
何を自由にして、何を規制するか? -衆議院選挙2021秋-
結婚、という言葉ほど憧れと賞賛、そして政治的な議論にさらされている言葉はないでしょう。ある人々は両親に祝福された男性らしい男性と女性らしい女性の組み合わせ以外は結婚するべきではないと考えており、別の人々は結婚の本質は愛であり男性同士や女性同士でも多様な結婚のあり方があると考え、またある人々は結婚そのものが人を不幸にするので結婚制度をなくしましょうと考えるかもしれません。
私たちは二つの世界に生きています。生産する世界と消費する世界、商品を生み出す世界とその商品を利用して生活する世界です。
私たちは働き、結婚して、家庭を作ります。
さて、資本主義では、生産活動と消費活動が、商品を作る作業と子どもを作る作業が別の空間で行われているので、それに合わせて法律も生産活動向けと子育て活動向けの二つに分けることができます。
公私二領域。公的な活動に制限を加える法律と、私的な活動に制限を加える法律が考えられます。
法律というのは、何となく作るものではなくて、基本的には憲法と慣習、そして政治理念に影響を受けて制定されます。
つまり、企業はどのように運営されるべきなのか、そして男女の関係、家庭や個人はどのようにあるべきなのかという思想があり、法律はその思想の影響を受けてしまします。
経済発展のため、企業はひたすら利益を追求するべきである。
結婚制度は古いので、男女は結婚せずに独身を貫くべきである。
そのようなことを考えて、法律を制定します。
もちろん、保守と革新という言葉があるように、政治思想というのはどのような法律を制定するのかではなくて、そもそも法律を制定して良いのかという前提から議論されます。
ここで私たちは二つの立場を考えることができます。
社会活動、経済活動、企業の活動、このような公的(生産活動)な領域に関しては国家は関与するべきではなく自由にするべきだという思想。
同時に、結婚制度や宗教、文化などの私的(消費活動)な領域に関しては国家は積極的に関与するべきだと考える立場です。
つまり、生産は自由にして良いけど、何を消費するのかは法律で決めていきましょうというのが第一の立場があります。
もう一つの立場は逆で、社会活動、経済活動、企業の活動は国家が積極的に関与するべきだという思想です。つまり、企業と国家は協力して経済を発展させていくべきだという思想です。
また、同時に、消費活動は個人の自由にするべきであるという思想です。
消費活動には、結婚や育児、そして宗教が含まれます。消費とは家庭のために存在するからです。
このように政府は経済活動を企業と協力して担い、そして家庭に関しては個人が自由にするという第二の立場が存在します。
ここで私たちは国家が何に力を入れて欲しくて、何に関しては私たち個人の自由にしてほしいのかを選ばなくてはなりません。
国家は経済活動に責任を持つべきなのか?
それとも、国家は個人の私生活に責任を持つべきなのか?
選挙とはまず、この二つのどちらが正しいのかを選ぶ行為です。
これは同時に、正しい結婚のあり方を誰が決めるのかという問題と深い関係があります。
もしくは、結婚とは何かという問題と関係があります。
もともと、結婚とは宗教が担っていた仕事です。冠婚葬祭は宗教が担い、そのため家庭生活はどのようであるべきなのか、あるいは私たちの生き方は神道や仏教、そして儒教を学んだ人たちが指導していました。
問題は、神道や仏教、そして儒教の教養がある人たちを差し置いてただ選挙で選ばれただけの結婚の素人である政治家が法律を定めて、指導して良いのかという問題です。
この問題にたいして、第一の立場では良いと考えます。むしろ、日本らしい日本を守るためには国家が積極的に関与すべきだと考え、そればかりか自分たちが日本らしい日本とは何かを判断して決定します。
たとえば、自由民主党などはこの第一の立場に近いです。
いっぽう、もう一つの立場は神道や仏教、儒教の教養がある人たちには彼らを信頼して自由に活動してもらいましょうという立場です。
政治家は神道の専門家ではありませんし、仏教の教えを深く理解しているわけではありません。
そのような教養のない人たちが、神道や仏教、儒教の指導者に指図するなどとんでもないことだと考えるのが第二の立場です。
「信仰の自由」が存在するのは、剣道や空手の師範が語る道徳論に、政治家ごときが口出しするなと考えるからです。書物にて過去を学び、修行して、過去を未来に伝える彼らの深遠な思想は、政治家ごときが独断で解釈して良いものではないと考えます。
そして、国家に許されるのは経済活動の支援であり、道徳活動ではないと考えるのが第二の立場です。
ここで私たちは政治家が新しい宗教を作ろうとする立場と、そして伝統的な宗教を信頼する立場に分かれます。
国家が道徳に関与する立場と、経済に関与する立場に分かれます。
多くの人にとって意外かもしれませんが、第二の立場にもっとも近いのは日本共産党だと推測できます。
なぜなら、共産党とは物質的な豊かさは国家が保証して、精神的な豊かさに関しては民間に任せる立場だからです。
国民の雇用は政府が責任を持つ。その代わり、私生活、結婚に関しては個人が自由にしてねというのが共産主義です。
日本共産党は「正しい日本人らしさ」とは何かを自分たちで決定することはありません。
正しい家庭、結婚とは何かは神道や仏教、儒教というそもそも古来からその役割を担っていた人々の役割なので。
そして、国民一人一人の責任で行われることなので。
もともと、マルクスとエンゲルスはフランス革命以降に生まれた、自由主義という独善的な思想に疑いを持っていました。
哲学者が決めた独創的な倫理に、国民全員が一律従う。
このような観念論、理想主義や自由主義を危険だと感じて、倫理や道徳は哲学ではなく日常の現実から考えなくてはならないと考えました。
理想を個人に押しつけるのではなく、理想的な人間の姿という結論を先に決めることなく、問題が起きたら、そのときに日本社会が必要とすることをなしていきましょう。
そして、国民が主人公であるとは、自由主義の理念、政治家の独断による日本らしさではなくて、神社や寺、そして最近では小説や音楽、デジタルゲームなどの多様な世界から国民が自分たちの文化、自分たちの生活を選んでいくということです。
告白しますと、私は自由主義、新自由主義、自由放任主義、人間主義、自由人間主義、理想主義、個人主義、自己責任主義、カント主義、観念論という伝統的に日本では「保守」に分類されているような人たちが、なぜ自分たちが日本の伝統を尊重していると信じることができるのかを理解できたことはありません(天皇崇拝の「右翼団体」は理解できます)。
また、新自由主義や自由放任主義、自由主義の人たちが、なぜ自分たちが政権を取らないと日本の伝統と地域の繋がりが破壊されると主張できるのかを理解できたこともありません。
カントは自由とは服従だと考えました。
私たちには二つの道があります。イエス・キリストの教えに服従する生き方と欲望に流される生き方です。
楽しいことは悪いこと。
社会や伝統、欲望から自由になる。聖書に書かれているイエス・キリストの教えのみに服従する。
これが自由主義の基本的な倫理観だと思われますが、これは本当に伝統的な日本らしさなのでしょうか?
地域の文化(芸術やエンターテイメントも含む)を大切にする、政治家による自由主義の押しつけに反対する日本共産党は、本当に日本らしさを破壊するのかは議論する必要があります。
今日は以上です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。