青春の匂い
変態サイエンティスト”阿波よくば”は外科医として勤務した後、大学院で研究を始め、現在アメリカで二年ほど研究生活を送っている。
私の住むフィラデルフィアという街は日本ではあまり聞き馴染みがないと思うが、ワシントンD.Cが出来るまでの首都であり、憲法の草案が作成された場所でもあるなどアメリカでは歴史的に有名な街だ。この街は日本と同じく四季が豊かで、ちょうど今の時期は満開の桜を楽しむことが出来る。
アメリカで2年も生活していたら日本が恋しくなるんじゃないのなんて尋ねられることもあるが、今のところ日本を恋しく思ったことは一度もない。というか一生こちらに住んでもいいなとさえ思っている。(金銭面で現実的には厳しいのだが。)
アメリカに住んでいても日本のテレビは見れるし、ほとんどの食材は手に入るし、夏はテニス、冬はスノーボードを堪能することが出来る。唯一の不都合は家族や友人に直接会えないことだが、最新のテレビ電話はその欲求を忘れさせるのに十分な性能だ。私の両親などは海外留学を海外旅行とでも勘違いしているのか、携帯やアイパッドのトラブルに託けて、週一で電話をかけてくる。
すっかりアメリカ生活に馴染んだ私が、ふと日本の生活を思い出したのはほんの数日前。ラボに郵送されてきた試薬の箱を開けた時のことだった。開けた瞬間つーんと強烈な刺激臭が鼻を駆け抜けた。思わず涙が滲む。これホルマリンだな。不意に懐かしい記憶が頭を駆け巡った。毎日手術でクタクタになった日々、標本の整理、厳しかった上司…。
ホルマリンは標本や組織を固定するのに使う試薬である。手術が終わった後、切除した検体をホルマリンに漬けるのが私の日課だった。研究でもサンプルを保管する際によく使用している。
「なんか臭いけど、それ何?」と隣で実験をしていたスネ夫(アメリカ人の同僚)が不意に私に声を掛けた。「ホルマリンが届いたんだけど、多分漏れてる。」と私が答えると「そっか、じゃあ漏れている証拠の写真撮っておいてくれる?」と冷静な答えが返ってきた。思い出に浸っているのに興が冷めるなと思いつつ、そういえば私もいつもホルマリンを使っているのに、なんで今まで何も思わなかったんだろうとふと気づいた。
手袋を着けた後に少し黄ばんだ白衣にさっと手を通すとホルマリンの刺激臭がきらきら揺れた。暑がりのスネ夫が設定した少し寒めの実験室で、遠心分離機がいつもと同じようにカタカタ音を立てていた。きっと涙が滲む位強いホルマリンの臭いをスネ夫は嗅いだことが無いのだろう。「あの頃は大変だったな。」ぽつりと呟いた私の声に答えるかのように、隣のスネ夫が「写真終わったら早々に換気扇の所に持っていってくれる?」と私を急かした。ホルマリンを換気扇の下に運ぶ私は黄ばんだ白衣がいつもより少し軽く感じていた。
注)阿波よくばは特殊な訓練を受けています。ホルマリンは有害で、危険ですので絶対に匂わないでください。
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