鈴木泰裕(すずきたいゆう)

自分の考えてる事や思いとか、色々と書きたい。

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最近の記事

アフターコロナの大予測

技術革新とそれによる生活の変化は昔は戦争によって行われてきた。 しかし、今はコロナウイルスによって、変化がもたらされようとしている。 特に注目されるのが在宅ワークである。 鈴木の会社でも、4月12日までは在宅ワーク期間であり、業務はきちんと回っているのである。 在宅勤務で最も大きいのは、通勤準備と通勤時間を無視できること。究極は、8時50分に起きて9時業務開始ということも可能なのだ。 そして、仕事が終わったら、直ぐに自分の時間にあてられるのだ。これは最高すぎる。 そんな、在宅

    • TM NETWORK

      鈴木が青春を無駄に過ごした90年代後半から00年代前半くらいの雰囲気というのは、同調圧力により多様性とか、個性とか、そういうのを排除するような社会だった気がする。少数派、弱者に対しての配慮が欠落した社会で、屈折した青春を過ごしていた。 そんな中、TM NETWORKを知ったのは、再放送で見たシティハンターのGET WILD。演出もあって、かっこよかったのを覚えている。 中学生だった鈴木はCDレンタルショップでTIME CAPSULEというベストアルバムを借りて、GET WI

      • コロナウイルス狂奏曲

        2020年の年明け、こんな事になるとはだれが予想しただろうか。 コロナウイルスの影響もあり、この木金は在宅ワーカー。テレワーク。 今の鈴木の業務内容なら、ネット環境があれば普通に働ける。 皮肉にも、オフィス不要で働けるなと思った。 オフィス不要というのは、別に東京近郊に住む必要がなく。 第二の故郷の広島だろうが、母が住む栃木だろうが何処でも働けて、都内と同じ給料がもらえるなと。 テレワークの壮大な社会実験のようにも見えてきた。 テレワークとか導入できる規模の企業ならともかく

        • 引っ越しから倒産まで(96-98年)

          1996年の時だったと思う。 鈴木家は与野ハウスから引っ越しをすることとなる。 場所は、国道17号線沿いの、引っ越し当時はデニーズがあった建物の5階。家賃は10万円。当時の与野ハウスが60平米後半、そして引っ越し先が3DKの50平米前半と、これまでに住んでた家からだいぶ狭くなった。 そして、転校はないものの、小学校からの距離は遠くなった。遊ぶ場所も無くなり、外で遊ぶ機会は減った。 入っていた子供会も、与野ハウスの時よりしょぼくなった。 子どもながらに、都落ちというのを感じた。

          埼玉県与野市(与野ハウス)の思い出

          1992年12月。 家族は埼玉県の与野市(現さいたま市)にある、与野ハウスというところに移り住んだ。 丸増マンションと違い、ここは今も存在する。 日本初の、高層マンション。今で言うタワマン。 後で調べたら、そんなホームページ上の記載があった。 1976年生まれのマンションなんで、その当時で築16年である。広さは3LDK。 最寄り駅は埼京線の北与野駅。直線距離で徒歩2分。 父親の勤務先が大宮だったので、最高&最強の立地条件である。 家賃は、母親に聞いた話だと12万ほど。とはい

          埼玉県与野市(与野ハウス)の思い出

          北海道札幌市北区新琴似の思い出

          鈴木の物心がついたときの記憶をたどると、北海道での生活になる。 1985年4月、鈴木が生まれてから1992年の11月まで、鈴木は北海道にいた。 公文教育研究会に勤務していた父親の転勤によるもので、最初は函館、次に札幌に行った記憶がある。函館の記憶は無いが、札幌にて新琴似幼稚園と新琴似小学校に通っていた記憶がうっすらとある。住んでいたのは新琴似駅の近く、丸増マンションというマンションに住んでいた。目の前は大きな公園で、そこでよく遊んでいた。 マンションの間取りを思い出すと、3

          北海道札幌市北区新琴似の思い出

          今年の目標

          今年の目標「真剣に遊ぶ」 ということで、年末年始に死ぬまでにやりたいこと100を作った。 で、その100個を今年の手帳を見ながら、スケジュールに落とし込んでいった。 やりたいことのなかには、相手がいるもの・・・例えば、解散したアーティストのライブに行くとかを除けば、大体のことは「お金」と「時間」で解決できることがわかった。 「お金」は兎も角、時間を確保する方法を考える。 真剣に遊ぶには、自由に使える時間が必要なのだ。 自由な時間を増やす方法として真っ先に考えるのは仕事時間の

          「永遠が通り過ぎていく」を観て

          微々たる金額だが、鈴木が初めてクラウドファンディングに出資した作品が完成。 2019年12月20日(金)戸田真琴監督の映画「永遠が通り過ぎていく」を観に、アップリンク吉祥寺へ。 雰囲気の良い映画館で、クラフトコーラの伊良コーラが凄く美味しくておすすめ。 映画の内容について。 最初からクライマックスシーンを連続で観ているようで、初見では登場人物の人間関係や背景や心情を上手く掴みきれなかった部分があり、話の大枠を捉えるだけに終わってしまった。 例えば、監督の解説文や登場人物の背

          「永遠が通り過ぎていく」を観て

          広島での宿

          三連休、広島に向けて旅立つ。 金曜日から移動の、セミ3泊4日である。 仕事が忙しくなければ月曜日休んでいつも通りクルマでいったろうと思っていたのだが、そんなわけにも行かず、東京発の新幹線終電を使う。 広島というのは、ビギナーにとっては宿を取るのが難しい土地だと思う。 初めて行ったとき、広島駅前に宿を求めたが広島の中心部ではないのだった。 今でこそ土地感覚はあってどこに泊まればいいかは解るのだが、当時の鈴木にはそれが無かった。 鈴木はよくカプセルサウナを利用する。 風呂とサウ

          車いすバスケット

          先日、9月1日(日)車いすバスケットの国際大会を観戦。 健常者のプロやアマチュアを含めて、初めてのバスケットボール観戦となった。 会場は武蔵野森総合スポーツプラザ。味の素スタジアムの隣。 特Pという個人の駐車場を時間貸しするサイトで、近隣の駐車場を借りてバイクでGO。 高速を使い1時間ほどで到着。 近くのステーキ屋で食事をしてからいざ観戦。 会場には、後のニュース等を確認すると3000人ほどの観客がいたそうだ。 観戦したのは、女子のオーストラリア戦と、男子の韓国戦の2試合。

          高校野球=現役時代という謎

          鈴木は草野球を大学時代から15年ほど続けている。 下手だけど野球が好きだから続いているのだ。 草野球内で高校野球をやっていたメンバーは「現役時代は~」という言い方をする人が多い。「現役時代はもう少し動けた」とか「現役時代は○本ホームラン打った」とか。 この「現役時代」という言い方に鈴木は非常に違和感を覚える。 では、今お前がやっているのは一体何なのだと。今も野球をしてるのでは無いか。 「現役時代」という言葉が許されるのは、引退したプロ野球選手と何かしらの事情で完全に野球か

          高校野球=現役時代という謎

          考えてること

          やりたいことをやってから死ぬと決めた。 やりたいことが多すぎるのだが、その中に「会社で出世する」とかそう言った要素が無いことに気づいてしまった。 社会人になって10年を超えると、自ずといろいろなモノが見えてくる。 最初のギャップを埋められないまま10年が経った。 所謂成果主義の会社で働いているのだが、成果主義などは経営者側にとっては大きいメリットを持つ。しかし、評価査定方法が納得できず、長年たっても評価は上がらず、給与も上がらず。人間関係も悪化してモチベーションも下がる一方。

          早稲田大学卒業の父が風俗店を経営した結果www

          タイトルは、よくあるまとめサイト風で。 「出会い系喫茶」の独立開業にあたり、埼玉県の学習塾の社長とオリコから金を借りた。 借金の総額1200万。 そもそも、勝算の無い商売というのは金を借りてまでやる必要は無いのである。 しかし、父は家族に相談をする前に独立してしまった。 「人材派遣会社」をやるからと嘘をついてまで独立したのだ。 (まぁ、人材派遣には変わらないが・・・) 学習塾からの独立前も含め、約10年ほど風俗店を経営していた父。 独立開業してから数年間は上手くいっていた

          早稲田大学卒業の父が風俗店を経営した結果www

          父と風俗店経営

          父は、会社の社命として風俗店の経営をすることになった。 社長は学習塾とは別会社の名義で運営するよう指示した。 父は有限会社を立ち上げることになり、一人社長となった。 埼玉県の有名学習塾が風俗店を経営している。 この事実が明るみになると社会的に問題があるので、別会社で父を社長に仕立て上げたのだ。普通に考えれば、倫理的に考えても、「学習塾が風俗店経営などやめた方がいい」と止める人がいそうな物である。しかし、この頃の父はほぼ社長直下で部下なしで働いていたのもあったので、今でも某学

          父と某学習塾

          鈴木がその学習塾を知ったのは、小学6年の時である。 理由は忘れたが、そこの塾の夏期講習に行ってみたいとせがんだ。 夏休みの2週間ほど、自転車で15分くらいかけて毎日通った。 授業自体は、面白かった記憶がある。 なので、この塾は父が務める前から知っていたのである。 父は再就職の時「教育関連は嫌だ」と言っていた。 公文式での経験を引きずっていたのだろうか。 教育関連の会社は、所謂学歴至上主義なところがあるそうだ。 花形部署としては、公文の教材を作っている場所だった。 大体は、東

          父と通販会社

          公文式を辞めた父は、通信販売をする会社に入った。 後から聞くと、個人経営に毛が生えたような中小企業である。 正直、何やっていたのかも、その会社に入った経緯さえも、よくわからない。 当時の母には「公文式の説明をするときにスカウトされた」と言っていたが、 離婚のタイミングで「チラシを見て電話をした」ということが発覚した。 話が違うし、もはや何を信じていいのかわからない。 その通信販売の会社は、本当に、個人経営に毛の生えたような数人規模の会社で、父は役員になっていた。母の話によると