吉本隆明を好きなセンセイ 暇刊!老年ナカノ日報⑮ 2022.2.25
吉本隆明のファンをやってます
ぼくは吉本隆明のファンです。20歳になるころまでまるで知らなかったんですが、何人かの人から名前を聞くようになり、ある人から、当時ぼくが熱心に読んでいた真崎守の「共犯幻想」について、「あれは吉本の「共同幻想」という考え方から出てきたんだよ」と教えられるに至り、吉本を読んでみなければと思うようになったわけです。
当時所属していた現代文学研究会というサークルの部室に「文芸」のバックナンバーが散らばっていて、吉本の「情況」が連載されていました。その中の「収拾の論理」「畸形の論理」「倒錯の論理」などの、主として大学紛争が収束させられて行く過程を扱った文章に、ぼくは衝撃を受けました。そこには、かつて信じていたものすべてを根底から失ってしまった人間の憤りが沸騰していました。
意味や価値のあることをやっているなどと考えるな。好きだからやっている、どうしても捨てられないからやっているだけだということを自分に言い聞かせろ。
人間は、自分が取り組んでいるものに対し、何の価値も認めない他者が存在することをしばしば忘れる。そういった者の存在を無視し、見下すことから堕落が始まる。
ぼくたちは、いつでも何の価値もない裸で孤独な者として他者の前に立たねばならない。
吉本隆明はどこにもそんなことは書いていませんが、ぼくは吉本の文章から、そんなことを語られていると感じました。彼が現実の事象に向けてぶちまけているやりきれなさや憤りは、ぼくが漠然と感じていながら口に出していなかったことそのものだと思いました。吉本隆明はまさに先導者でした。
それからいくつかの文章を繰り返し読みました。まるで歯が立たず投げ出したままの本もたくさんあります。ぼくは彼の思想も思考も理解できていないと自覚しますが、彼にとことん影響を受けていることも間違いない。どんなに浅はかな誤読を重ねているとしても、ぼくが吉本の放つ磁力の中で自分を作ってきたことは否定できない。ぼくはたぶん終生忘れられない吉本の何行かを自分の中に抱えている。
ほんの偶然からぼくはあるとき、吉本の何行かを抱えて生きている人に会いました。以前、久保元宏さんがやっている「共犯新聞」というウェブサイトのゲストブックに書いたことですが、もう一度書かせてもらいます。名前も知らない、たぶんもう二度と会うことのない人のことです。
夜の徳澤園でセンセイが語ったのは
3年前の秋、ぼくはぼくより少しだけ若い、つまりおっさんである友人2人といっしょに、上高地から槍ヶ岳をめざしておりました。もともと天気予報は悪く、何とかなるんじゃないかと歩きはじめたものの、予想以上に雨脚が強く、10時すぎには戦意つきてギブアップ、徳澤園に転がり込みました。ここは山小屋の料金で旅館なみの食事を出してくれるところで、ぼくたちは受付をすませ、11時から外食堂でビールを飲み始めたわけです。
昼寝をして夕食は内食堂です。われわれおっさん3人組は、3人連れの家族と相席になりました。60代半ばくらいの少し陰のあるインテリ風のお父さん、そこに寄り添うようなお母さん、いかにもしつけ良く育てられた感じの娘さんの3人です。最初はあたりさわりのない話をしてたんですが、何がきっかけだったのか、おっさんトリオとお父さんはけっこう話し込んでしまいました。食事が終わり、僕がお父さんを「どうですか、ウイスキー持ってるんですけど外食堂で飲み直しは」と誘うと、お父さんは顔をほころばせ、これまた持参のウイスキーを持って来てくれました。そのころには僕たちはお父さんのことを「センセイ」と呼ぶようになっていました。
たいてい山小屋には、持ち込んだ酒とつまみでぼそぼそ話ができるスペースがあるもので、初対面の人間がまるっきりうちとけて話し込み、名乗りもしないまま翌日には別れていくこともよくあるんですが、この日もそんな感じでした。そのうちセンセイが「なんだかんだ言ったって、日本の規律正しい軍隊は、ガムをくちゃくちゃやってるアメリカ軍に勝てなかったんだよ」と言いました。驚いたぼくが「それ吉本隆明ですよね」と尋ねると、センセイも驚きながらうなずいてくれました。それから話はセンセイの若かりし日に移りました。酔っぱらってかなり忘れてしまったし、センセイもあまりはっきりとは言わなかったんですが、70年安保のあおりで大学をやめたり仕事を変わったり、いろいろあった末に今こうしている、ということのようでした。
吉本隆明のどの本が好きかとか、どう思うかとか、センセイの人生にどうかかわったかとか、そんな話はしませんでした(と思う)。ただ、食事の場で奥さんや娘さんに話しかける時の優しいけど折り目正しい口調、軽く酔いながら自分のこれまでと今を話す訥々とした言葉に、吉本を真剣に読んできた姿が見えるようでした。いまの静かに幸せそうな姿が、とてもふさわしいものに思えました。
次の日、天気が回復したら槍の穂先の見えるところまでは行こうと思っていたのですが、晴れ間は少しあるものの山の大部分は雲に隠れていて、僕たちは山をあきらめることにしました。明神池を歩いているとセンセイ一家にまた出会って、センセイはもちろん、静かな奥さんや賢そうできれいな娘さんも、にこにこ笑って挨拶をしてくれました。
僕の友達二人はいずれも北アルプス初体験で、せめて穂高の稜線くらいは見せたいと思ったのですがそれもできず、悪い日に誘ってしまって申し訳ないとわびました。すると友人の一人が言ってくれました。「ぼくは、どんなことでも、実際にやったことが最善だったと思うことにしてるんです。雨の日に上高地に来て、山は見えなかったけど、雨の梓川や森が見えて良かった。それにこの日に来たから、センセイとも話すことができたんですよ」