラップ訴訟」というやつだ・・・。

その裁判に多額の費用がかかるため
飯山さんはやむ無く
支援者に寄付を募ったのだが
後に、飯山さんが日本保守党の批判を始めた途端
熱狂的な保守党支持者の態度が豹変する。

彼らは飯山さんの保守党批判を
「裏切り行為」とみなし
「寄付したお金を返せー!!」
騒ぎ始めたのだ・・・。

この記事の表題においても
「組み戻しに応じなくていい理由」
と題しているように
私は、飯山さんがお金を返金する理由は
一切ない
、と考えている。

この問題の原因は、飯山さんにはない。

むしろ深刻な問題を抱えているのは
「金を返せ」と訴えている方
だ。

私は、飯山さんに対して
「寄付金を返金しろ!」と
訴えている人たちに申し上げたい。

そもそも・・・

あなた方は
「寄付するということ」
「与えるということ」の
本当の意味が理解できていない。


これは、前回の記事で申し上げた事と同じだ。

「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので
日本保守党の熱狂的な支持者たちもまた
百田代表と全く同じ轍を踏んでいる・・・。

ここで、前回ご紹介した
チャック・スペザーノ博士のお言葉を繰り返したい。

与えているのに傷つくとしたら
それは何かを相手からもらおう
うばおうとして与えていたのです。
つまり、相手があなたの望みどおりのかたちで
何かを返してくれること、という契約を
勝手にあなたが結んでいたのです。

     チャック・スペザーノ「傷つくならばそれは愛ではない」

「飯山さんの保守党批判は裏切である」
として、彼らが自ら差し出した寄付金を
「組み戻しで返金しろ!!」
と訴えるのであれば
あなた方は最初から
何も与えてなどいないのだ・・・。

それは、単なる「取引」でしかなかった。

そして、もう一つ。
これが最も大きな問題だが・・・

彼らの中には・・・

「愛」という悪霊が取り憑いている。


そこには、好意が実らなかったが為に
相手に憎しみをぶつける犯罪者と
全く同じ心理構造がある。

そして、その最も大きな過ち
彼ら自身が、自らの行為の意味を
全く理解していない事だ・・・。

彼らは飯山さんを攻撃し、貶め
それにより自尊心を飼い太らせて
悦に浸っているのかもしれない。

しかし・・・

彼らが本当の意味で
破壊しているのは
その実・・・
彼ら自身なのだ・・・。


静まれ、呪われた狼
お前は自分の怒りで
自分を内から焼き尽くすがいい。

   ダンテ 「神曲」 地獄篇7歌8−9

彼らは、それがいかに愚かしいか
という事にさえ
全く気づいていない・・・。

「幼稚」である、という以前に
「無知」である、としか言いようがない。

誠に悲しい事であるが
これは、全くもって
不毛の極みである・・・。


さてさて・・・
今回はこの辺りで
締めくくりたいと思うのだが
存外、長大な記事となってしまい
自分でここまで書いておきながら
最後まで読んでくださった方が
一体、どれだけおられるのだろう?
と、不安でもある・・・。

けれども逆に言えば
これほど冗長で、稚拙な駄文に
最後までお付き合い下さった方は
きっと心が清らかで
寛大な方であるに違いない。

願わくば、最後まで読んで頂いた
そんな心優しい方々と共に
志半ばで夭折された北川ひかるさんに
心よりの哀悼の誠を捧げ
この稿を締め括らせて頂きたいと思う。

どうか、北川ひかるさんの魂に
愛の光が降り注ぎ
その御霊が安らかでありますように・・・。

合掌

いいなと思ったら応援しよう!