(8) 彼の地の方と会話した事は、今まで有りません。(2024.2改)
居住や移動の自由がない、封建時代の日本のような国が未だにある。その国名を北朝鮮民主主義人民共和国という。
彼の地の人々はそれぞれの「居住地」を国に登録している。住民が居住地から市や郡の境界線を越えて別の地域に移動するには「旅行証」が必要となる。日本の土産物屋で売っている将棋の駒のような通行手形のようなものだ、実物は紙なのだろうが。
正に江戸時代の関所のような「検問所」が市や郡の境界線上に有って、その都度、旅行証を提示して、荷物検査を受けてから通過が認められる。「旅行に行こう」という発想が全く湧いてこない、前近代的な国だ。
居住地外の土地で旅行証を携帯していなければ身柄を拘束されてしまい、「集結所」と呼ばれる施設に収容されてしまう。居住地の安全部(警察署)がやって来て本人確認が終わるまで、強制労働を強いられる・・らしい。
自由に人的移動の出来ない北朝鮮も徐々に変化し始めるのだが、決して自発的で健全なものではなく、外的要因により仕方なく変化したという方が正しい。
2010年代となり、お隣りの中国で市場経済化が進むと、中国製品の依存度が高い北朝鮮内でも交易変化の波が徐々に広がる。とはいえ北朝鮮内の体制や制度は1ミリも変わらないので、関所のような検問所では不正が横行するようになる。
検問所の兵士にワイロを払って交易に励むタクシーやソビ車、ポリ車(個人経営のバスやトラック)を使って検問を受けずに通過できるなど、不正の横行がきっかけとなって北朝鮮内の移動制限が緩和されたように見える、極めておかしな話となった。
そもそもが国内の物資だけでは食えない、日本と同じ食料自給率の低い3等国だ。
共産国でありながら配給制度はとっくに破綻しているので、食料を調達するために遠路はるばる出掛ける必要がある。とはいえ、バカ正直に検問所でなけなしの金から賄賂を払っていたら、買い物も満足にできない。それ故に検問所に引っかからない「抜け道」が住民たちの手によってアチコチに作られていく。
そこにコロナが蔓延してしまった。
コロナ拡散防止策を国は掲げる。抜け道だらけの実態を黙認してきたが背に腹は変えられないと、人々の移動制限を国は強化すると宣言する。
だからといって国は物資の配給を全くしないので、人々は従来通り抜け道を使って物資調達を継続せざるを得ない。結果的に、越境しての物資調達が原因となり、コロナが国中に蔓延するのに一役買ってしまう。
アンポンタン国家・平成日本が仕出かしたコロナウイルス大歓迎、ジャンジャカ受け入れ体制に極めて似通ったものを感じる。
「お笑い国家・北朝鮮」という表現は実に的を得た表現だった。
そんなお粗末な国を、モリと翔子は不法侵入しまくっていた。人目を避ける必要があるので街灯など無い道路を夜間移動し続ける。
北朝鮮の各地の情報は、脱北者が韓国政府に告げた内容を纏めた報告書しか分かっていない。それ故に、先行投下したバギーが該当エリアを夜間走行して検問所のポイントを抑えていた。
舗装された道しか走れないトラックの通行は無理でも、地元の人々が荷を隣県隣市に渡す交易路が検問所の周辺に幾つもある。全長2M、横幅1Mも無いバギー車両で難なく境界を超えてゆく。
夜間、マイナス15度平均の外気温の中を20キロ程度の車速で走ると、体感温度はマイナス25度くらいになる。
モリと翔子は2台のバギーに分乗して並んで走っていた。ミッドシップ配置されたエンジンの熱が尻と腿に伝わってくる。風を避けるためにフードを被って進行方向に背を向けて座ったり寝そべったりと、狹いバギーの上で体移動し続けていた。
サザンクロス海運が日本の政府備蓄米を運搬した際、予備のバギーと食料・燃料が各地点に埋められている。
それを各ポイントでゲットしながら移動を続け、最初の目的地、核施設のある寧辺に到着した時にはバギー13台のコンボイ状態になっていた。ここで6台のバギーを土中にセットし、寧辺の次はICBM級長距離ミサイルの発射施設がある西海衛星発射場へやって来て、爆弾へと変貌したバギー4台が作業を始める。
深夜、暗闇に包まれて何も見えない中をドローンが飛び、西海の発射施設の爆破指定ポイントを各バギーに指示してゆく。バギーが穴を掘り始めて、それぞれが穴に埋まってゆくと、夜間用暗視ゴーグルを装着したモリがバギーが埋まった地点を一つ一つ確認してゆく。雪山で使うカンジキのようなものを履いて、足跡を残さないようにし、問題なしと確認して4キロ離れた翔子が潜んでいる穴蔵へ戻っていった。
モリはこの時点では金正思と軍の事実上のトップ李々将軍を狙撃すべきか、決めかねていた。
人を撃つ事への躊躇いと言うよりも、キム体制そのものが北朝鮮にとって必要なのかどうかを自問し続けていた。米国国防総省の研究員達の見解は「排除」で纏まり、米国大統領と閣僚達からも懇願に近い要請を受けてはいる。
それ以上に、村井幸乃副知事からのメールが最も悩ましいものとなっていた。拉致被害者とその家族達からの嘆願書の様なメッセージの数々は、モリの胸を抉るものがある。
とは言え、そもそも彼をスコープで捉えられなければ、狙撃は出来ないのだ。
確実に現場に現れる軍のトップを殺めても、激高した総書記が、意味なくミサイルを近隣に打ち込むだけの話で終わる可能性は十分ある・・。
何度も同じループで考えてしまい、慌てて首を振る。今は発射施設の破壊工作に集中せねばならない。
時折、4キロ離れた穴蔵で待機している翔子と無線で会話し、周囲の生物反応を確認する。バギーが選定した、監視カメラの視角外のコースに沿ってゆっくりした足取りで歩いてゆく。自然と歩行が遅くなるのも理由があって、足跡を残さぬようにカンジキのような履物を履いていた。4キロの往復でモリの歩行であれば2時間以内の行程が、最終的には3時間超の深夜の散歩となった。
西海の発射施設から待機地点に到着すると、既に撤収準備を翔子が整えてくれていた。
2台のバギーに分乗する。次の目的地は、往路でも訪れた24キロ離れた山林だ。
暗視ゴーグルを付けた両名がキスを交わすためにフェイスマスクを外して顔を互いに90度に傾けて口をつけて互いの舌を絡める様に咥内を弄ってから、それぞれのバギーに乗り込んで出発する。
2台のバギーの後方には荷物を搭載した1台のバギーが追走する。バギーのコンボイ編成が解消したので、往路よりも気分が若干楽になっていた。
明日は核施設のある寧辺近郊を再経由して、最終目的地である平壌への到着は明後日となる。
平壌では18日月曜に、国会に当たる最高人民会議が開催される。
会議では中国暦の春節明けにあたる新年予算と、2020年の決算の承認を行なう。最高幹部が出席するのかどうかは分からないが、実務者のトップは必ず現れると米国の諜報網は分析していた。
寧辺から西海へと移動し、最終目的地・平壌までの2日間、日中は穴ぐらの中で寝ているのが大半を占めるが、翔子とモリの会話は、米国政府の狙撃要請、被害者達の懇願に応えるべきか否かの議論に集中していた。
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拉致被害者とその家族の診療と心のケアに、精神科医の一人として臨んでいた村井幸乃・富山副知事は類まれな聞き上手でもあった。
童顔少女顔という取っ付き易さもあったのだろうが、拉致後からの心難艱苦の数々を被害者は幸乃に告げた。
幸乃はレポートに纏めて社会党の3大臣と金森知事、そしてモリにレポートをメールする。
幸乃がモリにレポートを送ったのは、モリの正義感を奮い立たせる為だった。大勢の人々を犠牲にして成立している北朝鮮を、あなたはどう思う?という、幸乃からの問いでもあった。
越山厚労大臣、阪本総務大臣そして前田外相は2002年に開放された拉致被害者達の報告資料を参照しながら幸乃のレポートを読み、北朝鮮ファシスト体制への憎悪を膨らませていた。
そしてモリにメールする。
「米国政府の要請に応えるべきだ」
「事後処理はアメリカと中国、そして韓国に任せればいい」と。
金森知事にいたっては、
「遠山の金さんか、天下の副将軍・水戸光圀公になった気分で印籠を掲げてこの世の悪を裁いて下さい。会いたい、早く帰って来て!」とあった。
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軍の上層部はこの事態を全く想定していなかった訳ではなかった。万全の体制を敷いて総書記は保護されていた筈だった。
それでも、敬愛なる巨星は堕ちてしまった。
尊敬する李々同士将軍も、顔ごと吹き飛ばされてしまった。同士将軍閣下の替え玉までは用意していないが、後継者が育つまでの間は総書記の影武者で誤魔化しながら体制を維持し続ける必要があった。早速、散髪作業に入らせた。
暫定的に軍を統率する事になった趙 訓仁・副将軍は各部隊に指示を出し、狙撃犯の捜索に当たらせていた。狙撃された地点を特定する為に1キロ未満を放射状に捜索しているが、2時間を経過しても見つからない。
「ライフル銃で1キロを超える距離からの狙撃は考えられませんが、捜索範囲を広げましょうか?」
部下の梁振栄 大佐の話に頷いた時だった。
「西海の発射施設が攻撃を受けた模様です!」と伝令が飛び込んできた。また、隠蔽していた移動発射車輌が爆発したとの報告が入ると、再び軍の参謀本部が騒然としたものへと変わった。
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一本の動画が投稿され、早朝のアメリカ大陸を含めて世界中で騒ぎとなっていた。
新アカウントの登録地と動画が投稿されたのは、カンボジア・プノンペンとなっていた。
動画の男は「金日成の曽孫、祖父・金正日の長男・故、金正男の長男」を名乗っていた。撮影場所はリゾートホテルのようで、窓の外には海が見える。
「マレーシアで父、正男を殺した正思と李々将軍は、我々の手のよって射殺された。我が人民の生活を脅かし続けたミサイル発射施設も爆破した。愛する諸軍人が我々を捕らえるのは、最早無理だ。既に狙撃チームは第三国に向けて、豊穣なる故国を発っている頃だろう。
我が国の忠義ある軍の諸君、親愛なる国民の皆さんはどうか落ち着いて欲しい、曽祖父・金日成、祖父・金正日、父・正男の長男である私、金正照は正統なる後継者なのだ!」
極めて短い動画だった。
アメリカ政府が保護している金正男の正妻の子とは異なる、子息を名乗る人物の登場に慌てるのと同時に、動画の人物が金正思総書記の殺害を述べたので、世界中で一斉に報じられる。
東シナ海で共同訓練中だった日米の艦隊と航空機は合同演習を中断して、北朝鮮の動向を注視しているという。在韓米軍と韓国軍も警戒態勢を取っているという。
国連は安保理の開催を行うと発表する。
中国とロシアの両外相は「状況の確認中だ」と緊急会見で述べていた。
アメリカの報道官は、
「故人の長男だという人物の登場にただ驚いている。我々の元ではあなたの弟にあたる方を保護している。後継者がどなたが相応しいのか北朝鮮の人々に問いたいので、どうか名乗り出て欲しい」と発言していた。
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「金正照」なる人物が動画サイトに現れて、総書記の殺害とミサイル発射施設の爆破が伝えられてから5時間が経過しても、北朝鮮は何も報じていなかった。
韓国内の米軍平沢基地に戻ってきたCIA極東本部本部長のサミュエル・アッガスは、モリと翔子の帰投をただ待っていた。
作戦の成功は2人の生還を持って初めて成立する。
方や、米軍内は既に浮かれた状況になっている。韓国や日本にミサイルが落ちる可能性はあっても、グアムのアンダーソン基地を含めて、アメリカ本土が北朝鮮から狙われる可能性は現時点で無くなったからだ。
プルシアンブルー製のAIが作成した動画も現時点では創作されたものだと追求できた国も企業も今のところは居ない。
動画を北朝鮮も把握している筈だからこそ、北は「まだ何かあるかもしれない」と警戒して次の手を打てずにいるのだろう。
このまま中国が春節入りして、ロシアが全体像を把握できなければ、犯行偽装は成立したことになる。
モリが計画したプランを、最終的に作戦自体を託されたのは、流石に本人には予想外だったのだろう。「暫く考えさせて欲しい」とアッガスに告げた。
「モリは総書記を狙撃しないだろう」とアッガスは思いながらも、モリの能力に賭けた。
総書記に命中したかどうかは別として、”狙撃”までは米軍の特殊部隊の隊員でも出来たかもしれない。
狙撃担当が置かれる環境も過酷なものだった。通信傍受を警戒して、衛星との通信が1日数分に限定され、対象制圧後は完全に通信が遮断された状況下で脱出する芸当は、プロ中のプロでも引くレベルで、作戦遂行は極めて難しいと特殊部隊のリーダー達が指摘したが、アッガスには作戦立案者のモリが、薄っすらと笑みを浮かべている様に見えたので、モリを指名した。
幾ら立案者だとはいえモリはアメリカから見たら民間人だ、大反対が起こった。
「狙撃しないかもしれないが、それでも良ければ」とモリは最終的に受け入れた。
アッガスは完全に見誤った。モリが総書記だけでなく、軍の重鎮まで討ち取ってみせたからだ・・
「次はビルマなのだろう?そっちが君の本丸の筈だ、なんとしても帰ってこい・・」
アッガスは祈るような気持ちで作戦室で待機し続けた。2人の生存を真っ先に確認したかったからだ。
***
冬季のこのタイミングで作戦を立案したのは、厳冬下にある朝鮮半島で食料配給量の著しく下がった北朝鮮兵のパフォーマンスを考慮したからだ。飢えが常態化し、粗末な防寒服しか纏っていない兵士達が、どの程度 捜索し続けることが出来るのか?を想定した。
平壌市内には黄海に注ぐ大河、大同江が流れている。犯行グループが逃亡する河川として真っ先に警戒するのは目に見えていた。
米軍の作戦立案者も小型潜水艇で大同江を下り、40キロ下流の黄海へ出て、韓国の領海内で回収する真っ当なプランを描いた。しかし、モリと翔子は平壌郊外の山中の穴の中に数日間潜んでいた。
もう何度目だか分からないほど重なり合い、歓喜の声が穴から盛大に漏れようが全く遠慮せず、翔子は己の喜びを全身で表し、詠い続けていた。
一度、寝ていた翔子が飛び起きて、モリに服を着るように命じたことがあった。
「何かが来る?」拳銃を構えて待機していると、翔子が笑顔になって「猫ぐらいの大きさの動物です」と言うので、そーっと上蓋を持ち上げると、ハクビシンかテンだろうか?逃げ去る黄土色の毛並みの小動物の後ろ姿を見た。それが唯一緊迫した時間となった。
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「李々将軍が暗殺された。犯人を捕まえろ、疑わしい者は全員ひっ捕らえろ、逃げるものは射殺しても構わん」総書記名で全軍に通達が出されてから、3日目の朝となった。
平壌首都防衛隊とキム家の親衛隊30万人体制で隈なく捜索して得た手掛かりは、射撃の視察をしていたと思われる狙撃現場から1.3キロ離れた直線地点の一箇所だけだった。
柔らかな土を掘り返すと、機械で掘ったような直径3メートル深さ1.5mの穴で、穴の中には食品が入っていたと思われる分解性のプラスチックの袋が24数見つかった。その5m先に排便に用いた穴も見つかった。便と袋は鑑識に回して指紋や血液検査等をしている。排便の中に寄生虫が見られないので、北朝鮮外の人物と言うのは特定できていた。
北朝鮮の農産物は人フンを始めとして家畜のフンを肥料としているので、寄生虫の卵が付着しており、食すのと同時に寄生虫を体内で孵化・生育してしまう。この人糞中に一切寄生虫の痕跡は見当たらなかった。
同じ場所で新たな穴が見つかったと言って、土中に捨てられていた発見物が軍の鑑識課に持ち込まれた。
紙ファイバー製の下着でブラジャーもあった。そして使用済みのコンドームと精液と生ゴムの外側の分泌物から、少なくとも男女のペアで、男はB型、女はO型というのは分かった。
以上から、その場所で24時間以上は居続け、式典会場を監視していたのは間違いないと鑑識は軍に報告する。鑑識官達が最後まで悩んだのが、使用済みのコンドームの数で32もあった。
24時間滞在とすると1時間経たずに行為をしていたことになるので、2人ではなく交代制で6人以上は居たか、退廃した韓国なら性転換した男同士のペアで、互いに掘り合っていたかもしれないとレポートしたので「犯人たちは2人以上で、女性に扮している可能性がある」と触れ回り、平壌市内の女性達は数人で纏まっていると軍人に声を掛けられるようになる。
そもそもの対象を鑑識が特定できなかったのも有るが、今年最強の寒波が押し寄せていたので、軍の待機所のある街中を中心に捜索するようになっていた。
使用済みのコンドーム中の精液を、行為直後にスポイトで採取して、翔子の愛液を歯ブラシで擦った新たなコンドームに分配する、という史上最低な役割を担ったモリと、AIによる長期予報の作戦勝ちだった。
虚ろな顔をして息を整えている翔子が、「勿体ない・・」と発した呟きを、モリは一生忘れないだろう。
(つづく)